さしこむ
ここの空気はいつも淀んでいるように思えるのは気のせいではないだろう。そして、いつもよりも空気が張り詰めていることも。
梨壺へと通されたが、女御がいつも座っている場所の前にはいつものように几帳で隔てられているが、女御がいないのか雪子と夕凪は頭を下げたままの状態でずっと待たされていた。
その間も、周りに居る女房達のひそひそというよりむしろ、堂々としたお喋りの中には気分が悪くなる言葉しかなかった。
そこへ、衣擦れの音が聞こえ始めて、やがて几帳の向こう側で止まり、お喋りしていた女房達もすぐに口を閉じる。
「女御様に挨拶を」
年かさの女房がそう告げ、雪子は頭を下げたまま言葉を述べる。
「……お久しぶりでございます、女御様。お変わりはございませんでしたか」
出来るなら、二度と会いたくなかったがとは言わなかった。きっと小竹が傍に居たら言っていただろうが。
「……何が久しぶりよ」
普段は聞かないような低い声に、張り詰めていた空気は更に糸を張ったようになる。
「どうして、わたくしの用に応じなかったの。なぜ、断っていたの。どういうことか説明しなさい」
いらついた声は棘が生えているようだ。
雪子は深呼吸して、言葉を選びながら述べていく。
「では、用とはどのような事でしたか。今、果たしましょう」
その言葉に、周りから非難するような小さな声が漏れる。
「わたくし自身にも用があってお断りしていました。それすらもお咎めがあるような事とされるのであれば、女御様はさぞかし、わたくしに重大な用があったのだと思いますが。……どうでしょうか」
引き下がってはいけない。
ここで、前のように引き下がったままで、ただ頭を下げてばかりではきっと、いいように扱われるだけだ。
「何よ、その言い方。生意気ね。……それで、文は読んだのでしょう? このままずっと、わたくしの呼び出しに応じるなら、いつものように援助してあげるわ。でも、次はないから。その時はあなたの屋敷を頂くか、今までの援助の分を返してもらうから」
「あの屋敷は、もうわたくしのものではありません」
一瞬、その場に流れる空気が止まったように、静まり返った。
「は……? 何それ、どういうことよ」
「屋敷と地券は知人にお譲りいたしました。もう、わたくしのものではありません。そして、わたくしは出家しようと思っておりますので、俗世との縁を切るためにも、援助して頂いたものもお返しする事は出来なくなるでしょう」
捲くし立てるように雪子は途切れることなく言葉を述べていく。吐き出したい気持ちはいっぱいあるが、私情を挟まずに自分の伝えたい事を言わなければならない。
「三条!! なんです、その言い草は! 今まで援助してくださった女御様に対して恩義というものがないの!?」
「ご恩はたくさんあります。ですが、この世で最も繁栄なさっている右大臣家のご息女であられる女御様が下の者からものを貰うなど、他の女御様や左大臣派がお聞きになったら笑い話になりましょう。右大臣家は下々に援助した分を返せと言うほど困窮しているのか、と」
勿論、このような事は適当に考え付いた事を述べているだけだ。
援助してもらったものを返すとなるとまた、縁が出来てしまう。それなら、いっそその話をなかったことに出来るように被せる話をすればいいだけだ。
さすがに雪子の言葉に納得するものがあったのか、周りで騒いでいた女房達も隣同士で顔を見合わせながら、同意するような反応を見せる。
目の前に座っている女御は何を思っているのかは几帳があるため、分からない。それでも、この事だけは伝えなければならないだろう。
「……縁を切りたいと思います。今日で、ここに来ることもないでしょう」
どれほど、その願いを思っていたことか。
それをやっと口にすることが出来た。
「ふざけないでよ……!」
女御が立ち上がったのだろう。その言葉に従うように目の前の几帳が雪子の膝に当たりそうな程の距離で倒れてくる。
久しぶりに見るその姿は前よりもやつれているように見えた。
やはり、桐壺の女御が懐妊したことで、負担が溜まっていたのだろう。だから、自分をここへ呼んで、捌け口にしたかったのだ。
「呼び出しには応じない、縁も切る。……何よ、それ。今まで、良くしてあげていたのに、よくもまぁ、そんな生意気なことが言えるわね……!」
こちらへと近づいてきた女御が手に持っていた扇で雪子の左のこめかみ辺りを思いっきり叩く。
「っ……!」
そのまま、雪子は倒れるしかなく、その衝撃で懐に入れていた一成の扇がその場に落ちる。夕凪が悲鳴になりそうな声を上げて、口元を手で押さえる。
「まるで、わたくしのことを馬鹿にしているようにしか思えないわ。いつからそんな生意気な娘になったのかしらね」
抵抗しない雪子を女御は扇で叩き続ける。
そこに力加減というものはなく、ただやりようのない怒り、焦り、重荷を自分に押し付けるようだった。
「あ……女御様、あの、それはやり過ぎでは……」
近くに控えていた女房が口を出そうとするが、全く聞いていないのか、女御は手を止めない。
確かに痛かったが、耐えれば自分の勝ちなのだ。泣いたりするものかとただ、拳を握り締めて唇を噛み締めていた。
どれ程の時間が経ったかは分からないが、後ろで控えている夕凪が声を抑えて泣いているくらいだから、相当長い時間、扇で叩かれ続けられていたのだろう。
