おもひやる
しかし、ふと視界の隅に影が入ってくる。
「あら、底落ちの姫がいるわ」
「まぁ、本当……また梨壺に援助を乞いに来ていたのかしらね」
少し遠くから二人の女房らしき女たちがこちらを見て嘲笑する声が聞こえた。
「っ!」
底落ち、それは自分の蔑称だ。
人の上に立つ主上の娘として生まれたにも関わらず、自分以外の家族全員が亡くなり、後ろ盾さえもないことから、底まで落ちたという意味でそう呼ばれている。
夕凪がさっと青ざめた表情をする方向に青年の顔があった。雪子は勢いよく振り返る。
彼はただ、目を丸くして固まっていたのだ。
自分の方を見ながら。
「……っ」
そんな表情を見たくはなかった。落ちぶれた自分を憐れまないでほしいのに。雪子は夕凪の手を取り、青年の前を通り過ぎる。
「失礼致します」
「……!」
雪子は振り切るようにその場から立ち去る。出来るだけ先ほどの女房から見えない場所へ。青年が居ない場所へ。
だが、後涼殿に停めていた車はない。帰りたくても、徒歩しかないのだ。簀子まで出て、意地でも徒歩で帰ろうと階へ足をかけた時だった。
「お待ち下さい!」
夕凪を掴んでいた腕を逃れられないように掴まれてしまったのだ。
「わたくしは帰ります。お放し下さいませ」
顔は見ないままでそれだけ答える。今、自分がどんな顔をしているか分からない。
怒っているのか、戸惑っているのか、それとも―――。
「やはり、送らせて下さい。このような時間に女人が外歩きしては逆に危ないでしょう」
「…………」
雪子は下を向いていた顔をゆっくりと青年の方へと向ける。夕日に照らされるその表情は憐れみなどではなかった。
ただ、どこか必死に縋りつくように、真っ直ぐと自分を見ているだけだった。
「私とは出会ったばかりです。だから、信用してほしいとは言いませんが、どうか今だけは……頼みを聞いて下さい」
人から、頼まれることなど一度もなかった。
「あなた様は……」
雪子は夕凪を掴んでいた手を離し、階を戻る。
「どうして、そこまでわたくしを心配してくれるのですか。わたくしとあなた様は初めてあったばかりの他人です。そのような他人をどうしてそれほど気に掛けてくださるのですか」
吐き捨てるように雪子は顔を歪ませながら呟く。
「……理由がないといけませんか」
「え?」
「人を心配する。それに理由は必要でしょうか」
小さく笑みを浮かべるその姿に雪子は息を飲んだ。青年が自分を心配する気持ちは偽りなどではないのだ。
ただ、純粋に気にかけてくれているだけで、そこに裏などないのだ。
「……本当に、良いのですか。わたくしがあなた様の牛車に乗ったことで、いらぬ噂が立つこともあるのですよ」
「はい」
「一度、噂になればあなた様にも、ご家族にも支障が出ると思います。……噂とはそういうものです」
「大丈夫ですよ。女人と同乗したところで、家族に咎められることはありません。こう見えて独り身ですから。それとも出仕に影響があるほどの噂が立つのでしょうか?」
少しおどけてみせるように彼は笑みを浮かべ、掴んでいた手首をやっと離してくれた。
「姫様……」
夕凪が戸惑った様子で雪子の顔を覗き込むように見る。
「……この方のお言葉に甘えましょう」
このまま終わる身ならば、信じたいと思った人を信じてみたかった。
それに、きっとこの青年なら、徒歩で帰る自分に付いてきてしまいそうな気もする。
「それは良かった。では、こちらに牛車を停めているので、参りましょう」
穏やかに微笑する青年のあとを雪子は夕凪の手を引いて付いて行く。
後ろから眺めるその背中はどこか頼りなさそうに見えるのに、思わず頼りたくなるようなそんな背中だった。