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まつ


 どれ程の時が流れたかは分からないが、夕方くらいには間違いないだろう。

 夕凪はずっと衣の下で体をうねるようにしながら、紐から抜け出そうと必死に動いていた。

「姫様」

 声がかけられ、雪子は顔を上げる。そこには小袿を脱いだ単姿の夕凪がいた。

「今、姫様の紐もお解きしますから」

 小さな手が自分を縛っている紐にかけられる。

 だが、結び目は固く簡単に解けそうになかった。

「っ、固い、です……」

「夕凪、無理をしないで。あなたの手を傷めてしまうわ」

 彼女の力のせいではない。本当に結び目が解けないほど複雑に絡まっているのだ。

 これは、紐を切るしかないだろうか、今、紐を切るようなものなどは持っていなかった。

 こうしている間にも、もう一度女御が来るかもしれない。

 その前に、自分が彼女の言うべきことは一つだ。

「大丈夫よ」

 雪子は静かに笑う。

 その表情を見た夕凪が泣きそうな顔をした。

「な……何を、お考えですか」

 きっと、もう彼女は分かっているのだ。

 自分が言おうとしている事を。

 夜目が利いてきたのか夕凪の表情がはっきりと見える。

「隙があればあなたは先に逃げなさい。そして、左近衛府を目指して走って」

 御簾の向こう側にはまだ女房たちが控えて、見張っているかもしれない。緊迫した空気は変わらない。

「夕餉の時間になれば、梨壺にも御膳を運んでくる人が来るはずよ。それに紛れて、ここから逃げて。そして、外に出るのよ。外に出ればそう簡単に追いかけてくる女房はいないわ。嘉陽門か宣陽門から出て、そのまま真っ直ぐ行けば左近衛府があるはずよ」

 雪子の言葉を夕凪は目を丸くしながら聞いていた。

 だが、夕凪はふるふると首を横に振る。

「姫様は……どう、なさるおつもりですかっ」

「わたくしはそう簡単に出られないでしょうね。顔が知られているもの。だから、きっと紐が解けて、外に出てもすぐに捕まってしまうわ。……もし、外に出られたら明次様と三成様を探すといいわ。お二人は、今日は宿直のはずだったもの」

 きっと一成達にはもう自分と夕凪が梨壺にいることは伝えられているはずだ。心配しているかもしれない。

「そして、後涼殿の所に牛車を連れてきて欲しいの。梨壺の近くはきっと難しいだろうから……。わたくしも隙を見てここから逃げてみせるから。もし、無理だとしても、何か紐を切るものを持ってきてくれると助かるわ」

 雪子は無理に笑顔を作って笑ってみせる。

 たとえ、紐が切れたとしても、ここからは簡単に抜け出すことは出来ないかもしれない。夜中まで待たなければ、顔が見えてしまう。

「……分かりました。私、走ります。走って、助けを呼んできますから」

 夕凪がしっかりと雪子の手を握り締める。

 冷たかった手に少しずつ熱が蘇ってくる。

「えぇ、頼むわ」

 本当の事を言えば、今の自分では歩く事さえも困難だった。なぜか足に力が入らないのだ。怪我をしているわけではないのに立つことも出来なかった。

 それでも、動ける夕凪にはここから逃げて欲しいと思う。

「今はその時を待ちましょう。ここの女房達はお喋りばかりだから、そのうち見張ることに飽きてお喋りに興じ始めると思うわ」

「はい……」

 微か向こうに見える外の光はもう、夕方の色をしていた。

 

 そろそろ夕餉の時間のはずだ。

 雪子は耳を澄ませる。渡殿が軋む音が遠くからこちらへと近づいてくる。それも一つ二つではない。かなり多い。

 女官は御膳を運び始めてきたのかもしれない。

「夕凪」

 雪子は隣に座っている夕凪の背中を撫でるように触る。背中を触れただけでも、鼓動が早く脈打っているのが伝わってきた。

「無理はしないでいいわ」

「いえ、行きます」

 はっきりとそう告げて、力強く立ち上がった。もう、御簾の向こうからこちら側は見えないだろう。

 ふと、夕凪は自分が一番上に着ていた小袿を自分を縛っていた紐でぐるぐるにして、まるでそこに誰かが丸くなっているかのような布の塊を作る。

 それを雪子に渡して、自分は単の上に薄い袿を着た。

「この小袿の塊、姫様の横に置いておきます。そうすれば、きっと女房たちが様子を見にきても、私が丸くなって寝ているように見えますから」

 泣き笑いの顔で、夕凪はしっかりとした声で言った。

「でも、あなたが薄着で寒くない?」

「はい、大丈夫です。……私が居なくなったと分かれば、見張りを増やされるかもしれないのでお気をつけ下さい」

「……えぇ、分かったわ」

 雪子もしっかりとうなずいた。確かに自分の膝元に丸くなっている布の塊は、縛られた夕凪が小袿の中へと顔を埋めているように見える。

 あとは、自分が他の者に知られないような態度をとらなければならないだろう。

「女官達が通り過ぎたあとに行きます。こちらの御簾がある方には多分、渡殿があったので、そちらに出てから外を目指します」

「……気を付けて」

「はい」

 女官達が梨壺へと入ってきたのだろう。少しだけ御簾の向こう側が騒がしくなる。

「行ってまいります」

 夕凪は振り返る事無く渡殿がある方を目指して衣が擦れる音を出さないように気を付けながら歩いていく。

 御簾をそっと開いて、周りに誰もいない事を確認すると、夕凪は御簾の向こう側へと行ってしまった。

「どうか、無事で……」

 きっと、ここから出ることは簡単ではない。

 しかも庭に捨てられた扇を取り返しに行くには、目立つ場所に出なければならない。それでは、自分が逃げているところを女御達に知られるのは確実だった。

 それに、このような場所にずっと夕凪を置いておくわけにはいかなかった。

 

 雪子は何もない懐に意識を集中させる。ここに残っている熱はまだ覚えている。

 この気持ちさえ忘れなければ、自分はまだしっかりと自分を保つことが出来るはずだ。

 座ったまま目を閉じる。

 動くことさえもままらない今は、助けを呼びに行ってくれた夕凪を信じるしかない。冷え切ったその局に吹く夜風はいつも感じるものよりも冷えているようだった。


    


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