終末日記
8月12日 曇り
海岸に座り、今日も魚を釣った。
海には漂流物の残骸が漂い、水は灰色に濁っている。
今日も淀んだ風が吹いていた。
最後に青空を見たのはもう何年も前。
海岸を走り回る子どもたちは、青空を見たことがない。
魚は見慣れない形の物が5匹釣れた。
私は2匹で十分なので、残りを隣の小屋の家族に渡す。
汚染が心配だが、食べなければ明日にでも死ぬのだ。
8月16日 曇り
蕎麦を村の人と協力して収穫した。
半分以上が食用に耐えないものだが、これは飼料として鶏に与える。
真夏のはずなのにずっと肌寒い。
これでは作物も出来ないわけだ。
もう何年も太陽を見ていない。
8月18日 曇り
今日、隣の小屋の子供のお見舞いに行った。
汚染の影響を受けやすのは子共たちだ。
皮肉なことに、私のような老人はほそぼそと生き残り、子どもたちが死んでいく。
子どもたちは、大人になる前に子供を産み、そして癌や白血病で死ぬ。
そうしないと我々人類は滅びてしまうだろう。
汚染の影響を受けにくい我々老人は、教育と労働に従事する。
しかし、失われた文明を教育で伝えることに何の意味があるのだろう。
最近、戦後に生まれた子供に教育を施していてふと疑問に思う。
8月19日 曇り
隣の小屋の子供の容態が急変して息を引き取った。
最後にもう一度太陽と青空が見たいと呟いた。
それを、太陽を知らぬ彼の弟が不思議そうに見ていた。
太陽を知らぬ世代は、それを不幸と思わないのであろうか?
であれば幸いである。
9月1日 豪雨
夢を見た。
あの日の夢だ。
今でもあの瞬間を見てしまう。
忘れたい。
9月2日 豪雨
また夢を見た。
トラウマを解消するのに、敢えて思い出して記述するという方法があるという。
私はそれを試してみようと思う。
あれは、2021年9月18日のことだった。
あのよく晴れた日、土日の休みを利用して、私は趣味の登山で白馬に出かけていた。
その日は山頂付近のロッジに泊まる予定で、もうそろそろロッジに着くかという頃だった。
15:55
突然視界が白くなり、強烈な光を感じた。
光が収まると、今度は逆に視界が暗くなり、目が慣れるまでに多少の時間を要した。
うっすら周りが見えてくると山並みの向こうの空に、柱のようにキノコ雲が登るのが見えた。
一本ではない。
どこを見渡しても、雲の柱が立ち上っていた。
周りの登山客も、それを呆然と見ていた。
すると、突然轟音が鳴り響き、誰かが
「おい、伏せろ」
と叫んだ。
私はとっさに頭を覆って登山道に伏せた。
数秒と経たずに強風が私の頭上を通り抜けた。
熱い風だった。
風が収まると、誰が声をかけるでもなく、登山客は集まり、とにかくロッジに向かった。
ロッジに着くと、中は既に騒然としてた。
そのロッジは100人ぐらい収容できる大規模なロッジなのだが、私を含めて45人(人数は後でわかったことだが)は
テレビとラジオを囲んで情報を待った。
オーナー曰く、普段は問題なく映るテレビは、真っ黒な映像を映し出していて、ラジオはずっと雑音を流している。
皆途方に暮れた。
気まずい沈黙が場を包む中で、あれが起きる前にテレビを見ていたという宿泊客が、重い口を開いた。
「緊急速報が流れて、地震かなと思ったら、戦争が始まったっていうテロップが出て・・・」
その後数秒後にあの光が出て、テレビ画面は真っ黒になってしまったらしい。
テロップも全部じっくり見えたわけではないので、結局どこの国とどこの国が戦争を始めたのかは今でもわかっていない。
その後、あらゆる国がなくなってしまって、その時の事実関係を把握している人は皆死んでしまった。
9月3日 曇り
昨日の続きを書いてみようと思う。
爆発があった後、空はすぐに雲に覆われ、その後何日も雨が降り続いた。
あれが核爆発だとしたなら、あの黒い雨は汚染された雨だったろう。
しかし、誰もそのことについて深く言及しなかった。
