かさぬ
そして、後涼殿の角を曲がった先の階には牛車が停められていた。
「っ……!」
一台しかないそれは、紛れもなく貴明から借りているものだ。自分の足音が聞こえたのだろう。簾が大きく揺らいだ。
いや、違う。揺らいだのではなく、内側から上げられたのだ。
「……一成様っ……!」
そこには一成がいた。
その姿が目に入った瞬間、視界が潤んでいくのが分かる。
「早く、お入り下さい」
差し伸べられた手に雪子は縋るように掴まれて、勢いよく牛車の中へと引き込まれる。
そこへ全力で走ってきた小夏丸が飛び込むように入ってきた。本当に足が速いものだ。
上げられていた簾が下げられて、一成は外に居る牛飼童に素早く声をかけた。
「出発して下さい。出来るだけ、急ぎで」
その声に従うに牛車は動き出し、少しずつ速度を速めてくる。
「良かった、ご無事で……」
頭上からする優しい声に雪子は、本当に自分は戻って来たのだと、やっと実感した。引き寄せられた腕の中は温かく、夢を見ているようだった。
「一成、様……」
掠れた声で名前を呼ぶと、すぐに耳元で返事がする。
「はい。ここに居ます。安心して下さい。……ちゃんと、帰られますから」
帰られるのだ、あの場所に。
皆が待っている自分の屋敷に。
とうとう視界が滲んで、一成の顔がまともに見られなくなる。
「よく、耐えましたね……。もう、大丈夫ですから」
その労いは初めて会った時と変わらず、穏やかで心に響くものだった。雪子は思わず一成の首にしがみ付く様に腕を回す。
すると、体を支えきれなくなったのか、そのまま一成は後ろへとゆっくり倒れた。
声も上げずに静かに涙を流す雪子を一成はただ、抱きかかえるようにしながら頭を撫でる。溢れてくるのは悲しさや辛さなどの負の感情だけではない。
今、まさに会った瞬間に分かってしまった。
自分が一成に抱いているものは決して、ただの親しみなどではないと気付いてしまった。
会いたいと思っていた。
会って、その顔が見たいと。
優しく穏やかな笑顔と声がどうしても頭から離れなかった。
「一成様」
「はい」
その感情の答えはもう、知っている。
このひと月、一成のことばかり考えていたのだから。
「一成様が好きです。……お慕いしているんです」
耳元で息をのみ込む音が聞こえた。雪子はしがみ付きながら、離れはしない。この腕を離したら二度と、一成の腕の中に戻れない気がしたからだ。
「最初はただ、感謝の気持ちや親しみで頼っていました。ですが、今はもう違うのです。分かってしまったのです」
軽蔑されるかもしれない。
軽い女だと思われるかもしれない。
それでも、伝えたかった。
「気持ちが、一成様を想うことばかりで溢れて……どうしても、これだけは耐えることが出来ませんでした」
一成はただ静かに雪子の言葉を聞いていた。まるで、何かを待っているかのように。雪子を包み込む腕はまだ、解けていない。
「あなた様を好きだという気持ちはきっとあなた様のご兄弟が思うものとは別のものでしょう」
牛車が軋む音が激しく聞こえるのに、自分の声ははっきりと一成は届いているようだった。
「迷惑に思われるかもしれません。でも、伝えておきたかったのです。わたくしが一成様をお慕いしていると……どうしても伝えたかったのです」
「迷惑ではありません」
すぐに声が返ってきた。
耳元で聞こえるものは先ほどと違って穏やかというよりも、諭すようだった。
「迷惑ではなく……嬉しいのです。私も、姫君と同じ気持ちなのですから」
強く、抱きしめられた体がその言葉で熱くなるのが感じられた。
「最初にお会いした日から今日までずっと、お慕いしていました。その思いは日に増していき、これが恋慕なのだと自覚しました。……私もあなたが好きです」
囁かれる言葉の一つ一つに熱が帯びていく。
その感覚が夢の中ではないのだと自分に教えてくれる。
「私のこの気持ちも、姫君にとっては迷惑だと感じますか?」
「い、いえっ……。そんなことは……わたくしも、嬉しく思います……」
ただ、嬉しいだけだ。
涙が出るほど、嬉しいだけなのだ。
ふと、力が緩んだ瞬間に自分の体が床の上へと反転する。目を開けると自分の上には一成がいた。両手を一成の指が絡めていき、力さえ入らなくなる。
簾が少し揺れた時に月の明かりで見えた一成の表情は、いつも知っている穏やかなものではなく、こちらが見ていて胸が締め付けられるくらいに切ないものだった。
それでも眼光だけが鋭く光っている。
「……嫌でしたら、そのように仰って下さい。このような真似をした事を謝ります。ですが、もし勘違いでなければ、目を閉じて欲しいのです」
真剣なその表情に、雪子は先ほどまで涙を流していた事を忘れたように微笑むと、ふと一成の瞳が優しくなる。
一成の言葉に従うように、雪子は静かに目を閉じた。
ふいに自分の指に絡む手に力が入った気がした。柔らかいものが唇へと当たり、雪子は思わず少しだけ目を開いてしまう。
これほど近くまで一成を見たことはなかった。
すると、一成も少しだけ目を開けたがその視線に動けなくなってしまいそうだ。
ただ深く、深く、長い間、二人は重なり合うようにしてお互いの持つ感情を確かめ合っていた。




