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おふて


 

 「俺達は宿直でこの後は屋敷に帰られないですけど、良明から聞いた話だと小竹さんがすごく怒っていたらしいですよ。次は自分を連れて行くように言っていたのにって。もう、女御様を二、三発殴らないと気がすまないって。小竹さん、面白い人ですよねぇ」

「もう、またそのような事を……。お二人とも今日は宿直って仰っていましたが、そういえばどうしてここへ……」


 目の前を歩く二人は同時に振り返る。


「自分達が適任だって言われまして」

「まぁ、他の兄弟よりも俺達の方が内裏の通路は詳しいし、男姿よりも女房姿の方がここを歩く方が怪しまれないからって、わざわざ女房装束まで貸してもらいました。まぁ、小夏丸を思いついたのが睦明で、女人に扮することを思いついたのは一兄ですけどねぇ」


 明次は少し面白そうにそう話す。

 自分を探し、助けるために皆が色々と考えてくれたのだろう。その心に、嬉しさと申し訳なさが浮かぶ。


「皆、心配していますよ。貴明兄も牛車が後涼殿のところに停められるように手を貸してくれたらしいです」

「俺達がここに居るのも、左近衛府中将の貴明兄がうまい事言って休憩中にしてくれているらしいです」

「こりゃ、詰所に帰ったらすぐに見回り行かせられるなー」

 

