後編
前からも、あるいは後ろからも脅威は人知れず迫っているかもしれない。しかし、こんな時に限ってエンジンが掛からないという事態は起こらなかった。
ピックアップは好調にエンジン音を鳴らすと、助手席にアルが、荷台には猟銃を構えたジェイクを乗せて山道を上がり始めた。
湖まではさほど時間は掛からない。十分もすれば、そこには左右の鉄のポールに「ようこそロプ湖へ」と書かれた横断幕が見えてくる。
湖が見えた。そこはただの静かな風景でしかないように思えた。車が疎らに放置され、少し離れた浜には食堂を兼ねているボズの湖の家がある。
ボズは無事だろうか。軍人だったこの男は背丈こそジョーと変わらないが、身体つきはまるで違いがっしりとした筋肉の塊であった。気の良い男で、よくジョーにはサービスで酒を奢ってくれたものだ。
ピックアップは放置された車の列の後ろを行き、湖の家を目指した。
ジョーはハンドルを握りながら、ヴァンに乗った男の言葉を思い出していた。
妙な奴らが湖から現れて、人々に噛み付いた。そして噛み付いた人間は保安官達のように理性を失った走る「狂鬼」になるというわけだ。
ジョーは湖に顔を向けた。ネッシーかそれともヴァンパイアでもいるというのだろうか。
そんな彼の思考を吹き飛ばしたのは、複数の奇声であった。
「奴らが残ってたぞ! お前らは正気かそれとも化け物の方か!?」
荷台でジェイクの凄む声が見える。ルームミラーの向こうにはこちら目掛けて殺到して来る幾つもの人影が見えた。その走る速度は尋常ではないほどの速さであった。人の限界を超えているようにも思える。奴らは最初十人ぐらいいたが、すぐに荷台の後ろに追い付いて来た。誰も彼もが白目と牙を剥き出しにしている。
荷台でジェイクが発砲した。一人倒れ、また一人倒れる。その内の一人が荷台に躍り上がって来た。
ジェイクは素早く銃を向けて撃ち殺した。
だが、驚いたことに「感染者達」は、増えるばかりであった。止まっている車の陰から次々と飛び出してくる。
「弾切れだ!」
ジェイクが焦りを含んだ声でこちらにそう訴えた。
今やピックアップの後ろには三十もの感染者が追随していた。
ジョーはアクセルを吹かした。奴らの常人離れした脚力には及ばないのは承知していたが、それでもジェイクのことを思えば速度を上げる他なかった。
だが、やはり奴らの脚力は並外れていた。次々、荷台を掴み飛び乗ろうと構えている。
陽気なジェイクの横顔も青くなっているのがわかった。助手席でアルも悲鳴を上げている。
湖の家を横切った頃、二人の感染者が荷台に飛び乗って来た。ジェイクは猟銃の持ち手で相手を殴りつけている。
その時、突然、感染者の一人が、荷台から吹き飛んだ。間髪入れずもう一人も吹き飛んだ。
何が起こったのだろうか。
「あれを見ろ! 屋根だ! ボズの奴だ! あの野郎は、無事だった!」
ジェイクが狂嬉しながらそう言った。
湖の家の屋根でライフルを構える影が二つ見えた。彼らはこちらを援護してくれていた。追随する感染者達は次々撃たれて斃れていった。
そうして最後の一人もいなくなり、ジョーは車を湖の家に寄せて止めた。
「お前ら無事だったか。早く上がって来い!」
がっしりとした身体つきをした白髪頭の男が屋根の上から言った。
すると、家の扉が開かれ、ウェイトレスの格好をした若い女が現れた。両手で狙撃用の装備の整ったライフルを手にしていた。
「ほら、急いで。本当の敵はあんなのじゃ無いわよ」
そう言う彼女はジョー達の後ろ、つまりは湖の方を睨んでいた。
三人は家の屋根の上に案内された。
「一体ここで何があったんだ?」
ボズと出会うと、ジョーはまずそう尋ねた。
「奴らは水の底からやってくる」
ボズは煙草を咥えながらそう言った。
「奴らとは?」
ジョーが突き詰めて尋ねた時、ウェイトレスが屋根に飛び乗って来た。
「はい、アンタ達の持ち物よ」
そういう彼女が差し出したのは、古めかしいライフルが三丁と、散弾銃二丁、拳銃が一丁であった。
ジョー達がそれを受け取ると、ボズが言った。
「しかし、何でだ? 何でわざわざこっちに来た? ここで何かが起こってることは何と無く分かってたんだろう?」
