なつやすみ
百回叩けば開く夢への扉を、誰もが九十九回であきらめている。
世界はそんな無責任な言葉で満ちている。
本当にそれで叶うのなら、少女はとっくに報われているはずなのに。
世界には百九十六もの国々があるという。
既に少女はその数より多く扉を叩いていた。
それでも少女の願いは叶わない。
歌手や作家、女優になりたい。とにかくたくさんお金がほしい。過去や未来に旅立ちたい。
少女の願いはそういうものではなかった。
少女の願いはただ一つ。
この扉を開けてほしい。
それだけを胸に、一心不乱に扉を叩く。
開けて! お願いだからここを開けて! と、痛いくらい喉を酷使して、真っ赤になった拳を叩きつけ、自慢の美しい金髪を無造作になびかせながら叫びつづける。
それでも扉は開かない。
豊かな森の奥に佇む壮麗な屋敷の中にある化粧室。
そこに少女は閉じ込められていた。
おそろしい物語を聞いた真夜中に、あまい飲み物を飲んではいけません。
もしそれでトイレに行きたくなっても、決して一人で行ってはいけません。
怪物に閉じ込められ、餌にされてしまうから。
深夜。
お泊まり会にきていた親友の銀髪の少女と一緒のベッド中で布団をかぶり、大好きなこわい話を聞かせあっていた。
まるで毒と蜜を混ぜたように、銀髪の少女の語る話は、恐怖と魅力に満ちていた。
金髪の少女は本気で恐ろしくなり、こんなことをしていると何か悪霊に取り憑かれてしまうのではないかと身を震わせる。
銀髪の少女は微笑みながら、一枚の白いハンカチを金髪の少女に手渡した。
これは邪悪なものを浄化する、聖なる白い布。もしも恐ろしいものがやってきたら、これを相手にぶつけながら、聖なる言葉を唱えるの。
銀髪の少女は聖なる言葉を金髪の少女の耳元でささやいた。
それからしばらくベッドを軋ませながらおしゃべりをしていると、銀髪の少女の元に睡魔がやってきたようで、彼女は眠りにおちた。
金髪の少女は一度ベッドから出ると、テーブルの上にあったジュースをコップ一杯飲んでベッドに戻り、まぶたを閉じる。
おそろしい話をいくつも聞いたけれど、心はおだやかだった。
すぐとなりで、幸せそうにすやすやと眠りにつく親友の姿と。
この手に握っている白いハンカチ──聖なる布があるからだ。
ほどなくして金髪の少女にも睡魔は訪れ、それに飲み込まれる瞬間、少女は身に着けているルームドレスのポケットに白のハンカチをそっと忍ばせた。
しばらくして、金髪の少女はゆるやかに覚醒する。
トイレに、行きたい。
原因は間違いなく、就寝前に口にしたジュースだろう。
ベッドから立ち上がる。
ふいによみがえる記憶。
怖い話を聞いたあとでジュースを飲んで、一人でトイレに行ってはいけない。
怪物に食べられてしまうから。
夏だというのに、腕に鳥肌が立っている。
ばかばかしい、と少女は自分に言い聞かせる。
それでも恐怖心は消えてくれない。おもむろに金髪の少女はベッドに目を向けた。
無防備に眠っている銀髪の少女を見て、思わず顔がほころぶ。
同時に、怖いから一緒にトイレに行ってほしいなどと言ってしまえば、彼女に笑われるかもしれないと、別の恐怖が芽生える。
お互い、もう十歳なのだ。
それにこの屋敷は自分の親の別荘。
自分の家みたいなものだ。
だから、金髪の少女は銀髪の少女を起こさぬよう、ゆっくりと歩を進め、そっと部屋のドアを開閉し、一人でやや離れた場所にある化粧室に向かった。
用を済ませて、化粧室のドアノブを捻ると、違和感を覚える。
感触が軽い。
気のせいだと思ってドアを押す。
びくともしない。
こっちだったかなとドアを引く。
びくともしない。
じわりとこめかみに汗が垂れる。
少しだけ焦り、ガチャガチャとドアノブを何度も左右に捻りながら、ガタガタとドアを前後に振る。
びくともしない。
おそろしい物語を聞いた真夜中に、あまい飲み物を飲んではいけません。
もしそれでトイレに行きたくなっても、決して一人で行ってはいけません。
怪物に閉じ込められ、餌にされてしまうから。
そこからは一心不乱に、金髪の少女は叫び声と共にドアを叩きつづけた。
開けて! ここを開けて! 誰か!
