ゆふぐれ
一成が帰ってきたのは皆が夕餉を摂り終わった後だった。どうやら、夕餉は貴明の屋敷で食べてきたらしいが、少々疲れた様子なのが気になった。
それでも、あとで話があるので寝殿を訪ねると言っていたため、それまで雪子は寝殿前の高欄に手を付きながら、紅色に染まる空を眺めていた。
「夕日はお好きですか」
足音がそれ程しなかったので、近くまで一成が来ていることに気付かなかった雪子は少し驚きつつ振り返る。
「……そう、ですね。今は好きです」
「では、昔はお嫌いでしたか」
「嫌い、というよりも寂しく感じられて……夕暮れの後にはすぐに夜が来るので、嫌でも独りということを意識してしまうのです」
家族が次々と居なくなった幼い頃は、この先どうのようにして生きていけばいいのか分からずに何度も暮れていく空を眺めては唇を噛み締めていた。
「……夕凪さんに聞きました。昨日、姫君が女御様からどのようなことをされたのかを」
いつのまにか隣にいた一成の瞳は少しばかり険しかった。
「もう、どこも痛くありませんから。七尾が持っていた痛み止めの薬が効いたようです」
「それでも、あなた自身の心は傷付いているでしょう。とても近い場所に居たのに、すぐに助けに行けず、申し訳ありません」
「そんな……。いえ、そのお心遣いで十分です。……あの場所は女人ばかりですから、きっと一成様が来たら目立ってしまいますよ」
雪子が冗談交じりにそう言うと一成は口元に手をあてて軽く笑った。
「そうですね。その点、明次と三成が女房姿で簡単に後宮に入れたことは驚きでしたが。二人とも、余程、女人のように振舞っていたのですね」
「はい。わたくしも驚いてしまいました。……本当に昨日は皆様にご迷惑をおかけしてしまい……」
雪子が頭を下げようとすると、一成が手でそれを制した。
「皆、あなたのためを思って行動したまでです。ただ、いつも世話になっているからというわけではありません。小竹さん達を含めて、私達兄弟があなたの事が大好きなのです。だからこそ、動いただけですよ」
そう話す一成の表情は出会ったあの日と全く変わらない。穏やかで優しくて、こちらもつい安心してしまうほど、落ち着く笑顔だ。
「わたくしも、皆さんのことが大好きです。一成様達がここへ来てくださって本当に良かったと思っています。この屋敷に笑顔と人の楽しい声が溢れるのは久しぶりで、わたくしも小竹達も世の中にはこれほど楽しいことがあったのだと、思い出しました」
世を儚く思う暇が、本当にないほど今は楽しい。
いや、違う。
これは楽しいのではなく、幸せというものなのだ。何気ない日々こそが本当の幸せなのだ。それをやっと、実感することが出来た。
「……皆がいなくなって、独りになって、きっとこの世にはもう何もないのだと思っていました。あの日に一成様に出会っていなければ、生きる喜びも楽しみも、そして幸せも感じないまま生きていたでしょう」
「……今は幸せ、ですか」
「はい。とても」
確証はないのに、もう梨壺がここを訪ねることはないだろうと、心のどこかで確信している。
一日一日を生きることを辛いと思わなくていいのだ。しっかりと、一つずつ実感しながら生きることが出来るはずだ。
家族がいなくなってもう六年が経つ。暗かった日々を忘れようとは思わない。それでも、心の中に仕舞ってこの先の道を進んでいきたいと思う。
一成と共に。
「一成様」
「はい」
「この屋敷を地券ごと貰って頂けませんか。……わたくしも含めて」
「え……」
雪子のまさかの申し出にさすがの一成もその場で固まる。それが面白くて雪子は小さく噴き出した。
「冗談ではありませんよ。わたくしと、ここの家人達も含めて、です」
「それは……どういう意味にとれば良いのでしょうか」
「一成様がお好きなように。……ただ、わたくしがあなた様を思う気持ちも考慮して頂ければとても嬉しいですね」
からかっているわけではないが、一成の反応が面白くてつい意地の悪いことを言ってしまう。
すると、一成は突然真顔でこちらを勢いよく振り返った。
「……夕暮れになると、雲の遥か先の果てに物思いしてしまう。天のように手の届かないあなたを恋しく思うので」
どこかで聞いた事がある歌だ。
静かに言葉を並べる一成を雪子は少しだけ見惚れるように眺めていた。
「誰が詠んだのか分からない歌ですが、とても気に入っているものです。……あなたに思いを寄せているのだと自覚した時、自分では手の届かない方だと思っていました」
一成は手を雪子の頬へと伸ばし、そっと触れてくる。
「手が届くのだと、自惚れてもいいのですか?」
温かな手が熱を持つ。
自分を見つめる瞳は逸らす事なく自分だけを捉えている。
「自惚れなどではありません」
雪子は一成の手に自分の手を添える。
「だから、わたくしも一成様の手をとりたいと思っております。これからもずっと、そうしていけたら良いと願っています」
この先も共にいけたら良いと切に願う。
嬉しいと感じることも、楽しいと感じることも共に味わっていけたら良いと思う。