だがさすがに、叩き疲れたのか女御はゆっくりと手を下ろす。
「一の宮、わたくしはね、本当にあなたの事が嫌いなの。せっかく、良い所へ嫁げたと思ったら、相手はすぐに死んだわ。その後ろ盾の大納言も。それから主上も女御も皇子もね。おかげでわたくしの人生が台無しだわ」
あの時、本当に立て続けに自分の周りの人間は亡くなった。まだ幼かった自分だけを残して。
自分のせいで女御の人生が台無しだというのならば、自分がどういう思いで生きてきたのか理解さえもしてくれなかったのだろう。
「でも、死んで良かったと思っているの」
その言葉に雪子は初めて反応し、顔をゆっくり上げる。そこには大きく孤を描いた口が、不気味に笑っていた。
「だって、実家に戻されて、嫁いだ事は白紙とされて、今の主上のもとへ入内することが出来たもの。だから、そこだけはあなたに感謝しているわ、一の宮」
歪んでいる。そう思った。
この世はこんな歪みで溢れているのかと、そう絶望しそうになるほど、その言葉には吐き気がした。
それでも、ここで自分は負けられない。
せめて、勝てなくてもいいから、負けたくはなかった。
「……それで、女御様の幸せが決まっているならば、もうわたくしの必要はないでしょう。あなた様にはこの世を統べる主上となる皇子が居られます。それならば、女御様自身の人生においても安泰かと存じます」
「安泰なわけがないじゃない! ここは後宮よ。……あなたにはわたくしの苦労なんて、露ほど分からないでしょうね。だからこそ、わたくしのために尽くすべきよ。今までのようにここに来るだけ、それだけじゃない。あなたがここに来ないというのなら、これから誰で遊べばいいのよ」
言葉に惑わされずに焦らず、冷静に全てを終わらせる。伝えなければならないことだけ伝える。それだけが頭の中に巡る。
「今回限りで、縁を切らせて頂きたいと思います」
再び、静かな沈黙が流れる。
「今まで援助して下さったことは本当に感謝しています。……ですが、元々は縁などなかったのです。あなた様が実家へとお戻りになったあの日から、縁は繋がっていなかったのです」
真っ直ぐと見つめる女御の表情の色は戸惑いと怒りが見えた。まるで、自分のわがままを聞いてもらえなかった幼い少女のようなそんな顔だった。
「この先、あの屋敷には使いを寄越さないで頂きたいと思います。もう、あの場所はわたくしのものではありません。……今日以降、二度とお会いすることはないでしょう」
周りが呆然として動けない中、雪子は頭を下げて夕凪の方へ振り返る。
「……行きましょう」
返事はないが、夕凪は小さく頷いた。
そして、懐から飛び出ていた扇を拾おうとしていた時だ。手を伸ばすよりも早く、女御の手が雪子の扇を掴む。
「……知っているわよ。この扇が大事なものだって」
きっと女御は自分が今まで使っていた、父と母から貰った扇だと思っているのだろう。形見と同じ意味を持つ扇は確かに大事なものだ。
だが、この目の前にある扇だって一成から貰ったものだから大事なものには変わりない。
「お返し下さい」
「嫌よ。返したらあなた、帰るでしょう。そしてもう来ないと言うなら、ずっとここに居ればいいのよ」
ずっと、ここに居る。
その言葉に寒気がした。
人の目と言葉があるだけではないこの後宮には、かつて一の宮だった自分の居場所などないのだ。居ても嘲笑の対象として扱われるだけだ。
「お返し下さい」
挑むような雪子の瞳に少しだけたじろいだのか、女御は視線を逸らした。
「わたくしは気分が悪いから奥に下がるわ。誰かこの娘を奥の局に移動させて。絶対に帰られないように柱に縛り付けておきなさい」
女御はそのまま雪子の扇と自分の扇を握り締めて、奥の見えない場所まで下がっていく。
「三条、こちらへ来なさい」
若い女房が雪子の袖を握ろうとするが、雪子はそれを振りほどくように大きく振った。
「わたくしは帰ります。あの扇もお返し下さい」
「女御様はお前の滞在を望んでおられる。勝手に帰ることは許されない」
周りはいつの間にか女房達に取り囲まれていた。
「ひ、姫様……」
はっとして振り返ると夕凪が数人の女房に抱えられるように両腕を掴まれていた。
「離しなさい。その子は関係ないでしょう」
夕凪はそのまま引きずられるように奥へと連れて行かれる。どうやら人質としてとられたようだ。
幼いあの子をこのような所まで連れてきてしまったことを深く後悔した。自分一人なら、無理やり逃げられただろうか。
いや、恐らく無理だろう。一人でも二人でも変わりはないことだ。あの扇を取り返さなければ帰ることが出来ないのだから。
「……分かったわ。ここへ残るから、だからあの子を乱暴に扱わないで」
その言葉に周りの女房達は頷き合う。
「では、こちらに来なさい。もし、勝手に帰ろうとするのであれば、あの娘がどうなるか肝に銘じておきなさい」
最早、従うほかないようだ。
雪子は遠くなる外の光の方に顔を向ける。自分が感じていた世界はやはり暗くて狭かったようだ。あの光がとても恋しくなるほど、手を伸ばしたくなる。
……もう、一緒に夕日も見られないのかしらね。
久しぶりに自嘲する笑みを浮かべて雪子は顔を下げる。強く後ろから押される背中の痛みはとても鈍く、痛覚さえ無くなってしまったように感じられた。