大声で親友の名前や使用人を呼ぶ。
しん、と静かだった。
それならまだよかった。
突然、ごおお、ごおおお、と頭上から音のような声、あるいは声のような音がする。
見上げると、天井には換気のための穴が格子状に空いている。
そこから音がする。
ごおお、ごおおお、と。
──怪物に閉じ込められ、餌にされてしまう──
金髪の少女は泣き叫び、壊すような勢いでドアを叩きつづける。
壊れるものなら壊れてほしかった。
ごおお、ごおおお、ごおおお、頭上の声はだんだんと近づいてくる。
もうダメだ。きっと自分はここで食べられてしまうんだ。
自棄になって、赤く腫れ上がった拳を振りかざす。
がちゃり、と軽い音が鳴り、扉がひとりでに開いた。
きょとんとした顔の銀髪の少女がそこにいた。
金髪の少女も、きょとんとした。
理由はわからないけど、助かったのだと思った。
安堵のあまり、少女に飛びつこうとする少女。
だが違和感を覚えて、停止する。
銀髪の少女の口元に、口紅でイタズラされたみたいに、不自然な赤が付着していた。
金髪の少女はその意味を考えながら、銀髪の少女を、じっと見つめる。
答えが出て、愕然とする。
目の前にいる少女は、銀髪の少女だけれども、銀髪の少女ではない。
いつも一緒にいるから、大親友だからわかること。
よく似ているけど別人。この子は、あの子じゃない。
口元の赤の意味もわかった。これは銀髪の少女の、血。
つまり、銀髪の少女は食べられてしまったのだ、このニセモノに、怪物に。
正体がバレてしまったことを悟ったのか、銀髪の少女は不敵に笑う。
実に醜い笑顔だった。いや、それは笑みではなかった。
ありえないくらい顔を歪ませ、少女の顔は怪物となり、体は大きく膨れ上がる。
恐れ慄き、悲鳴を上げそうになる金髪の少女であったが、彼女はそれをぐっと飲み込んだ。
そして思い出す。親友からの贈り物を。
ルームドレスのポケットに手を入れ、白いハンカチ──聖なる布を取り出す。
一瞬、たじろぐ怪物の表情を少女は見逃さなかった。
ハンカチを怪物に投げつけると同時に、少女は親友から教えてもらった聖なる言葉を叫ぶ。
岩が崩れるような断末魔を上げ、怪物は消え去った。
戦いは終わった。
ふと、視界の先に人影。それはおずおずと金髪の少女に近づく。
人影の正体は──銀髪の少女だった。
どういうわけか部屋に閉じ込められてしまい途方に暮れていると、どういうわけか勝手に部屋のドアが開いて、とりあえずここまでやってきたのだという。
怪物を退治したからだろうと金髪の少女は解釈した。
とにかく無事でよかったと金髪の少女は銀髪の少女に抱きつく。
だが違和感を覚えて、親友に抱きついたまま停止する。
体の感触が、少女の知る、少女のものではなかった。
金髪の少女は、おずおずと銀髪の少女を見上げる。
不敵に、醜く歪んだ笑顔。
少女は理解し、絶望する。
ここまで全て、こいつの──怪物の罠だったのだ。
怪物は、がしりと少女を抱きしめて、体の自由を奪う。
そしておおきくおおきくおおきく口を開き、錆びたナイフのような汚れたギザギザの牙を見せつけ、今まさにそれで少女を噛みちぎろうとした。
少女はついに悲鳴を上げた。
「きゃあああ!」
画面の中の金髪の少女よりも大きな声で、珠菜は絶叫する。
「珠菜、うるさい」
そばにいた芹は手のひらで耳をふさいでいる。
耳元で叫ばれたせいで、鼓膜が破れるかと思った。
「だって、芹、あのおばけ──まだ生きてた!」
珠菜は芹に、ぎゅぎゅっとしがみつきながら、相手の体をゆらす。
「そうだね……でも……この状態があと一分つづいたら……私もおばけになるかも……」
全力で首を絞められているせいで、だんだんと意識が遠くなっていく。
画面の中の映像がスタッフロールに移ったところで、珠菜は芹を解放した。
「あー、こわかった」
額の汗を拭いながら、透明な瓶に入っているサイダーを一口含む。
「アニメでよくそこまで怖がれるね」