「スッキリさせたかったんだ。州警察が来るまで、ビビったまま別荘に閉じこもっても、俺の有給は容赦なく消化されていく」
ジョーが答えると、ボズは半分理解し難いと言う様な顔で頷くと言った。
「しかしだ、もうお前らは逃げられないぞ」
「そういや、ボズよ、どうして逃げないんだ? 今こそ逃げるにはうってつけだ。アンタらが残りの連中を倒してくれたからな。車に乗ってここからおさらばすりゃ良いのに」
ジェイクが尋ねると、ウェイトレスが答えた。
「アンタはまるで分かってないみたいね。奴らは湖にいるのよ」
「そりゃ聞いたさ。だが、その奴らってのが湖からここまで来る間に車に飛び乗っちまえば良いだけの話だ。それなのに、ライフルを構えてアンタらはここで湖を見てるだけだ」
「キャサリン、見せてやれ」
ジェイクが言うと、ボズがそう頷いた。
「援護してよね、マスター」
ウェイトレスのキャサリンは、屋根から下に飛び降りた。
一見何も起こらなかったように思えた。
だが、湖の方から、水鳥のようなギャアギャアいう奇声が聴こえたかと思うと、浜に何者かが姿を現した。そいつらはぞろぞろと現れるや、一目散にこちら目掛けて走り出してきた。その速度の恐ろしく速い事、キャサリンが慌てて家の中に入って、五秒もしないうちに奴らは足元に現れた。
そいつらは異様な連中だった。まず全身が青緑色をしている。両手両足があり、人の様に首があって頭もある。口は大きく横に裂け、そこから太く鋭い牙が生え揃ってるのが見えた。そして魚のように背ビレと尾ヒレがついていた。
そいつらはギャアギャア言いながら建物の回りを走り始めた。
アルがたじろいで小さく悲鳴を上げる。
「何だコイツらは?」
ジェイクが散弾銃を構えると、ボズが言った。
「まぁ、まだ撃つな。やかましいが、こいつらにも体力の限界はある。ヘタったところを撃った方が確実だ」
そう言われ、ジョーは、感染した保安菅補のことを思い出した。奴も駆けるだけ駆けてへばっていた。
「ボズ、凶暴になった奴らは、こいつらに噛まれたのか?」
「そうさ。この半魚野郎どもに噛まれて、更に噛まれた奴に噛まれて、そりゃ酷い騒ぎだった」
半魚人達はギャアギャア喚き散らしながら、家屋の回りを物凄い速さで駆けていた。
その有様を見て、ジョーはうんざりしていた。こいつらがへばるまで相当時間は掛かる。それまでこいつらを見ているしかできないのだ。
隣でジェイクが発砲したが、半魚人には当たらなかった。
「確かに奴らは早いな」
ジェイクは納得したかのようにそう言った。
そうして一時間はそうしていただろうか。ようやく半魚人達がへばり始めた。
するとボズが躍り上がった。
「今だ、撃て撃て撃て!」
ボズのライフルが火を吹き、ノロノロしていた半魚人の一匹を仕留めた。
それに鼓舞されたように、ジェイク、キャサリンも散弾銃を撃ち始めた。其処彼処で、半魚人達が死体となってゆく。
ジョーは素早く階下に降りると、ドアを開け裏へと回った。そこにも半魚人達は佇み、へたり込んでいた。ジョーは情け容赦無く銃を撃ち、敵を仕留めていった。
「ジョー、戻って来い! 急げ!」
アルの怯えた声がした。増援が来たのだ。ジョーは急いで入り口の扉へ急いだ。そこで新たな不気味な半魚人の集団と鉢合わせたが、彼の方が早く家の中へと入り込むことができた。
扉を叩きつけるようにして閉めると錠を下ろした。
そうして屋根へ戻ると、また半魚人達が走るのを見下ろしているしかなかった。
そろそろ夕暮れが近かった。どうやら一晩屋根の上で過ごすしかなさそうだ。キャサリンがハンバーガーを拵えて階下から戻って来た。それを食べながら、半魚人どもを見ていた。
周囲が暗くなり始めた時、心なしか半魚人達の動作が緩慢になってきた。
そろそろだと、アル以外の者達は銃を構えた。
が、信じられない事が起こった。半魚人達は一斉に建物を離れ、ギャアギャア言いながら湖へ戻って行ったのだ。そして再びギャアギャアと言う声が聞こえたかと思うと新たな半魚人のグループが全力疾走でこちらへ向かって来ていた。
「奴ら、考えやがったな!」
ボズが苛立ちも露にして言った。
