期間限定掲載パイロット版
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
もともとこの作品はとある新人賞に投稿して三次選考まで残った短編小説のアイデアを長編にしたものです。
そのとき編集部の方からいただいたアドバイスを生かして完成させたのがフォローチャートという物語です。
元となった短編小説を掲載しますので、よろしければごらんください。
お楽しみいただければ幸いです。
夜になったまま、朝がこない。
ずっとずっと長い間、ボクは夜に閉じ込められていた。
何も見えなくて、体も動かせなくて、お腹もへらないし、眠くもならない。
そして突然、声が聞こえた。
少女「こんにちは」
ボク「だれ?」
少女「お、いいわね。反応は良好っと」
ボク「お姉さんだれ? どこにいるの?」
少女「ここは意識だけの世界だから、姿は見えないのよ」
ボク「……?」
少女「気分はどう?」
ボク「別に。なんか変な感じはするけど……よくわかんない」
少女「すぐに慣れるわ」
ボク「ねえ、お姉さんだれ? ここどこ?」
少女「その前に、キミに言っておかなければいけないことがあるの」
ボク「何?」
少女「あのね、キミはもう死んでしまったのよ」
ボク「あっそ」
少女「……え? それだけ?」
ボク「ボクは死んだんでしょ。わかったよ」
少女「もう少し驚くかと思ったけど、キミは変わってるね」
ボク「じゃあここは地獄で、お姉さんはエンマ様?」
少女「私はエンマ様じゃないし、ここは地獄でもないわ」
ボク「ねえエンマ様、ボクをどうするの? 血の池に沈めるの? 針の山を歩かせるの?」
少女「私の話を聞いてよ……そんなことはしないから」
ボク「だったら、ボクはどうしてここにいるの?」
少女「キミは私とお話するために、ここにいるのよ」
ボク「ふうん。で、どんなお話をするの?」
少女「まずはキミの名前を教えて」
ボク「名前? ボクに名前なんて……あるの?」
少女「あるわよ、とてもいい名前がね。もう忘れちゃったみたいだけど」
ボク「どうして忘れたんだろう」
少女「……思ったより早く再生への準備が進んでいるみたいね」
ボク「さいせい?」
少女「時間が限られているから簡単に説明するわ」
ボク「うん」
少女「命の長さ。生から死までの距離は、誕生からすでに定められているの」
ボク「よくわからないけど、なんかカッコイイね」
少女「そして死が近づくと、天はその魂に『死に様』を与えるの」
ボク「しにざま?」
少女「どういうふうに死んでいくか、ってことよ」
ボク「ふうん」
少女「キミの死の直前にも『死に様』は与えられたわ。だけど……」
ボク「だけど?」
少女「キミはその死に様に叛いてしまった」
ボク「そむくって?」
少女「思い通りにならなかった、って言えばわかるかな?」
ボク「わかるよ」
少女「私がキミに会いにきたのはね」
ボク「うん」
少女「キミが死の直前に、どうして『あんなこと』をしたのか教えてほしいからよ」
ボク「ボクが死ぬ前にしたこと……そんなの覚えてないよ」
少女「そうよね、自分の名前も思い出せないみたいだし」
ボク「これって記憶喪失ってやつ?」
少女「ちょっと違うかな。失くしてるわけじゃなくて、消してるわけだから」
ボク「え?」
少女「一つの生を終えた魂は新たな誕生を迎えるために、前世の記憶を消してしまうの」
ボク「どうして?」
少女「記憶が混乱してしまうからよ。うまく消しきれないこともたまにあるけどね」
ボク「だったらボク、エンマ様の役に立てそうにないね」
少女「どうして?」
ボク「エンマ様はボクの記憶を知りたいんでしょ? でもボクには記憶が残ってないよ」
少女「大丈夫。今からキミに記憶を取り戻してもらうから」
ボク「どうするの?」
少女「死が訪れる一〇〇秒前に、キミは天の定めに叛いてしまった」
ボク「へえ」
少女「だから、今からその一〇〇秒を体験してもらうわ」
ボク「──へ?」
言葉の終わりと同時に夜は明けて、世界は眩しすぎる光に包まれた。
【残り時間 一○○秒】
机、椅子、黒板。
気がつくと、教室にいた。
ボクは昼寝している犬みたいに、うつ伏せに倒れている。
どうしてこんなところにいるんだろう。
【残り時間 八二秒】
すごく頭が痛い。
息をするのも辛い。体から力がどんどん奪われているような気がする。
【残り時間 五三秒】
苦しくて、それに足も痛くて立ち上がれない。
【残り時間 三七秒】