芹も瓶に口をつける。
「だって、怖いものは──怖いでしょ」
幼稚と思われたくなくて強がってみたものの、上手い言葉が出てきてくれなくて、ごまかすように珠菜はサイダーを一気に飲み干す。
「飲みすぎじゃない?」
テーブルの上にはサイダーの瓶が六本。珠菜が一人で四本空けて、五本目を手にしたところで、芹はまだ一本目の途中だ。
「このサイダー、世界一おいしい」
言いながら、瓶のキャップを外す。
小豆島名物、オリーブサイダー。
小豆島の豊熟な大地の恵みを受けて育てられたオリーブの果汁をふんだんに使ったその炭酸飲料は、特徴的な酸味と甘み、ほのかな苦味に彩られ、美容と健康にもいいと評判で全国にファンが多い。
「まあ、たくさんあるから好きなだけ飲めばいいけど」それをすすめたのは自分なので、気に入ってもらえて悪い気はしない。「だけど、おねしょしても、しらないからね」
「──芹、私たち、もう中三だよ?」
無理に大人びた態度で、妙な余裕を見せてくる。
さっきまで児童向けのアニメを見て悲鳴を上げていたのはどこの中学三年生だったかしらと言ってやりたい衝動を芹はなんとか抑えた。
そんな中学生活最後の夏休みに、珠城珠菜と御暁芹は二人で旅行にきていた。
行き先は、かねてより計画していた瀬戸内海に浮かぶ豊かな島、小豆島。
ここにある芹の家の別荘に今はいる。
雲でできているようなふかふかのソファーに沈み、テーブルの上に並ぶオリーブを使ったスナック菓子やチョコレート、サイダーを楽しみ、広い部屋に備え付けられている大型のテレビでホラーアニメを鑑賞していた。
三泊四日の旅行で、今日は初日。
早朝に品川を出て、羽田空港から高松空港に飛んで、フェリーに乗って島に着いたのがお昼過ぎ。
軽く観光しながら、芹のなじみの店で昼食と夕食に舌鼓を打ち、別荘に戻ってあれやこれやしているうちに、もうすぐ、夜の二十二時になろうとしている。
「楽しいね」
まだまだ寝るには早いと、ご機嫌な珠菜。
「そうね」
同意したものの、どこか不満気な様子で芹は視線を下げる。
「どうしたの?」
「いや、これはどうなのかなって」
芹は自分の身に着ているものを指でつまんでみせる。
「どうかしたの?」
珠菜も同じ仕草をする。
二人は同じ格好をしていた。
学校の体育の時間に着用する半袖の白い体操服と黒の短パン。
旅行など外泊の就寝時には学校指定の体操服を着用せよという夏休みのしおりに印刷されていた悪い冗談のような決めごとを珠菜は遵守することを選び、芹にはそれが理解できなかった。
「もっとちゃんとしたの着たかったのに」
「ダメだよ芹、私たち中学生なんだから」
「まあ、そうだけど──」
言い返すことも言い負かすこともできるけれど、そこに意味も価値も感じないので受け入れる。
「ところで、芹──」
急に深刻な口調になる珠菜に、芹は首をかしげる。
「どうしたの?」
「ここって……トイレ、どこだっけ?」
「この部屋を出て、廊下をまっすぐ進んで突き当りを右に進んで、もう一回、突き当りを右に進んで、その突き当たりを右に行ったところ」
「この別荘って迷路なの?」
「別に難しくないでしょ。壁とぶつかる前に右に進むだけよ」
「ふうん……」
場所は把握できたはずなのに、珠菜は動こうとしない。
「いかないの? トイレ」
「うん……まだ、大丈夫……だと思う」
自分のことなのに煮え切らない珠菜の態度に、芹は苦笑する。
「もしかして珠菜、さっき見たアニメのこと、引きずってたりする?」
「へ、変なこと言わないでよ」図星を突かれた顔。「わ、私、中三だよ?」
「別にいいけど、もらさないでね?」
「そ、そんなことするわけないでしょ。私、中三だし、まだ、がまんできるし」
【珠菜の限界まであと 一〇〇秒】
「それなら別にいいけど、あ、そうだ」
思い出したように、芹は手をぽんと叩く。
「どうしたの?」
「トイレに入っても、ドアはちゃんと閉めないで、少し開けておいてね」