「体力が尽きる前に、撤収して、新たな連中と入れ替わる。意地でも俺らを逃がさないつもりらしいぞ!」
既に新たな半魚人のグループは家屋の周囲を疾走し始めていた。
「撃っても当たらないんじゃあ、州警察が来るまでお手上げだな。そうだろ?」
アルが力なくそう言った。
2
そうしてついに日が暮れた。
下を走る魚人どもの奇声のせいで、眠ることすらできなかった。
わざわざ的になる訳にもいかなかったので、灯りは一切点けなかった。しかし、それでも魚人共は体力が尽きる手前で後退し、こちらの場所が見えてるかのようにして新手が押し寄せてくる。
事態が変わったのは、時計の数字が午前二時を過ぎた辺りだ。
凄まじい衝突音と共に立て籠もっている家屋が大きく揺れたのだ。
「一体なんだ?」
隣でボズが言うと、彼とジェイクが懐中電灯を向けた。
そこには砂しか映って無かったが、程なくして半魚人達が飛び込んできた。奴らは丸太の様な物を左右に並んで抱えて家にぶつけて来ていた。
再び家が揺れた。懐中電灯の明かりが、奴らの抱えているものを鮮明に映し出した。それは湖にあるはずのクルーザーであった。奴らはそいつで家を倒壊させようとしているのかもしれない。
「このままじゃあ、家が倒れちまう。この家は殆ど手抜き工事で建ってるようなもんだ」
ボズが言うと、ジョーを抜かした面々がその元軍人の方を振り返った。
「そうなったら終わりだぞ! 何か案は無いのか!?」
アルが慄く様にしてボズにそう叫んだ。
ジョーは小舟を抱える半魚人達を片端から撃ちながら言った。
「俺の車に飛び乗るしかない」
面々は家に横づけにされたピックアップを振り返った。
「それで後は逃げられるところまで逃げるのさ」
ジョーは拳銃の弾を装填しながら残された仲間を振り返った。
「そうね。それで行きましょう」
ウェイトレスのキャサリンが気丈にそう言うと、一同の考えは纏まった。
「キャサリン、アル、俺の秘密の地下倉庫から、有りっ丈の武器と弾薬を持って来い。鍵はコイツだ」
ボズがキャサリンに向かってキーを投げる。二人が窓から家の中へ駆けこんでゆくとジョーは言った。
「本当は勝つ気でいたが見込み違いだった」
また小舟が迫って来る。それを抱える半魚人達を次々撃ち抜きながらジョーが言うとボズが応じた。
「お前さんが勝つ気でいてくれなかったら、俺とキャサリンはこいつらの餌食になっていたところだ。だから、俺としてはお前さんの気概に乾杯だよ」
犠牲を出しながらも半魚人は次々と船を抱えた新手として押し寄せて来ていた。
まるで古代の城攻めのようだとジョーは思いながら、敵を撃ちまくった。
そしてアルとキャサリンがそれぞれバッグを二抱えと、幾つかの銃を肩から提げて現れた。
「どういう順序で乗るの?」
キャサリンが言うと、ボズが答えた。
「まず、誰かが車に乗り移ったら奴らもそっちに攻撃を切り換えるだろう。だから一人でも持ち応えられそうな俺が行く」
「運転するのはどうする? ジョーの車だからやっぱり順当にジョーか?」
ジェイクが尋ねると、ボズは首を横に振った。
「ジョーの射撃センスはむしろ生かすべきだ。ジェイク、お前が運転しろ」
「よし」
ジェイクが頷いた。
衝撃音が木霊し、家屋が危なげなく前に傾いた。
「ああっ!」
悲鳴を上げてアルが下に転がり落ちた。
半魚人達がすかさず殺到したところを、いつの間にか装備を変えたボズの小型機関銃が、軽快な音を立てて死滅させた。
アルは慌てて起き上がり、扉を開けようとした。
「駄目だ開かない!」
「さっき錠を下ろした」
ジョーが言うと、アルは跳び上がって手を伸ばした。
「俺の手を掴んでそっちに引き上げてくれ」
「落ち付け! そんだったら先に車に乗ってろ」
ボズが言うと、漆黒の闇が閉ざす中、湖の方角から奴らの喚く声が聴こえ出してきた。
ボズがピックアップの荷台に跳び移り、アルも攀じ登った。半魚人どもはすぐに眼前に姿を現した。ボズが銃を掃射すると半魚人達は悲鳴を上げて倒れていった。その隙に残りの面々も荷台へ飛び移る。ジェイクが運転席へ回り込み扉を閉めたところで、最後にジョーも荷台へ跳び移った。
「これを使うと良いわ」
