たすく
一成はその日は珍しく早く仕事が終わったが、断れなかった上官の命で他の用事を済ませて屋敷に帰ってきた頃にはすっかり夕方になってしまっていた。
中門の方は梨壺の件で閉めてあるので、最近は雑舎の方の門から屋敷へ入るようにしている。
ついでに台盤所で浜木に挨拶をしようとしたが、誰もいない。何事かと思い、寝殿の方へ向かうと小竹と浜木、そして子ども達が集まっていたのだ。
「あ、一兄!!」
「一兄! どうしよう……どうしよう!」
一成の顔を見た瞬間、兄弟達が一斉に泣き出し始める。
「どうかしたのか……!?」
しかし、そこに雪子の姿が見当たらない事を確認すると、勢いよく小竹の方を振り向く。小竹は顔を真っ赤にして、両拳を握り締めていた。
「小竹さん、何があったのですか!? 姫君はどこへ……」
「梨壺が来たんです! これを見て下さいよ!」
目の前に突き付けられた文を一成はさっと読んで行く。
血の気が引いていくのが感じられた。
「今、良明さんが明次さん達の所へ知らせに行っています。どうやら、すれ違ったようですね」
悔しそうに小竹は唇を噛み締めている。これほど卑怯なやり口をするとは思っていなかった。
そこへ、大きな足音と小さな足音がこちらへと向かってくる。
「皆、夕凪が帰ってきたぞ!」
良明と一緒に帰ってきたのは夕凪だった。
しかし、衣の裾は汚れており、所々が擦れている。
「夕凪……! 姫様は…!? どうしたのですか!?」
小竹は夕凪の肩を掴んでは大きく揺らした。
夕凪は唇を噛み締め、梨壺で何があったのか一つずつ話し始める。それを聞いて、何が何でも梨壺に行かせなければ良かったと兄弟達が悔しそうに呟いた。
「助けに……助けに行きましょう! まだ、貴明様からお借りしている牛車はあるんですよね!? それを使って……」
「だけど、梨壺に入るのは無理だ。一つの殿舎はとても広いから一つ一つの局を探して見つけて回るのは難しいと思う」
良明が苦々しくそう言い放つ。
「夕凪は姫様がいた局を覚えている?」
疲れて七尾に寄り添うようにしていた夕凪が首を振る。
「あの場所から、逃げるのに必死で……。御簾を何枚か潜ったのは覚えているけど、場所までは……」
夕凪は悔しそうに目を伏せる。本当なら、逃げたくはなかったのだろう。
だが、姫君を助けるためにはどうにかして自分が逃げなければならなかったのだ。
皆が暗い顔をしていると、睦明がそっと手を挙げた。
「あの、小夏丸に助けて貰うのはどうでしょう。小夏丸は頭良いし、鼻もすごく良いですからきっと、姫様を見つけられますし、縛っている縄だって噛み切れますよ」
その言葉に一成ははっとして小竹の方を振り返る。
「小竹さん、何か姫君が使っているものはありますか。衣でも香でも……」
「あ……あります! 持ってきます!」
すぐさま小竹は立ち上がり、雪子の袿と香を持ってくる。
「ですが、小夏丸だけでは……」
「確かに内裏だけでも十分広いですからね。梨壺までの道案内が必要ですね」
「それなら、明次兄と三成兄に頼んでみないか。兄貴達は衛府の舎人だから、どこに何があるのか分かるだろう」
「でも、男が後宮を歩くのは目立つのでは……」
そこで、ふと名案が浮かんだ。
「二人に女房のふりをしてもらって探して貰うのはどうだろうか」
一成の言葉に周りの皆が一斉に振り返る。
「小竹さん、女房装束を二着貸していただけますか」
「そ、それはいいですけど……。その案は大丈夫なんですか」
小竹は少し引き気味に不安そうな顔をする。
「彼らなら大丈夫ですよ。多分上手くやってくれます。あと、貴明の助けも借りましょう。普通の牛車は内裏の中に入れないですから」
「なるほど! 貴明兄の名前を使えば牛車が中に入れるんだな!」
良明の言葉に一成は大きく頷く。
一成は夕凪の方へ振り返り頭を撫でた。
「ありがとう、夕凪さん。おかげで、姫君を助けられそうです。……だから、安心して休んでいて下さい」
その言葉に夕凪は初めて涙を溜めて、何度も大きく頷いた。
「助けに行くのは皆が寝静まる頃です。夜なら姿が良く見えないので、こちらにも姫君にも都合が良いでしょう。いいですね?」
一成の言葉に反論するものはおらず、お互いに何度も頷き合っている。そこには梨壺に対する怒りなどではなく、雪子を助けたいと思う希望だけがあった。
必ず、成功させる。
それだけを胸に秘めて、一成は二人が居る左近衛府へ向かうために準備をしてから牛車に乗り込んだ。
夕日が沈んでいく空は、夜の色が混じり始めていた。