「なんで?」珠菜の声が上ずる。「──お、おばけとか、出てくるから?」
「違うって。ちゃんと閉めたら開かなくなるの」
「なんで!」珠菜は声を上げる。「呪われてるの?」
【珠菜の限界まであと 七〇秒】
「違うって。経年劣化で建付けが悪くなってるだけ」
「経年劣化って何? おばけをやっつける魔法の言葉?」
「……そうだよ。よく知ってるね」
まともに相手にするのも疲れてきた。
【珠菜の限界まであと 一〇秒】
そんじょそこらの悪霊なら逃げ出すほど、珠菜の表情は鬼気迫っている。
「ねえ珠菜、怖いなら一緒にトイレいってあげるから、もらすのだけは本当に──」
親友の声も耳に届いていない様子で珠菜は立ち上がり、一歩踏み出す。
そして「あ」と一言もらす。
【珠菜の限界まであと 一秒】
「あ?」と芹も声をもらす。
珠菜は言う。「──なんか」
芹は繰り返す。「──なんか?」
「なんか──大丈夫になったっぽい」
【珠菜の限界まであと 二〇〇〇秒】
すぐそこまで迫っていた波は好都合に引いてくれたため、珠菜はソファーに腰をおろして、スマートフォンを操作しはじめる。
画面には通販サイトのページが表示され、電動歯ブラシの画像と紹介文が載っている。
「面白いレビュー読んでると、ほしくなっちゃうよね」
「そういうのって、ほとんど業者かAIだよ」
「そうなの? でもそろそろ買おうと思うんだ」
「そういうところでは、買わないほうがいいよ」
「どうして?」
珍しく否定的なことばかり口にする芹に、珠菜は疑問符を浮かべた。
「なんか、偽物とか、不良品が多いって聞いたから──」と曖昧に返す。
芹には一つ、為さねばならないことがある。
珠菜の電動歯ブラシ購入を阻止することだ。
もうすぐ珠菜の誕生日。
既に一流メーカーの逸品を用意してある。
だからといって、誕生日にプレゼントするから買わなくてもいいと伝えるのはつまらない。
サプライズして、驚く親友の顔を見たいのだ。
「そうなんだ」
納得したかどうかは定かでないけれど、珠菜はスマートフォンをテーブルに置いた。
同時に頭上から、ごおお、ごおおお、と耳慣れないおぞましい音が響く。
「なになに? なんの音?」
飛び跳ねる珠菜。
「空調の音だよ」芹はあっさり教えてくれた。「ときどき変な音がするけど、問題ないから使ってるって親が言ってた」
「へ、へえ、そうなんだ。まあ、そうだと思ってたけど」
そんなのは予想の範疇だと言いたげにソファーから腰をあげ、意味もなくバルコニーへとつづくガラス製の扉に進む。
扉に手を当てて、芹に見られないよう深呼吸をする。
くだらないことで驚いて急上昇した心拍数を整える。
だが、それは叶わなかった。
ぴとん、ぴとん、とガラス扉に複数の水滴が落ちてきたのだ。
「せ、芹! 急に空から水が落ちてきた!」
空調の音のときよりもはるかに仰天した声を放ち、珠菜は芹に振り返る。
「おちついて。珠菜は知らないかもしれないけど、それは『雨』っていうただの自然現象だから」
「へ?」一瞬、ぽかんとした表情を晒したあとで「じょ、冗談だよ、ちょっと驚いたふりをしただけだから……」と気まずそうに頬を痙攣させながら、逃れるように視線を窓の外に戻す。
もう容易く慌てふためいたりするものかと誓った刹那、外の景色を眺める珠菜の体は、ぴくりとも動かなくなってしまった。
「ねえ……芹」
体は正面に向けたまま、腕だけ動かして、親友を手招きする。
「どうしたの?」
珠菜の隣に立ち、二階の窓から外に目を移すものの、夜闇のせいで視界が悪い。
「あれも、自然現象、なの?」
珠菜の指さした先を目で追う。
目を凝らして見えたのは、別荘の門の前に佇む人影。
一瞬の稲光。珠菜の悲鳴。その一瞬が、一瞬、門前の人影を不気味に照らした。
「あれは──」
怪奇現象かも、と言いかけたけれど、珠菜が失神する怖れがあるため口を閉ざす。
お願いだからやめて! 殺されるよ! 呪われるよ!
