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こふ


 まだ、日は落ちていない。秋になれば、夜が早く来ることは分かっていた。たくさんの御簾を掻き分け、簀子を目指した。

「……っ」

 今、御簾一枚越しに一つの影が通りすぎる。瞬間的に、夕凪は息を止めた。

 今の人影は女房だった。恐らく、ここ梨壺の。

 急がなくてはいけないが、焦ってはいけない。顔がそれほど、人に認識されていないと思うが、見つかってしまったら、終わりだ。雪子を助けることも出来なくなってしまう。

 

 ……大丈夫、大丈夫。


 落ち着いて、深呼吸する。慌てている方が逆に目立ってしまう。これは、堂々としていた方がいいのかもしれない。

 渡殿を渡る多くの足音が聞こえる。今しか、好機はない。夕凪は思い切って御簾の内から出て、すまし顔で廂へと出る。


 そこには、女房たちが几帳を立てて、どこかの公達を招いて、お喋りに興じていた。夕凪の姿は彼女たちには全く映っていないようだ。何事もないようにその場を通り過ぎ、妻戸を静かに開いて簀子へと出る。


 ふと、目の前から女官達が膳を持ってこちらへとやって来る姿が目に入った。夕凪はその女官達に紛れて、まるで梨壺に仕えている女童を演じながら、自然とその場を早足で通り抜ける。


 ……出られた。あとは、外に出られれば。


 夕凪が階から庭へと降りようとして、そこで動きを止めた。いや、梨壺から直接、外へ出るところを誰かに見られたら、気付かれてしまうかもしれない。ここは、敢えて別の殿舎から外へ出た方がいいかもしれないと思い、夕凪は体の向きを変えた。


 確か、内侍所が置かれている温明殿からなら宣陽門に近いはずだ。

 出来るだけ急いでいる事を知られないように、努めて平静を装い、なるべく早足で梨壺と温明殿を繋ぐ渡殿を通る。夕方だからなのか、人は少ないようだが、これは好機だ。

 素早く身を翻すように階から地面へとそのまま降り立った。

「っ……」

 足の裏に、みしりとのめり込むのは砂利だった。石自体は小さいが、尖っているものもあり、裸足のままだと突き刺さるように痛かった。

 だが、痛がっている暇などない。早く走れるようにと、長袴を両手で少しだけあげて、足が出るようにする。

 一歩一歩が重く感じられた。急がなければ、早く、早く。


 しかし、宣陽門と続いて建春門を出たが、どこに左近衛府があるのかは知らなかった。

 自分が物心つく頃にはすでに、三条の屋敷で雪子に女童として仕えていたため、内裏どころか、大内裏の中がどのようになっているのか分からなかった。

 人に聞けば、答えてくれるだろうか。門の前には、衛士が二人立っている。

 だが、裸足のままで、ここで左近衛府はどこだと聞いたら怪しまれはしないだろうか。

 

 夕凪は唾を飲み込んだ。

 奇異の目で見られようとも構わない。


「あのっ!」

 勇気を出して、思い切って二人のうちの一人に話しかけてみる。

「ん?」

 まだ二十歳そこそこの衛士は夕凪の姿を認めると、首を傾げた。

「何だ? どうかしたのか?」

「あの、私、えっと……。その、左近衛府に兄がいまして、家から届いた急ぎの文を届けたいのですが、場所を知らなくて……」

 出来るだけ、困っているという様子で夕凪がそう言うと、衛士の一人が小さくはにかんだ。

「そうか。そんなに慌てなくても、大丈夫だ。ほら、ここの道を真っ直ぐ歩くと陽明門という門に突き当たるんだが、その左側に左近衛府がある。今、中にいるのは、休憩している奴らばかりだと思うから、兄貴がいるか聞いてみるといい」

