やむごとなし
「……はい。お心遣い、痛み入ります……」
雪子は深々と頭を下げてから後ろへと下がり、立ち上がる。
女房たちの嘲笑の中、静かに御簾の外へと出て、暫く歩いてから梨壺の見えない辺りで立ち止まった。
「ひ、姫様……?」
「ごめんなさい、夕凪。あなたの心まで、傷付けてしまったわね」
「姫様は悪くないですっ!」
夕凪は涙を瞳に溜めながら、怒っているように小さな拳を胸の前に出す。
「あの人たちが酷いんですっ。姫様は何もっ……、何もしてないのに……っ!」
普段大人しい夕凪は怒ることは滅多にない。彼女も悔しかったのだろう、自分の主が散々、嘲笑を受けていたのだから。
「えぇ。悪くないわ。でも、良かったわね。食料と着るものを頂けたわ。丁度、朝晩が寒いと思っていたから、皆の分の綿入れを作りたかったの」
「それは……そうですけど……」
「いいのよ、別に。……生きていくには、失うものもあるという事よ」
名誉や地位だけでは生きてはいけない。
だからこそ、自分はあの家の主として、しっかりしなければならない。
「帰りましょう、夕凪。きっと小竹達が待っているわ。今日の夕餉は何かしらね」
努めて明るく振舞う雪子に夕凪は何か言いかけたが、そのまま口を閉じて頷いた。雪子は再び扇を取り出し、広げてから顔を隠して牛車を停めていた後涼殿へと向かう。
全て終えた事に雪子はようやく息を吐いた。
張り詰めていた体も先ほどより動きやすい。
食料がもらえるが、今度は半月分あるだろうか。足りなければ、また針仕事でも受け持って、皆を養えばいいだけだ。
そんな事を考えながら歩いていた時だった。
「あっ……」
少し後ろを歩いていた夕凪が突然声を上げる。
「姫様、牛車が……」
「え?」
牛車を停めておいたはずの場所を見る。そこには何もなかった。
「そんな……」
かろうじて、足に力を入れることが出来たが、頭の中は真っ白だった。このようなこと、初めてだったからだ。
「わ……私、梨壺の方達に確認してきます!!」
夕凪は来た道を急いで戻っていく。恐らく、わざと牛車をどこかへ向かわせたか隠したのだろう。
そのような事よりも、今はどのようにして帰るかが問題だ。牛車がないならば歩いて帰ればいいが、道順が分からない。
それにもう夕方だ。これ以上、暗くなったら周りが見えないし、女人がこのような時間に外に出るのははばかられる。
……どうして。
惨めだ。
生きていることがそう思えるくらいに、惨めに感じる。
渡殿の床にそのまま力なく座る。
このような事なら、皆がいなくなったあの頃に、自分も連れて行って欲しかった。一人が嫌だからではない。
生きるのが辛いから、もういっそのこと、どうか―――。
「どうなされましたか」
ふと、場違いなほどの穏やかな声がその場に響く。誰も、居なかったはずだ。この時間帯は宿直の者しかいないのだ。
ゆっくりと顔を上げて、声をした方へと振り返る。片足を着いて、自分の目線に合わせるように背を低くさせた青年がそこにはいた。
「どこか具合でも?」
身なりからして、いい家柄の者だろう。青年は心配そうな表情で雪子の様子を伺っている。
雪子は微かに首を横に振る。それを見て青年はほっとしたのか、安堵のような表情を浮かべた。
「それなら良かったです。向こう側から歩いている途中であなたを見つけまして。急に座り込んだので、どうかなされたのかと思いましたよ」
向こう、と言って彼は藤壺の方を指差す。それならば、相当急いで自分のもとへと駆けつけてくれたというのか。
雪子は何かをぐっと飲み込んで、足に力を入れて立ち上がる。
「……ご心配をおかけして申し訳ありません。ご覧の通り、何もないので……」
「ですが、御気分がすぐれないのでは……? 少し、顔色が悪いようですが」
「え……」