ロッジに篭った我々には何も為す術がなく、何かを突き詰めることは、それを確認する作業に他ならなかったからだ。
結局、ロッジにの食料の底が見えてきた2週間後、オーナーからやっとこれからのことについて相談しようという話がでた。
まずは、状況確認が急務だった。
復旧や救助隊が来ているなら、街から降りるべきだが、そうでなければ・・・
とにかく、ロッジにいてもいずれ食料が尽きてしまうし、幸い2週間ロッジの屋内で過ごせたので、放射能のレベルは、即死でレベルではなくなっているはずだった。
すぐに下山して状況を見てくるパーティーが組まれ、20代の若い屈強な大学登山部のメンバー5人が下山していった。
3日後、彼らが帰ってきて、麓の状況を知らせた。
麓の村は幸い大した被害はなく、村人たちも無事だった。
しかし、村人たちも一体何が起こっているのか全く把握できていなかった。
街へ車で様子を見に行った人はまだ帰ってきていないらしい。
麓の村人たちは、我々に下山を勧めたので、(実際に冬の期間はロッジは閉鎖されていて、時期的にもギリギリだった)
我々は役に立ちそうな物をロッジから持ちだして下山した。
特に発電機は重かったが後々大層役に立った。
村には、都会に引っ越した人たちが住んでいた空き家が何件かあり、我々はそこと小学校に分かれて住むことにした。
あの日から全く太陽が見えなくなったので、農業は深刻なダメージを受けるかもしれないと農家の方が話していた。
我々も食料を提供してもらう代わりに、すぐに農業と畜産を手伝うことにした。
9月4日 雪
今年の冬は早い。
核の冬が終わるのはいつの日のことなのだろう?
とにかく、蕎麦の収穫をしておいてよかった。
これから寒さ対策の燃料を探しに行かないけない。
幸い、海に流氷物には木材も多いので、暖を取る燃料には今のところ困っていない。
9月5日 雪
またあの時の夢を見た。
思い出して続きを書いてみようと思う。
麓の村で暮らし始めた我々は、街に様子を見に行った村人の帰りを待っていた。
そして、冷たい雨が降るある日、彼らは帰ってきた。
三人で街へ行ったというが、帰ってきたのは二人だった。
そして、車で行ったのだが、帰りは徒歩だった。
我々はすぐに彼らを囲んで話をせがんだが、彼らの口は重く、ポツポツと話し始めたのはしばらくたってからだった。
帰ってこなかった若者の母親が、どうしてなのと詰め寄ったので、村人たちに隔離された。
彼らの話によると
長野は全滅らしい。
周辺の街も、ほぼ全滅で、焼け跡には周辺の村々から様子を見に来た人たちが屯していた。
その人達と情報交換した結果得られた情報は
関東を始め、都市部は全て壊滅した
街どころか、国が既に存在していない
都市部でないところも自衛隊や米軍のの基地があるとろは全て消し飛んでしまった
ということだった。
自称軍事マニアの青年が語るには、あの日から、一切の航空機が飛んでいないので、勝利国が偵察に来ているということも考えられないということだった。
彼らの話を総合すると、どうやら全面核戦争が起きて、勝者のない戦後に突入しているということらしい。
我々は途方にくれてしまった。
帰らなかった青年は、途中で血便を出して死んでしまったらしい。
のどが渇いて水道の水を飲んだということだが、急性放射線症に罹ったと思われる。
車は、ガソリンを補給できなくてガス欠になってしまったので放置してきたということだった。
9月6日 曇り
水平線に船が見えると大騒ぎになった。
もしかしたら生き残った国の調査船かもしれない。
生き残った人類との接触を求めて沿岸部に移住してよかった。
彼らとの接触を望む。
9月7日 曇り
水平線に見える船は未だ沖合にいるという。
視力が悪い私にはよく見えないが、子どもたちにははっきり見えるという。
接舷できる場所を探しているのだろうか?