 衛士は親切に指を真っ直ぐと指し示してくれる。

「あっ……ありがとうございますっ!」

 深々と頭を下げて、夕凪は言われた方向へと真っ直ぐ駆け出していく。夕日に染まり始めた空の色を見ながら、ただひたすらに走る。


 ……姫様。


 自分が、雪子に女房と意識して仕えるようになったのはいつからだったか。恐らく、この「夕凪」という名前を賜ってからだろう。

 夕暮れ時の海が無風の状態の事を夕凪と呼ぶと知ったのもこの時だ。何の話をしていたのかまでは覚えてはいない。

 それでもいつか、夕日に染まる海を見てみたいと、話したことを雪子は覚えているだろうか。

 その時に、それなら、いつかその願いが叶うように「夕凪」と呼ぼうと彼女は自分のことをそう呼び始めてくれた。自分の名前に願われた一つの思い出。

 いつか、その時が来るまで。

 ずっと、ずっと雪子の傍で仕えようと誓ったのだ。


 息が、切れそうだ。

 足の裏だって、もう感覚が無いくらいに痛い。それでも進まなければならなかった。

 やがて、先ほどの衛士が言っていた陽明門が見え始める。その左側に見える左近衛府に、明次と三成がいるはずだ。


 早く、早く伝えなければ。そして、助けを―――。

「夕凪っ!?」

 突然の素っ頓狂な声に、夕凪ははっと我に返る。目の前に現れたのは良明だった。そういえば、梨壺が来た事を明次達に伝えに行くと言っていた。

 大内裏に来るためにわざわざ着替えたのか、着ているのは自分が仕立てた直衣だった。

 今、まさに屋敷へ戻ろうとしていたところだったのだろうか。

「よ、良明、さまっ……!」

 出来るだけの大声で、夕凪は叫び、良明のもとへ行こうとしたが、足元に注意を怠ってしまったせいで、躓いてしまう。

「っ……」

 前のめりに倒れそうになる体に、夕凪はどうすることも出来なかった。

 だが、砂利へと体が投げ出された痛みはなく、寧ろ柔らかい。

「……ふぅ。おい、大丈夫か?」

 頭の上で声がする。

 そっと目を開くと、自分の仕立てた直衣、ではなく、良明の胸があった。

「あっ、う、え、っと……」

 自分が倒れる直前に、支えてくれたのだろう。

 だが、今の状況に戸惑いと恥ずかしさを隠せず、慌てて離れようとするが、上手く体勢を整えられずにいた。

「落ち着け。いいか、離すぞ?」

 強くもはっきりとした優しい声に夕凪は深呼吸する。両肩に置かれていた彼の手がそっと自分から離れていき、やっと自分の足で立つことが出来た。

 だが、良明は夕凪の姿を改めて見て、ぎょっとしていた。

「おい、夕凪……」

 何が言いたいのかは分かる。

 だが、今はそれどころではなかった。

「良明様、お助けくださいっ。姫様が……姫様がっ……!」

 涙を必死に止めようとするが、自分の意思に関係なく、零れてしまう。

 夕凪は雪子が今、梨壺で捕らえられていること、そして簡単には逃げられないということを伝えた。

「お願いします。どうか、どうか……」

 喘ぐように、夕凪は懇願する。

 良明はただ、じっと何かを考えるように黙っていた。

「―――大丈夫だ、夕凪」

 はっと、顔を上げるとそこには力強く瞳を光らせている良明がいた。

「姫様を絶対に助け出す」

 真っ直ぐと自分を見つめる視線に夕凪は動けずにいた。

 このような状況であるのに、胸の奥で鳴り響く鼓動が止まらない。

「とりあえず、一度、明次兄達に話を通しに行ってから、屋敷に戻る。いいか?」

「は、はいっ」

 何とか返事が出来たが、途端に良明は自分に背を向けてしゃがみ込む。

「え?」

「背中に乗れ。その足じゃ、辛いだろ?」

 良明が心配してくれるのは素直に嬉しいが、自分を背中で抱えると言っているのだ。

「で、でも……」

 人目が気にならないわけがない。

 戸惑って動けずにいる夕凪を良明は半ば無理やりに背中に乗せてから立ち上がる。

「ひゃっ……」

「軽いな。しっかり、食べないと駄目だぞ」

「いや、あのっ……」

 これほどまでに良明と密着したことがない夕凪は彼の背中に顔を埋めてしまう。

 恥ずかしさと嬉しさで顔から火が出てしまいそうだ。

「少し、走る。揺れるかもしれないが、辛抱してくれ」

 夕凪が微かに返事したのを聞き届けると良明は左近衛府へ向かって走り出しはじめた。


   


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