そこで、雪子は自分の手先が驚くほど冷たいことに気付いた。この夕焼けの中で、それほど顔色が悪く見えるというのならば、相当青くなっているのだろう。
「大丈夫です」
「そう、ですか……」
だが、青年は立ち去ろうとしない。
「あの……もう、大丈夫ですので」
「ですが、お連れの方がお戻りになる前に倒れられることもありますから。私自身、急いでいないのでご一緒にお待ちしますよ」
どうやら夕凪が走り去ったのも見ていたようだ。
「それは……ご親切にどうも……」
……不思議な方だわ。
雪子は壁に少しもたれながら立つ。
だが、人が少ない時間帯で助かった。こんな人気のない場所の夕暮れ時に女人と男が一緒に居れば、怪しむ者だっているだろう。
それでいらぬ噂が立っては、ここにいる公達のような青年に大変申し訳ない。
すると、そこへ夕凪が急ぎ足で戻って来た。
「す、すみません、姫様……」
「慌てないでいいのよ。大丈夫?」
夕凪は隣に居る青年を見て、一瞬固まったが、慌てたように頭を下げて雪子の元へ駆け寄ってくる。
「それで、どうだったの?」
「あ、はい……。実は、梨壺の方の手違いで、実家の方へと女房の使いを行かせたとのことです。だから、あと一刻程待てば帰ってくるらしいので、それに乗ればいいと仰っていました……」
息が切れ切れになりながらも必死に話す夕凪の額にかいた汗を雪子は懐紙で拭ってやる。
「そう……」
恐らくわざとであろう。
前に比べて嫌がらせに拍車が掛かってきているような気がする。
「ここで待ちましょう。それとも、梨壺に近い場所で待った方がいいのかしら……」
「そうですね……恐らく牛車は嘉陽門か宣陽門に入られると思うので……」
「なら、行きましょう。でも、あそこの女房たちに見つかると面倒だから、出来るだけ離れた場所で待っていれば、きっと戻ってくると思うし……」
「もし、宜しければ同乗なさいますか」
あの穏やかな声がもう一度響く。
「お話を盗み聞きしているようで申し訳ないですが、どうやらお困りのようですので……。もし、お帰りをお急ぎならば私の牛車に同乗なさいますか」
夕凪はぽかん、と口を開けて雪子と青年を交互に見る。
「えっと、それは……」
上手く理解出来なかった雪子は首を傾げて青年に尋ねる。
「実は遊義門が修繕中でして、私もそこの陰陽門から入ってきました。それで後涼殿に牛車を待たせているのです。四人乗りですからお二人方が乗っても大丈夫ですよ」
何ともなさそうな笑顔で青年はそう言ってくれるが、こちらにしてみれば、素性の知らない男の車に同乗するのはやはり気が引ける。
すると、隣で話を聞いていた夕凪が雪子の前へずいっと割り込むように立つ。
「失礼します! ご身分の高い方とお見受けしますが、どこの誰と知らぬ方の車に姫様を同乗させることは出来ませんっ」
「夕凪……」
宥めるように雪子は夕凪の両肩を掴む。
「こちらの方はわたくしが、具合が悪そうだと心配して下さったの。……申し訳ありません、連れが失礼なことを……」
「いえ、確かにこちらが不躾でした」
そう言って青年は深々と頭を下げる。
その姿に雪子も夕凪も目を瞬かせる。身分の高い者が頭を下げるなど、考えていなかったからだ。
「年頃の女人が見知らぬ男と同乗するなど考えてみれば有り得ないことでしたね」
青年は申し訳無さそうに苦笑する。
「大変失礼しました。どうぞお忘れ下さい」
「いえ……こちらこそ」
自分の方が古着のような着物を着ているにも関わらず、目の前の青年は物腰が柔らかすぎるほど丁寧に接してくれる。
……この方は良い方だわ。
後宮を追われて以来、家人以外でこれほど穏やかで優しい人に会った事はなかった。
皆、自分の事を見下すか憐れみの目を向けるばかりで手を差し伸べるどころか見向きもしなかった。
だが、この目の前の青年は違う。見下す事も憐れむこともしない。
ただ、心配そうに自分のことを見ているだけ。