我々は狼煙を上げて信号を送ることにした。
9月10日 曇り
船に変化はない。
比較的体力のある若者が集って、筏を作って船まで行ってみようという話になった。
船に馴染みのない彼らの帆の操り方には不安があるが、任せてみたい。
9月15日 雪
冬支度が一段落したので、今日は釣りに勤しむ。
今のうちに貯めこんでおかないと、冬は長時間釣をすることは出来ない。
・・・船は漂流船であった。
船まで辿り着いた若者たちが見たものは、熱でどろどろに溶けた船体を晒す、無残な船の死体であった。
いくら呼びかけても何の反応もなく、どうやら核の直撃を受けた駆逐艦か何からしい。
内部に何か使えそうなものがないか進入を試みたそうだかが、喫水が高く、乗り込めるような状態ではなかったそうだ。
こんなことは初めてだったので皆色めき立ったが、結果はつまらないものだった。
これからも、このような小さな期待と絶望を繰り返しながら生きていくのだろう。
9月18日 曇り
今日はあの日だ。
あの日から今日でちょうど10年の月日が経った。
ということは今年は2031年だということだ。
しかし、今の世の中に、一人の聖人が生まれてから数え始めたこの年号を使い続けている人がいるのであろうか?
神に祈る人はまだいるのであろうか?
この無慈悲な終末の世界で、救いを与えるかわからないものを養う余裕のある人はいない。
幸い私が住む村は、宗教の力を借りずとも秩序を保っている。
皆が一人では行きていけないことを実感しているからだろう。
9月19日 曇り
私達がこの沿岸部に移住してきたのは、戦後4年目の春だったと思う。
山奥で生き残った村人、登山客、その他各地から逃げてあの村に辿り着いた人、その総数は800人に達しようとしていた。
村と言っても、行政単位の1つの村のことではなくて、1つの谷あいの小さな集落でのことだ。
当然その狭い土地に800人も養うだけのキャパシティはなく、村はだんだん元の住民と新しい住民との間で軋轢が生じ始めていた。
ある日、農業をうまく覚えられない避難者を罵った村人が、逆上した避難者に殺されるという事件が起こった。
我々はその避難者の処置に困り、法律のない状態で制裁を加えることはリンチや殺人ではないかという恐怖から、誰も彼を裁けなかった。
結果、我々は彼に少ない食料を渡して追放した。事実上の漂流刑である。
この時から、我々の中で、移住計画、開拓計画が持ち上がった。
今から思えば、人出が溢れているなど贅沢な悩みであったが、その土地には、労働力を活かせる土地がなかったのだ。
話し合いの末、村に残って農業を続ける組と、村と連携を取りながら近い焼け野原開拓していく組と、食料を分けてもらって遠くへ移住する組とに別れた。
私は、村の生活に不満はなかったが、出身地である東京に帰りたかったことと、開けた世界へ出て生き残った人たちと交流したいという願望があったので移住組へ志願した。
農業や食料採取の知識は、数年の生活で身についていたので、あまり不安はなかった。
村の人達に感謝しつつ、我々は1年がかりで移住するための余剰食料を貯めこみ、そして出発した。
9月20日 雪
よく考えてみたら、こうやって今までを振り返ることなど無かった気がする。
それは思い出したくなかったというのもあるが、単純にその日の暮らしに精一杯で、思い出す余裕もなかったからだろう。
私達移住組は150人。
ほとんどが村人ではなく、わけあってその村に辿り着いた人々だった。
しかし、数年の困難を共に過ごし、既に運命共同体といえるような深い絆で結ばれているメンバーでもあった。
目標地は東京が90人、名古屋が30人、大阪が30人だった。