涙声で叫び、しがみつく珠菜を引きずりながら玄関の扉を開け、門に向かう。
近所には顔見知りしかいないし、危険人物だったとしても、簡単に門は開かないので、そこまで不安はない。
ぽつぽつ、雨脚が強くなる。
門扉まで辿り着き、縦桟の隙間から見えたのは、一人の少女の姿だった。
彼女は個性的な出で立ちをしていた。裾が短く袖のない白いワンピースを身に着け、その腹部は花が咲いたような形に裂け、肌を露出していた。そういうデザインなのか、彼女が自分で破ったのかはわからない。
脚は素足。髪の長さは肩まで伸ばしている程度だが、毛先が粗野に広がっており、それらが彼女に野性的な魅力を加味していた。
「こんぱんは」
無表情な声で少女は言う。
芹はその少女に見覚えがなかった。近所の子だろうか。
「うちに何か用?」
芹の問いにワンピースの少女は「ちょっと、様子を見たくなって」と返す。
要領を得ない相手の言葉に芹は顔をしかめる。
くいくいと、芹の着ている体操服の袖を珠菜が引く。
「風邪引いちゃうよ。中に入れてあげよう?」
ほんの数秒前まで、呪われるだの殺されるだの叫んでいたのに、こういうところが珠菜だなと芹は口元を緩めて、うなずいた。
別荘の二階。
タオルで体を拭って、何かあたたかいものでも飲む? と訊いてきた芹に、少女は「だったら、フライドポテトがいい」と伝えた。
一瞬、不思議そうな顔した芹だったけれど、わかったと言って、キッチンのある一階におりていった。
部屋には珠菜と少女の二人きり。
珠菜は、何だか気まずかった。
「こんばんは」と少女は言う。
「こ、こんばんは」珠菜は返す。
やはり、気まずい。
白いワンピースの少女は言う。
「……私のことを、覚えている?」と。
銃で脅されたみたいに、肩を震わせる珠菜。
どうしよう。
この子のことが、まったくわからない。
昔、どこかで会ったのだろうか。
相手は自分を知っているようだけど、自分は相手を知らない。
沈黙が長引くにつれ、自分の中で罪悪感のようなものが膨れていく。
嘘をつくことも、曖昧に濁すこともできたけれど、それはよくない気がした。
「……ごめんさい、覚えてないです」
ゆえに、素直にあやまる。
「──私のこと、覚えてない、の?」少女の瞳孔が開く。
「は、はい──」
ごめんなさい、とつづけようとすると、少女の声がそれを遮った。
「──よかった。ちゃんと記憶が整理されている」
少女の言わんとすることが、珠菜にはわからなかった。
ただ、彼女の表情に変化はないけれど、なんだか安心しているようにも見えて、珠菜もどこか安堵する。
「お待たせ」
トレーの上にフライドポテトとボトルに入ったケチャップを乗せて、芹が戻ってきた。
「ポテト!」
少女は目を輝かせて、テーブルの上に置かれたそれにケチャップをたっぷりかけて、口に運ぶ。
「おいしい?」
訊ねる芹に、夢中で頬張ることで少女は応える。
珠菜も一本、つまむ。
カリっとした音と共に、あつあつの熱とホクホクの食感が口の中で踊る。
ポテト本来の旨味に塩が加勢して、シンプルだけど力強い味わいが生まれる。素材への知識を持たない珠菜でも、上等な芋と塩を使っているのはわかる。
極めつけは、このケチャップ。
これは本当にケチャップなのか、これが本当のケチャップなのか。
果実のように上品な甘みと酸味、主役のトマトをはじめ、いくつかの野菜とスパイスを融合して煮詰めたこれは、もはやこれ自身が一つの完成された料理といえる。
それを贅沢にまとったフライドポテトは、高級レストランのメインディッシュに成り得る可能性を秘めているのではないかと、高級レストランに一度も行ったことのない珠菜は夢想した。
「完璧!」変わった服装の少女は声を上げる。「このケチャップ、完璧!」
珠菜もそれに同意する。
「もっとかける!」
言いながら、少女はケチャップのボトルを握りしめる。
