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のがる


 ふと、目が覚めると虫の音が聞こえた。

 いつの間にか眠ってしまっていたのだろう。


 雪子は頭を上げて、周りを確認するようにぐるりと見渡す。所々の遠くから寝息が聞こえるということはもう夜なのだろう。

 結局、夕餉さえ出されなかったので、少し腹が減っているようだが、ここで膳を出されても口にしなかったに違いない。

 体を縛っている紐はどれ程、力を入れても、動いても解ける事はなかった。逃げるなら、この時間帯が好機なのに。


 夕凪は無事に左近衛府まで着いただろうか。怪我などしていないといいが。

「…………」

 つい、声を出してしまいたくなるほど、昼間とは違って梨壺は静かだった。これほど真っ暗だと、現実か夢の中か分からなくなってしまいそうだ。

「夢……」

 このひと月近くは本当に楽しくて毎日を過ごすことがあっという間になっていた。それさえも、夢だったのではと錯覚してしまいそうだ。


 …………どうすればいいの。


 深く息を吐く音でさえ、響いてしまいそうだった。

 ここから出たい。あの場所へ帰りたい。

 今は先ほどよりも足に力が入るので、歩く事は出来るかもしれない。

 

 それでも、今の自分の手元には一成から貰った扇はない。

 蘇ってくるのは一成の優しい笑顔と穏やかな声。

 

 もう一度、会いたい。声が聞きたい。

 そう思う気持ちの正体はもう、間違いはないのだろう。

 思い出せば思い出す程、胸が窮屈になる。もう二度と会う事は出来ないのだろうか。そう思うと視界が涙で溢れてきた。

 

 だが、ふっと息をしたとき床の上を何かが歩く音が聞こえた気がした。それは人間の足音にしてはとても軽やかで、耳を澄ましていないと本当に聞き取れない音だった。

 何だろうと思い、目を凝らしながら、音がする方を見つめる。それは夕凪が去っていった方向だった。

 暗くてよく見えないが御簾向こうに何か小さな影が映り、その影はやがて御簾を静かに潜ってから雪子の方へと向かってくる。

 不思議と怖い感じはしなかった。物怪の可能性だってあるのに、雪子は至って冷静だった。


 膝の上に柔らかくて温かいものが触れる。少し寄りかかるような小さなその重みには覚えがあった。そして、縛られている手にふわり、と柔らかい毛が撫でるように触れられる。


 …………小夏丸!

 