途中、治安の保証もないので、我々は15人一組で10組まで作り、私は東京の地理に明るいということで第3組の隊長に選ばれた。
この10組は、塩尻まで共に行動し、塩尻で6組と4組に分かれて、それぞれの目的地を目指すというものだった。
勢い勇んで出発した我々は、日照不足と嵐で倒れた枯れ木をかき分けて、3日目に漸く大町に着いた。
建物はコンクリートの物を残して全て焼けただれていた。
今にも煙が出てきそうな、ただただ黒い光景だった。
これからもこのような景色だけが続いているのかと思うと、気が滅入ったのを覚えている。
長野に着いたのは一週間ぐらい経ってからであった。
県都長野は、直撃を受けたらしく、焼けただれてほぼ更地になっていた。
ただし、後から集まってきた人たちの生活が一時期あったらしく、ゴミやキャンプの後などが目立った。
今誰も居ないのは、食料が手にはいらないからだと思った。
メンバーの中に、長野に縁があったものがいたらしく、何人かがその場で泣き崩れた。
私も東京に着いたらああなるのだろうと思った。
その絶望が待っていることを知っていながら、見ずにはいられないこの心理とは何かと思った。
9月21日 曇り
村でまた一人子供が生まれた。
子供を産んだのは、16歳の女の子だ。
産後の出血が止まらないらしい。心配だ。
9月23日 曇り
子供を産んだ女の子が死んだ。
汚染にやられて、免疫力や回復力が落ちているのだ。
産後の出血が止まらず、とうとう命を落としてしまった。
代わりに子供を産んでやれない老人たちは皆一様に自分を呪った。
今の時代、世代のサイクルが異常に早い。
子供は汚染のせいで短命なので、死ぬ前に子供を産まないと後代がいなくなってしまうのだ。
彼らが産んでは死んでいく姿を何度も見ていると、気が狂いそうになる。
死んだ女の子は、確か諏訪で出会った子であった。
長野を越えて松本を越えて、もはや絶望にも慣れてしまった私達は、塩尻でふた手に分かれた。
皮肉なことに、山間部の道は案外原状をとどめていて歩きやすかった。
諏訪に差し掛かった時、私達の第1組は山賊に襲われた。
山賊と言っても、それは食うに困った流民の集まりであって、人数も20人ほどであった、
山賊は第1組を取り囲もうとしたが、我々の後続が続々とやってくるのを見て、方針を変えて降伏した。
こんな大人数の集団を、食料的な意味で維持できているということに驚愕したのだという。
降伏した彼らは、どうしても我々について行きたいというが、食料の備蓄は人数分しか余裕がなかったので断った。
すると、彼らはせめて子どもたちだけでも連れて行ってくれ、ここには未来がないと言うので、
数人の、長距離歩行に耐えられそうな10歳前後の子供を5人だけ預かった。
今日死んだ女の子はその時の子供だ。
名前は心愛。我々とともにここへたどり着いて、ここで青年に出会い、恋をして、子供を産んで死んだ。
彼女の生い立ちのことなど、もう少し聞いておけばよかったと今更ながら悔やむ。
9月24日 雨
今日は温かいらしい。雪ではなく雨だった。
今日が最後のチャンスかと思い、長時間釣りをした。
他の村人と共同で釣りに勤しみ、かなりの数が釣れた。
以前作った筏も大活躍した。思わぬ副産物だ。
この雨を見ると、あの日から数週間降り止まなかったあの雨を思い出す。
あの雨は地形をも大きく変えていた。
諏訪から甲州街道の跡を探しながら東京を目指していた我々は甲府盆地に辿り着いた。
甲府は湖になっていた。
かなり低高度で核が爆発したらしく、かつて甲府が存在してた場所は巨大なクレーターになっており、
そこに大量の水が溜まっていた。
水にはどこから流れ着いたか、未だ原型をとどめている人や動物の死体が浮いており、我々を驚かせた。