ぶしゃあああああ、と少女の顔面にトマトの粘液が噴射される。
ボトルはポリエチレン製なので、少女の握力でも強く握れば当然そうなる。
比喩ではなくトマト色に染まった自分の顔を、舌をのばしてぺろりと舐めて「おいしい」と呑気に感想を述べた。
珠菜は何か拭うものはないか探しているが、見当たらない。
少女の顔のケチャップは重力によって垂れ落ち、服や体にも付着しはじめたのを見て芹は「雨にも濡れてるし、入っちゃおっか、お風呂」と提案した。
「広い!」
浴室の扉を開けるなり頭に浮かんだ衝撃を謎の少女が叫んでくれたので、珠菜は他に言葉が出てこなかった。
本当に広い。銭湯みたいだ。
まさか生まれてはじめてのお風呂というわけでもないだろうに、謎の少女は、あれは何? これは何? と、そこにあるあらゆるもの──シャワーや石鹸や湯船にまで興味津々だった。
それからどういうわけか最終的に全身を泡まみれにした少女に体をこすりつけられ、珠菜と芹は体を洗われる羽目になった。
「なんだか修学旅行みたいで楽しいね」
「……そうね」
珠菜の意見に芹はそっけなく返すけれど、これは心から楽しんでいるのを悟られたくないときに見せる態度であることを珠菜は知っている。
相変わらず少女はポテトに夢中で、それを微笑ましく横目にしながら珠菜はサイダーを一口飲んだ。
その時だった。
忘れていた過去の記憶が蘇るように、体の奥底から激しくこみ上げてくるものがあった。
「あ……ああ!」
「珠菜? どうしたの?」
親友の豹変に、芹は動揺する。
「あ……ああ……」
珠城珠菜は──
【珠菜の限界まであと 二〇秒】
急に、トイレに駆け込みたくなったのだ。
迫りくる、脅威──によく似た言葉。
「珠菜、すごい顔してるけど、大丈夫?」
心配されると、体内の波が余計に強くなる。
「だ、大丈夫──」
【珠菜の限界まであと 一〇秒】
「──じゃないかも」
気を抜けば、その瞬間、催してしまいそうだ。
「ちょ、ちょっと、いってくる!」
そう残して、少女は部屋から飛び出した。
【珠菜の限界まであと 七秒】
やれやれと、ため息をついて、芹は少女の隣に腰をおろす。
「私は気づいてしまった」と感慨深く少女は言う。「ポテトは、ケチャップのためにある」
細長い黄金色のポテトのてっぺんに、赤い調味料が綿菓子みたいに盛られている。
それを一口で飲み込む少女。
喉に詰まったようで、むせる。
サイダーを渡すと、それを一気に飲んだあと、まじまじと瓶を見つめ「こんなおいしいもの、はじめて飲んだ」と目を見開く。
まるでついさっきこの世界に生まれたばかりのような、何に対しても新鮮な感想をもらす少女に向かって、芹は優しくささやいた。
「おかえりなさい──ティーア」
ワンピースの少女は、ぎょっとした顔で芹を見返す。
はじめての、感情を伴った表情だった。
「……なにを、言っているの?」
芹は困ったように、はにかんでみせる。
「自分でも何を言ってるのかわからないけど──でも、あなた、ティーアなんでしょ?」
まばたきを数回、口の開閉を何度か繰り返し、観念したように少女は
「──どうして、わかったの?」と訊いた。
「わからないけど、わかったの」ポテトを一つ摘まんで、ケチャップをつけて、それを目の高さに掲げる。「昔、私がポテトを食べてたら、ティーアも食べたそうによく手を伸ばしてきてたよね」
ティーアはうなずく。
「でも、芹は私にポテトをくれなかった」
芹は困ったように笑う。
「ネコの体にポテトはよくないって読んだことがあるから」
「それは嘘、私は何でもおいしく食べられる」
「ティーアはケチャップの入ったお皿に手を入れて、それでよく私の顔にイタズラしてきたよね」
「ポテトをくれない芹に、ささやかな仕返し」とティーアはそのときの真相を語る。
芹はくすっと笑いをこぼした。