 初めて小夏丸を撫でた時と同じ毛並みの心地だ。

 だが、懐かしく感じられたのは毛並みだけではなかった。なぜが優しい香の香りが鼻をかすめる。

 その香りが一成のものだとすぐに気付いた。彼は近くに来ているのだ。恐らくだが、小夏丸を使って自分を助けに来たのだろう。

 しかし、それだけではなかった。小夏丸が来た方向から足音が微かに聞こえたのだ。


 耳を澄ましていると、本当に集中していないと聞こえないくらいの物音だった。やがてそれはこちらへと近づき、御簾をゆっくりと物音立てずに上げて、中へと入ってくる。

 誰かが、そこにいる。影になり、よく見えないが女のようだ。しかも、二人。


 小夏丸が警戒せずにただ、尻尾を振ってそちらの影の方へと向かっていくと、向かって右側の人影が小夏丸を抱きあげた。

「……姫様?」

 聞き覚えのある声に、雪子ははっとする。

「明次、様?」

「お静かに」

 影は明らかに女人の姿をしているにも関わらず、声は間違いなく明次のものだった。

 それならば、横にいる小夏丸を抱きあげた人影は三成ということか。

 明次は懐から何かを取り出し、雪子の横へと腰を下ろす。

「危ないので、動かないで下さい」

 細く小さな刀子のようだ。

 そのまま、雪子を縛っている紐へと当てて、そっと引いていく。明次は慣れた手つきで音を立てずにそっと紐を切ってくれた。

 はらり、とその場に紐が落ちて、体にやっと自由が戻る。

「ふ……」

 思わず、息を漏らして体に残る痛む部分をそっと擦る。

「……ありがとうございました」

 出来るだけ小声でお礼を言うと明次は大きく頷いた。暗くて表情までは見えないが、笑っているようにも見える。

「お疲れだと思いますが、こちらへ」

 三成がそれだけ伝えて、背中を向けて先ほど通ってきた御簾の方へと歩みを進み始める。

 近くに身代わりとして置いていた夕凪の衣を明次が抱えて、光成、雪子、明次の順で音を立てないように十分に気をつけながら、御簾をくぐる。


 耳を澄ませば、寝息が聞こえる程の距離に、梨壺の女房たちがいる。女御はもっと置くにいるだろうが、それでも雪子の鼓動の大きく跳ね上がらせるには十分だった。

 ここでは、誰も言葉を発しない。小夏丸も状況を理解しているのが、じっとしている。

 少しでも物音を立てれば、気付かれてしまう。


 静かに、焦らずに。

 早く立ち去りたい衝動だけを強く抑えて。


 歩いているだけなのに、どれ程の時間が経ったのかは分からない。気が付けば、いつの間にか廂まで出てきていた。

 だが、また一息付けるような場所ではない。

 二人が通ってきたのか妻戸は開け放たれたままだった。そこを通り抜けた所で、雪子は大切な事を思い出し、急に立ち止まって後ろを大きく振り返った。

「わっ、どうしたんですか」

 雪子が急に止まったので、ぶつかりそうだった明次も急いで立ち止まる。

「す、すみません。あの、待ってください。まだ、扇が……」

 雪子は立ち止まり、来た道の方へと体を向ける。

「扇……って、一兄が贈った扇のことですか」

「はい。……ご存知なのですか?」

 雪子が目を大きく見開くと、明次はくしゃり、と笑った。

「そりゃあ、一兄ってば俺たちにも姫様にどのような扇を贈ればいいか、すっごく悩んでいましたもん」

 三成も賛同するように大きく頷く。

「あれ程、頭を抱えている一兄、初めて見た……」

「そう、だったのですね……」


 そこまで言われると、何だかこちらまで恥ずかしくなってくる。


「それで扇がどうしたんですか?」

「それが……女御様に取り上げられてしまって……。庭に捨てられてしまったのです……」

 本当に悔しいとしか言いようがないが、今しか扇を取り戻せる好機はない。

「うわっ。酷いことするもんだなー、女御様も。よし、小夏丸。お前の出番だぞー」

 三成は頷き、抱き上げていた小夏丸を床の上へと置いて、明次は懐から扇を取り出した。

「小夏丸、扇をとってくるんだ。姫様の扇だぞ? これと同じ匂いがするやつだ」

 小夏丸は扇の匂いを少しだけ嗅ぐと、まるで話を全て理解したかのように今まで来た道を戻っていく。

「……もしかして、今のように匂いを嗅がせてわたくしを見つけてくれたのですか?」

「そうですよ。小夏丸は鼻がいいですからね。あ、この扇は普段、姫様が使っている香を少しだけ勝手に分けてもらいました。それを染み込ませてから、小夏丸に匂いを覚えさせて探して貰ったんですよ」


 これはあとで、小夏丸に魚の干物を多めに与えなくてはならないだろう。


「小夏丸はすぐに帰ってきます。先に牛車を待たせている後涼殿の方へ向かいましょう」

「あ、はい……」

 歩き始めてそこで、ふと気が付いた。

「あのっ、夕凪は……。夕凪は大丈夫でしょうか!?」

 自分のために彼女はあの場所から逃げてくれた。

 今、この二人がここに居るということは、夕凪は無事に左近衛府に着いたということだろう。それでも、怪我などしていないか心配だった。

「大丈夫です。さすがに左近衛府まで裸足で来た時は驚きましたが、大きな怪我はしていませんでしたよ。少し、足を痛めているようでしたが、ちょうど衛府に来ていた良明が背中に負ぶって一緒に帰りました。今は屋敷で休んでいるはずですよ」

 明次は明るくそう言った。

 無事だったのだ。

「良かった……。本当に、良かった……」

 やっと胸を撫で下ろすことが出来た雪子を二人は少し口元を緩めて見ていた。

   

    

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