キャサリンがジョーに手渡してきたのは軍が使うような最新式の角張った散弾銃であった。
そうしてピックアップのエンジンは順調に始動し、走り出した。
湖の方角から無数の奇声が木霊した。そして車がさほど進まないうちに半魚人達は車に追い縋って来た。
荷台にいる面々の銃が容赦無く火を噴くが、しかし、敵は増える一方だった。
「こいつらめ、一体何匹居やがるんだ!?」
ボズが弾の無くなった小型機関銃を捨て散弾銃に切り替えながらそう言った。
半魚人が躍り上がる。ジョーとキャサリンの銃が同時にそいつを撃ち殺していた。
二人は見詰めあっていた。ジョーは、キャサリンが健康的で綺麗な女性であることに気付いた。
「今は、お見合いしてる場合じゃないぞ!」
アルが怒鳴り、彼は危なげなく散弾銃の引き金を絞っていた。そして彼はケラケラと笑った。
「だがよ、何だかクセになりそうだ。どんどん来やがれ半魚野郎!」
アルは半狂乱になりながらめっぽう構わず撃ちまくっていた。
「無駄弾を使うな。正気に戻れ、怖いのはお前だけじゃない」
ジョーはその手を掴んで彼に諭すような口調で言うとアルは、ワッと泣きだした。
「駄目だ、大の男が情けないが、もう耐えられそうもない。俺達は奴らから逃げ切れないんだ。だって奴らは倒しても倒しても迫ってくる。こんな逃走劇はもう終わりにしたい。きっとこれは悪夢で、俺は夢を見てるんだ。だったら、そうだ、夢から覚めてやれば良いんだ。どうして今まで気付かなかったんだろう」
アルが自分のこめかみに銃を突きつけたのを見て、ジョーは慌てて肩を掴んで引き戻した。
「落ち付け、アルもう良い。お前は終わるまでそこで座ってろ。頼むから今みたいな馬鹿な真似だけはするな」
その一瞬の隙をついて二匹の半魚人が荷台へ飛び移って来た。
銃の下に構えた電灯がヌメヌメ光る鱗に覆われた身体と、奴らの水掻きのついた手、不細工な分厚い唇をした醜い面を露にする。そいつらはギャアギャアとけたたましい声を上げて掴みかかって来た。
「こいつめ!」
ボズが一匹を蹴り落としたが、もう一匹が組み付きボズを押し倒した。
「くそっ、こいつ、何て馬鹿力だ!」
ボズは抵抗しながら叫んだ。半魚人の開いた口がボズの首元へと近付いてゆく。しかし、魚人のその頭を吹き飛ばしたのはキャサリンの銃だった。頭を失った魚人は血を噴き上げながらよろめいて、斃れた。
「すまん、キャサリン」
ボズは立ち上がった。
「マスター、シャツをあいつらの血塗れにしちゃってごめんなさい」
キャサリンが言った。
それぞれ手にした懐中電灯が、車のバックライトが半魚人達を映し出している。奴らは減るどころか次々合流して大部隊になっていた。
「そろそろ頃合いだ。こいつの出番だな」
ボズが身を乗り出した。ジョーはその手に手榴弾が二つ握られているのを見た。
ボズは両方のピンを抜き、三つ数えたところで、魚人達に向かって放り投げた。
およそ三秒後、激しい爆発音とともに、砂が高く舞った。
魚人達の姿が消え、一同は歓喜しハイタッチを交わした。
そのまま車は歓迎のアーチの下を潜り、山道へと差し掛かった。そこで、前方に無数の赤と青の回転灯が光っているの見て安堵した。州警察が到着したのだ。
これにて一同の戦いは終わった。拡声器が響いた。
「こちらは州警察だ。そこの車、現在ここは封鎖している。脇へ車を寄せて、こっちへ来なさい」
その警官の男の声は神の声そのものだった。
一同は車から降りた。
「聞いて、私達は上から下まで真人間よ!」
キャサリンが声を上げると、拡声器が応じた。
「視認済みだ。わかっている。さあ、こちらへ」
一行が警察の車の群れの方へと歩み出した時、ジョーには確かに聞こえた。幾つもの銃が撃鉄を起こすのを。
「皆伏せろ!」
彼が声を上げた直後に、無数の銃声が木霊した。
そして後ろから魚人達の断末魔の声が轟いた。
ジョーは肝を潰す思いをしながら立ち上がった。
「おい、ちょっと酷いんじゃないか!?」
ジェイクが言うと、拡声器は応じた。
「すまない、奴らが迫っていたのでね」
そうしてジョー達、五人は警察達と合流し、魚人の群れに負けず劣らず総動員された彼らの戦いを見守ったのであった。