それから二人は同時にサイダーを飲む。
ふうっと息を吐いて、芹はこんなことを口にした。
「ねえ、ティーア」しっかりと相手と目を合わせる。「ありがとう」
「急に、どうしたの?」
「私ね、少し変な記憶があるの──記憶かどうかもわからないんだけど、ほんの少し前に、私にすごくよくないことが起きた気がして、でもそれをティーアが助けてくれた。そういう記憶」
ティーアは首を左右に振る。
「私は何もしてない。全部、珠菜が解決してくれた」
それを聞いて、芹は笑いながら背中をソファーに預けた。
「そっか、珠菜か──珠菜が助けてくれてたんだ」言いながら天を仰ぐ。「ほんと、珠菜には敵わないや」
そして顔をティーアに向けて、口を開く。
「だけど、きっとティーアは珠菜の力になってくれたんでしょ?」
「…………」少女は何も返さない。
「ありがとう」
そう告げると、妙な眠気が霧のように芹を包み込む。
「……あれ? どうしたんだろう……なんだか、眠い……」
ソファーの上でうつろになる芹を見つめながら、ティーアは言う。
「私はとても嬉しい、芹が私を覚えてくれていたから。でも私はとても悲しい、芹が私を覚えてくれていたから」相反することを口にする。「高いところから見ている存在との約束──芹が私に気づいたら、この再開はおしまいと言われていた。目覚めたとき、芹は今日のことを覚えていない。でもかまわない、芹は私のことを覚えてくれていたから……」
ティーアはテーブルの上に視線を移す。
「ポテト、おいしかった」
そこで、過去の記憶がよみがえる。
あの日のように、少女はともだちに小さなイタズラをして、そっと部屋から出ていった。
廊下を進んでいくと、珠菜の背中が目に入る。
彼女は、石像のように固まっていた。
珠菜の前に、ゆるやかに輝く、小さな猫の姿があった。
どうやら、超常現象に遭遇したと思い込んで、失神しているらしい。
【珠菜の限界まであと 一秒】
よいしょ、とティーアは珠菜を担ぐと、彼女をトイレまで運び、容器に腰をおろして、短パンと一緒に下着を踝まで下げた。
その姿を見て、満足そうにうなずく。
「これで、珠菜の尊厳は守られた」
トイレのドアをしっかりと閉めて廊下に戻り、少女の体は光る猫に吸い込まれると、その猫も光の粒となって消えた。
御暁芹はソファーの上で、はっと目を覚ます。
いつの間にか眠っていたようだ。
なんだか夢を見ていたような気もするけれど、思い出せない。
ただ、悪くない夢だった。そんなあたたかさが胸に残っている。
そういえば。
「……珠菜?」
姿が見えない親友の名を呼んでみたものの、返事がない。
そのまま五分、待ってみる。
さすがに不安になって廊下に出ると、離れた場所から自分を呼ぶ声がした。
おそらく、トイレに入ってドアをしっかり閉めてしまったのだろう。
建付けが悪くなったせいで、内側からだと開かなくなっているのだ。
足早にトイレまで進み、ドアを開く。
「芹ー!」
涙ぐんだ珠菜が、抱きつかんばかりの勢いでせまってきた。
だが、自分の顔を見るなり、彼女の表情がなぜか凍りつく。
「珠菜? どうしたの?」
「あ……あ、せ、芹──その顔、赤くなって、あ、あなた、芹じゃないでしょ!」
意味が解らず、手の甲で顔を拭ってみると、なぜか頬にケチャップがついていた。
「えっと……お、おばけを退治するのには、何か白い布が──そうだ!」
理解不能なことを口走る珠菜は突然何を思ったのか、トイレを更衣室かどこかと勘違いしているのか、身に着けている白い半袖の体操服を勢いよく脱いだ。
そして──
「け、経年劣化! 経年劣化!」
と叫びながら、その体操服をハリセンみたいに何度もぶつけてきた。
珠菜の匂いを纏った体操服を理不尽に浴びせられながら、芹は固く誓う。
やっぱり誕生日プレゼントは電動歯ブラシじゃなくて、国語辞典にしよう。