すぐそばで誰かの視線を感じた。ボクはその方向を目をやる。
どうして気がつかなかったのだろう。目の前に、男の人と女の人がいた。
【残り時間 二六秒】
男の人は怯えた目つきでボクを見下ろして、隣に立ってる女の人にしがみついていた。
【残り時間 二〇秒】
女の人は静かな瞳でボクを見ていた。
【残り時間 一九秒】
なんだろう、この気持ち。
このお姉さんを見ていると、嬉しいような悲しいような不思議な感情があふれてくる。
なんとか起き上がろうと踏ん張ってみる。だけど、体がいうことをきいてくれない。
【残り時間 七秒】
ボクは手に何かを握っていた。
【残り時間 六秒】
右手には紅いバラの花。
【残り時間 五秒】
左手にはナイフ。
【残り時間 四秒】
ナイフには赤い血がべっとりとついていた。
【残り時間 三秒】
ボクとお姉さんの目が合った。
【残り時間 二秒】
お姉さんはゆっくりと口を開いてこうつぶやいた。
【残り時間 一秒】
「セイ君」
【残り時間 ○秒】
目隠しされたみたいに景色は消えて、何も聞こえなくなって、また夜がきた。
少女「どう、何か思い出した?」
ボク「な、なに今の? ボクどうかしちゃったの? ねえ、答えてよ! ねえ! ねえ!」
少女「落ち着いて。意識を一時的に過去へ送っただけだから」
ボク「いきなり教室にいて、知らないお兄さんとお姉さんがいて、それでお姉さんが──」
少女「お姉さんが?」
ボク「ボクの名前を呼んでくれた……セイ君って」
少女「よく思い出したわね。その通り、キミの名前はセイよ、セイ君」
ボク「……だけど」
少女「ん?」
ボク「名前は思い出したけど、他には何も思い出せなかったよ。それに──」
少女「それに?」
ボク「ボクは死ぬ前、何にも叛いてなかったよ」
少女「違うのよ、セイ君」
ボク「違うって?」
少女「今キミが体験したのは、死が訪れる約二百秒前の過去。知りたいのはその後のことなの」
ボク「どうしてそんなことを?」
少女「決定的な過去を見れば記憶がよみがえると思ったけど、そうはいかないみたいね」
ボク「思ったんだけど、ボクが死ぬ前に何をしたのかエンマ様が教えてくれるってのはどう?」
少女「ええ、はじめはそうしようと思ったんだけど……」
ボク「そうすれば、ボクがどうしてそんなことしたのか、すぐに思い出すかもよ」
少女「いいえ。きっと、それはないわ」
ボク「どうして?」
少女「答えだけいっても、キミはどうして自分がそんなことをしたのか理解できないから」
ボク「自分がしたことなのに?」
少女「それに実をいうと、キミが運命に逆らったあの一〇〇秒の時──」
ボク「うん」
少女「あのとき私には、キミが『何をしているのかわからなかった』から」
ボク「ボクは手にナイフとバラの花を持ってた。目の前にお兄さんとお姉さんがいた」
少女「何か思い出せそう?」
ボク「…………ううん、全然だめ」
少女「……そう」
ボク「それにボク、自分がどんな人間だったのかも思い出せないし」
少女「そっか。ねえ、セイ君」
ボク「なに?」
少女「私とキミは、さっきからこうやって二人っきりでお喋りしてるわよね」
ボク「うん、そうだね」
少女「なにか変な感じがしたりしない?」
ボク「……別に? 普通だと思うよ」
少女「それじゃあ、キミがどういう人生を歩んできたのか、別の過去も見てきて」
再び夜が明け、光が射した。
【残り時間 一○○秒】
「だーれだ?」
誰かの声と同時に再び夜がボクを襲う。
「やめてやれよヒロキ、そいつ喋れないんだから」
別の誰かの声がする。
「あ、そっか」
闇が晴れて、ボクの視界に光が戻る。
ぼんやりとした世界が徐々に正しさを取り戻し、そこには二人の少年がいた。
【残り時間 七〇秒】
「悪気はなかったんだよ、ゴメンな」
青白い顔でガリガリに痩せたヤツがそう言ってきた。胸には『すずしま ひろき』と名札がついている。
「許してやってくれ」
ヒロキとは正反対でブクブクと太ったヤツが言った。名前は『ふじた かずき』というらしい。
【残り時間 四一秒】
ボクたち三人は同じような水玉模様のパジャマを着て、同じ部屋の中で同じ時を過ごしている。たぶん、年も同じくらいだと思う。
だけど自分がここにいる理由は……わからない。
【残り時間 二九秒】
床には絵本と学習ドリルと遊び方のわからないオモチャが転がっている。でも、誰もそれらに興味を持っていないようだった。
ただなんとなく、時間だけが流れていく。
【残り時間 一八秒】
「お前ら、いいもの見せてやるから絶対、先生にはいうなよ」