「一緒に、この先まで連れて行ってくださいますか?」
雪子は静かに答えを待つ。
一成の表情に戸惑いなどなかった。
「こちらこそ、どうぞ宜しくお願いします」
一成がそう答えた時だった。
「やったぁぁぁ!!!」
突然の叫び声に二人は驚いて声のした方を振り返るとそこには兄弟達が寝殿の柱の陰から縦に頭を並ばせて見ていたのだ。
「ちょっと、次兄ってば! そんなに大きな声を出さないで!」
「ほらぁ、二人ともこっちを見てるよ! 気付かれたじゃないか」
「おいっ、上の奴。誰だよ、力入れるな! 崩れる……」
力が抜けたのか八人が一気にその場に重なり合うように転げていく。
「もう、痛いよー……」
「絶対、次兄のせいだよ」
「そうだな。明次のせいだな」
「えぇ、三成まで……」
そこで、兄弟達の会話はぴたりと止まる。
八人が重なり合う目の前には長兄である一成がいつの間にか立っていたからだ。
「お前達……いつからいたのかな?」
ここからでは表情が良く見えないが、兄弟達の顔が一気に引き攣り、一番下の成久と八代が真っ先に逃げていく。
どうやら怒られると察知したのだろう。
しかし、兄弟達の下敷きになっている明次や三成、良明は諦めたように、口の端を引き攣らせながら、視線を合わせないように他所を見る。
「えっと……最初から、かな」
明次が苦笑いでそう答えると一成が一歩また前へと進む。
「笑い事ではないだろう? 誰から聞き耳を立てると言い出したのかな?」
「明次」
「次兄」
兄弟達は同時に素早く答えると、明次は口をあんぐりと開けて泣きそうな顔をする。
「何でだよ! お前達だって気になるって言っていたじゃないか!」
悲痛な声を上げる明次とは裏腹に兄弟達はどこ吹く風で知らん振りである。
「明次。あとで、話があるから」
ぴしゃりと一成がそう言うと明次は口を尖らせる。
「えぇ~。嫌だぁ~」
「勿論、お前達も後でお説教だからね。あとで、覚えておきなさい。……はい、さっさと西の対屋へ戻る!」
一成がぱんっと手を叩くと残っていた兄弟達は一斉にその場から去っていく。
「でも、小竹さん達には今の事伝えるからねー!!」
最後の負け惜しみのように明次がそう言いながら渡殿を走っていく。
「明次! 待ちなさい、明次!!」
一成の声に制止せず、一目散に去っていく後ろ姿を雪子も遠くから眺めて小さく笑うと一成が困ったように肩を落としてこちらへと戻ってくる。
「小竹さん達は姫君のことをいつも思って行動していらっしゃるので、私の求婚を反対されるかもしれないと思うと……少し不安でして。暫くしてからお伝えするつもりだったのですが……」
そう言って頭を抱える一成を見て、さらに笑ってしまう。
「大丈夫ですよ。わたくしの事を思ってくれているというのであれば、わたくしが幸せになることなら許してくれますから」
「それなら良いのですが……」
一成は深く溜息を吐いてから、再びこちらへと向き直る。
「それでは改めて、申し上げたいと思います。直接的な言葉では言っていませんでしたので」
もう一度、一成は雪子の手を取り、真っ直ぐと見つめてくる。
「私と結婚して頂けませんか」
しっかりと握り締められた手から自分よりも熱いものが伝わってくる。彼の頬が少し赤いのは夕日のせいだけではなさそうだ。
雪子は目を細めて、大きく頷いた。
「はい、わたくしで宜しければ」
雪子が微笑むと、一成も微笑み返してくる。
「ですが、私と結婚するとなると、先ほどのように騒がしくなる事もありますが……宜しいでしょうか?」
少しだけ肩を竦めながら一成は苦笑する。
「えぇ。きっと毎日飽きることがないでしょうね」
冗談めかしてそう言うと一成が小さく噴き出した。
「確かにそうですね。毎日が楽しいことは保証致しますよ」
「臨むところです」
夕暮れの色に藍色が混じり始め、先程よりも風が少しだけ涼しくなる。
「外はもう冷えますから、中へ入りましょうか」
「……ご一緒に、ですか?」
「えぇ。……一成様とお二人で、少しだけでいいのでお話したいのです」
「では、少しだけ」
握りしめた手を更に強く力を入れると握り返してくることが、途轍もなく嬉しく思ってしまう。
寝殿の御簾を潜り、塗籠の中へと連れて行かれると一成は突然雪子を抱きしめてくる。
「……たまにでいいので、夜に訪ねても宜しいですか」
耳元で甘く囁かれる言葉に一瞬、痺れそうになるが、何とか顔を上げずに頷くと額に軽く口付けられた。
どうやら、今日が夜に訪ねるその最初の日らしい。
顔を真っ赤にして力の入らなくなってしまった雪子はその場に座り込んでしまうと、一成は優しく微笑んだ。
そして、まるで昨日の続きを始めるように唇を重ねてくる。握り締めていた手に指を絡め、雪子は涙を一つ流す。
これから、本当に始まるのだ。
自分が幼い頃から願っていた夢が叶うのだ。きっと、新しい家族と過ごす日々は、これまでのものと比べ物にならないくらい幸せなのだろう。
雪子はその穏やかな始まりをただ、忘れないようにと噛み締めていた。
完