 そこへ、小さな足音が後ろから聞こえ始めてくる。

 振り返ると、いつの間にか足元へと来ていた小夏丸が扇を咥えて戻って来た。見間違えようのない一成から贈られた扇がそこにあった。

「……ありがとう、小夏丸」

 雪子が腰を下ろして扇を受け取り、頭を撫でてやると嬉しそうに自ら、頭を足元へと擦り寄ってきた。

「どうでしたか? 扇、大丈夫でしたか?」

 そっと扇を開き、月の下に照らして見るとそこに描かれているのは間違いなく一成からもらったものだった。

 今日が晴れている日で良かった。でなければ、濡れた土の上などに放られていたなら、汚れがとれなかったかもしれない。

 特に目立つ傷も汚れもなくて、ほっと息を吐く。

「はい。大丈夫でした」

 扇を閉じて雪子は大事そうにそれを胸に当てる。

 それを確認してから、立ち上がり、再び歩み始める。

「良かった。大事にしてもらえているようで」

 小夏丸を抱きかかえていた三成が小さく呟く。

「え?」

「一兄、姫様と最初に会った時のこと、大事にしているみたいだから」

「最初に会った日……。夕暮れ時にお会いした時のことですか?」


 あの日、あの時、あの場所で会わなければ今の自分はいなかっただろう。

 その点では自分も一成にとても感謝している。


「そう。誰かのことをあんな風に嬉しそうに話す一兄、初めて見た」

 少し遠くを見るように三成は静かに話すとそれを聞いていた明次が小さく笑った。

「今まで、俺達のことばかり世話を焼いてきたから、女の人に目を向けることなんてなかったからね。だから、一兄にもついに春が来たって思いましたよー」

 いつの間にか、弘徽殿の前を通り過ぎ、清涼殿の渡殿を通っていた。

「そうですか……。え?」

 一瞬、何を言われたか分からなかった雪子はつい聞き返してしまった。

「……もしかして、姫様ってば気付いてない……?」

「え、あの……どういう意味で……」

 その時、遥か後ろの方の梨壺から女の甲高い声が聞こえ、やがて騒がしくなってくる。

「こりゃあ、姫様が消えたのが見つかっちゃったみたいですねー」

 明次は首を長くして、遠くを見るような仕草をする。

「のんびりしていたら追いつかれてしまうぞ」

 三成はそう言うが、既にこちらに向かってたくさんの足音が聞こえ始めてきている。

「姫様、小夏丸を一緒に持って帰ってもらっていいですか? 俺達、この後は詰所に戻るので」

「あ、はい……」

 雪子は三成から小夏丸を預かり、腕に抱えた。三人は少し小走りで後涼殿へと向かう。


 しかし、後ろからそれを止める声が降りかかってきた。

「待たれよ、そこの者達」

 冷たく、響くようなその声が梨壺にいた女房の者だとすぐに分かった。

 少し後ろを振り返った二人が雪子のすっと青ざめた表情を見て何かを悟ったのか、雪子を隠すように声がした方へと前へ出た。

「何ですの、少し騒がしいようですが……」

 本当に女としか思えないような高い声で明次がその声に答える。雪子は女房には背を向けたまま、振り返らない。

「娘を探している。梨壺の局にいたがその姿が見えなくて、女御様がお心を痛めて探しておられるのだ」

 その一言で間違いなく自分のことだろうと確信した。

「まぁ……でも、梨壺のことは分からないわ。私達、藤壺の女房だもの。ねぇ」

「えぇ。それより、急いでいるからいいかしら。……もう行きましょう」

 三成もそれまでとは違う女人の声で話す。

 あまりの違いように思わず声が出てしまいそうになるが、そこは何とか我慢した。


「このような夜更けにどこへ行くというのです。怪しすぎます。特にそこの後ろに居る者。こちらに顔を向けなさい。その後ろ姿、私共が探している娘とそっくりです」

 胸が大きく高鳴った。

 後ろを振り返れば、自分だと分かってしまう。それでは、これまで自分を助けるために頑張ってくれた者たちの努力が無駄になってしまう。

「あら、私達の連れをお疑いなの? そもそもそちらの不手際のせいなのにどうして私達が疑われなくちゃいけないのかしら」

「これは女御様にお伝えしなくては。梨壺は自分たちの不手際を藤壺の女房のせいにするほど切羽詰っていた、と」

 二人の言葉に梨壺の女房も腹が立ったに違いないが、そこを引くことはないようだ。

「疑われるような時間帯に出歩いている方が笑いの種になります。いいから、そこの者、こちらを向きなさい」

 このまま進んだら更に疑われるだろう。

「ちょっと、話を聞いているのですか!?」

 女房が雪子の肩を強く掴む。


 その瞬間、何故か緊張が解けた気がした。

 雪子は小夏丸を抱きかかえながら、深く呼吸してからゆっくりと振り返る。


 しかし、顔の目の前には小夏丸を掲げて顔を見せないようにした。

「わんっ!」

 目の前に突然現れた犬に女房は小さい悲鳴を上げる。

 だが、それだけではなかった。小夏丸はそのまま雪子の手から放れて、女房の顔へ向かって飛び込むように勢いよく突っ込んだのだ。

「ひゃっ……」

 小夏丸は噛み付いたりせずに転げるように倒れた女房の体に乗ると跳ね回りながら足で何度も踏みつけている。

「や、やめなさいっ……何です、これは……」

 しっかりと目を開ければ犬だと分かるが、女房は怖くて目が開けられないのか、閉じたままだ。

「姫様、今のうちに」

 三成が雪子の方を向いて頷く。

「後は俺達が何とかしておきますので」

「ですが、小夏丸は……」

「姫様が牛車に乗り込む時は一緒に乗っていますよ。こいつ、足も速いですから」

「……分かりました。お二人とも、本当にありがとうございます」

 二人がそう言うので、雪子は頷いてから踵を返す。すると、思い出したように明次が雪子に声をかける。

「一兄が、待っていますよ」

「……はいっ」

 

 一成が待っている。

 その言葉が、胸に深く染み込んだ。


 この女房の声を聞きつけたのだろう。他の多くの足音がこちらに向かってくるのが聞こえた。

「早くっ!」

 三成が背中を軽く押して雪子を急かす。


 雪子はいつの間にか小走りになっていた。自分でもこれほど動けると思っていなかったからだ。後ろを振り返りたいが、それも出来ないほど走っていた。

 自分のためにこれほど身を尽くしてくれる人達がいる。それを改めて感じる。

 自分は一人では生きていけないのだと、誰かに助けて貰っているからこそ生きているのだと、深く思った。

 

   


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