どうやら、死体を分解するような微生物すら死滅してしまった事が原因ではないかということであった。
この水に近寄るのは危険ということで、我々は足早にそこを後にした。
沢の水など、もう気にせず沸かして飲むようになっていた我々だが、さすがにその水には抵抗があった。
甲府盆地を越え、大月を越え、談合坂を越え、我々は漸く高雄に着いた。
そこで我々は見た。前方に広がる果てしない瓦礫の山を。
9月25日 雪
思った通り、暖かったのは昨日だけだった。
今日は雨は雪に変わり、本格的な冬の訪れを予感した。
寒さのせいか、今日歩いていたら立ちくらみがして倒れてしまった。
すぐに収まり立ち上がったが、自分の体もとうとう蝕まれたのではないかと不安になった。
ああ、死ぬ前にもう一度デリーでカシミールカレーを食べたい。
三河屋でタンシチューを食べたい。
しかしそんなことはもう叶わぬ夢だ。
9月28日 雪
熱を出して数日寝込んでいた。
隣の小屋の夫婦が、心配して面倒を見てくれた。
息子を亡くしたばかりなのに、申し訳ない思いになる。
今朝、とうとう血を吐いてしまった。
肺をやられているのだろう。呼吸が苦しい。
どうやらとうとう次は私の番らしい。
寂しい。
仲間はいる。しかし、誰か、あの日の前の私を知っている人はいないか?
三田重幸はここにる。
妻も、娘も、父も母も、東京では誰一人私を待っていなかった。
八王子を過ぎ、ひたすら瓦礫の山をかき分けて我々は居住に適した土地を探した。
皆、ひと目で生き残りなど居ないと直感した。
途中、何人か我々のような、思い出を求めて関東へやって来た彷徨う人々に出くわし、彼らと情報を交換したり仲間に加えたりした。
品川があったであろう場所に着くと、我々はそこで定住を決めた。
その後は割りと順調であったと思う。
役割とやることは予め決まっていたので、すぐに農村と漁村を兼ねた村を、瓦礫を利用して作った。
月日が経っていたからか、幸いにも原型をとどめた死体にはあまり出くわさず、精神的にも問題は少なかった。
我々はここに定住することに成功し、増減はあるものの、一応村の体をなしている。
10月5日 雪
数日意識を失う。
驚くほど体力を失っていて、歩くことが出来ない。
とうとう最期が来たらしい。
この10年、これは本当にあったことなのだろうか?
これは悪夢で、目が覚めたらまた妻と娘がいる家で目が覚めるということはないのだろうか?
なぜ私はあの日、白馬になど居たのだろう?
妻と娘と、ともにこの世から消えてしまえば、このような寂しい思いをしながら最期を迎えることは無かったと思う。
何もかもが虚しい。
伝えたいことがたくさんある、しかし、伝えたいことも、伝えたい人も、どちらももうこの世にはないのだ。
私はもうこの世に居ないのと一緒だ。
一体世の中は何故こうなってしまったのだろう?
誰が、何故、こんな風にしてしまったのだろう?
そいつらももう全員生きてはいまい。
誰一人幸福にならない世界。
こんな地獄が、私の死後にも延々と続いていくのだろうか?
人類の未来は・・・
隣のおじちゃん死んだ。
隣のおじちゃん、お話一杯話してくれる、お魚いっぱいくれる。好き。
お兄ちゃん死んだ、おじちゃん死んだ。
僕悲しい。
パパとママ、おじちゃん偉い人だって言った。
なんでも知ってて、言うこと聞くと良い子になれるって。
おじちゃん、悲しい時楽しいこと考えるって言った。
僕、走るの楽しい!魚食べるの美味しい!
早く大きくなって、もっと走って、もっとお魚取れるようになる。
おじちゃん、昔はみんな空を飛んでたって言ってた。
きっと走るより気持ちいい。大きくなったら俺空を飛ぶ!
そして、雲の上にあるっていう太陽を見るんだ!
完