今の今まで、のほほんと窓の外を眺めていたカズキが急に声を押し殺して、そうつぶやく。
「うん、わかった」
力強く頷くヒロキ。興味津々な様子だ。
ボクもヒロキと同じように首を縦にふった。
【残り時間 九秒】
「どうだこれ、すげーだろ?」
そっとカズキが出したもの。
「カズキ君、これ……やばいって」
それを見たヒロキは声を上げる。
「しっ! 先生にバレるだろ」
「これ、どうしたの?」ヒロキは何だか怯えていた。
「職員室からとってきた」カズキはなぜか勝ち誇っていた。
【残り時間 二秒】
カズキの手の上で、一本のナイフが不気味なほど輝いていた。
【残り時間 ○秒】
輝きもつかの間、ボクは夜に戻される。
少女「お帰りなさい」
ボク「……ただいま」
少女「収穫はあった?」
ボク「……いっぱい思い出せたよ。ヒロキのこと、カズキのこと、それに」
少女「それに?」
ボク「ボクは喋ることができなかったってことも……」
少女「…………」
ボク「教えてよエンマ様。ここでは喋ることができるのに、どうして──」
少女「ここは肉体を持たない精神だけの世界だから、声は意識に直接響くの」
ボク「意味がわからないよ」
少女「前世でキミは……喋ることのできない難病に侵されていたから」
ボク「ボクたちがいた、あそこはどこなの?」
少女「重い病気にかかって普通の生活をおくることが困難な子供たちが集まる場所よ」
ボク「でも、ヒロキとカズキはちゃんと喋ることができてたよ?」
少女「キミとは違うけど、あの二人の体も重い病に蝕まれているのよ」
ボク「そうなんだ。ところでエンマ様、一つ聞きたいことがあるんだけど」
少女「なに?」
ボク「もっと長く過去にいることはできないの?」
少女「ああ、それは……」
ボク「何か思い出せそうになっても、すぐに戻ってきちゃって頭が変になりそうだよ」
少女「こればっかりは私の力不足ね。ごめんなさい」
ボク「エンマ様の力でボクを過去に連れて行ってくれてるの?」
少女「そうよ。今こうしてキミの魂と話している間も、力は使いつづけているのよ」
ボク「ふーん、そうなんだ。疲れない?」
少女「正直いうと結構疲れるわ。それにもう半分くらいは力を使っちゃったかな」
ボク「無理しないでやめればいいのに」
少女「それはできないわ。キミが記憶を取り戻すまで、諦めるわけにはいかないの」
ボク「…………」
少女「だからお願い。協力して」
ボク「……わかったよ。次はどこに連れていってくれるの?」
少女「力を使える回数が限られているから、断片的にしか過去を見せられないけれど」
ボク「うん」
少女「キミが死に様に叛いた決定的原因となったのは、きっと彼女のせいだと思うの」
どこか悲しいエンマ様の声を聞きながら、夜は終わりを告げた。
【残り時間 一○○秒】
カーテンの隙間から光が射している。時計の針が今は朝の十時だよと告げていた。
部屋にはボク以外誰もいない。ボクはぽつりと床に座っていた。
【残り時間 八二秒】
泥棒みたいに注意深く辺りの様子をうかがいながら、ヒロキとカズキが帰ってきた。
部屋に戻るなりニヤニヤした表情でヒロキがボクにいった。
「おいセイ、これからいいもの見せてやるから、絶対誰にもいうなよ?」
「だからそいつは喋りたくても喋れないんだっつってんだろ」
カズキは少し呆れていた。
「ゴメン、そうだったな」
ヒロキはポコっと自分の頭に拳を落とした。反省のつもりだろうか。
【残り時間 五八秒】
ボクたち三人は部屋の隅で円を組んだ。
宝物を扱うように、そっとカズキが取り出したもの、それは筆箱を二つくっつけたくらいの大きさの、小さなテレビだった。
「どうだセイ、すげーだろ。これでテレビの時間以外でも好きなときにテレビが見られるぜ」
「ね、カズキ君、早くつけてみてよ!」
興奮を抑えきれずヒロキが叫ぶ。
カズキがテレビについていた緑色のボタンを押すと、画面にぼんやりとした光が宿り、そこへ徐々に複雑な色が集合して、小さな世界が映し出される。
お侍さんが悪いやつらを刀でやっつけていた。斬られた悪者はものすごい叫び声を上げて倒れてしまった。カズキがボタンを押すと番組が変わった。変な色の髪をしたオバさんがおいしそうなお菓子を作っていた。また番組は変わる。マイクを片手に派手な色の服を着たお兄さんが「だいじょうぶ、きみならできるさ」と歌っていた。
「やったねカズキ君」
「これで俺たちだけアークレンジャーを見られるな」
はしゃぐ二人。
ボクもなんだかワクワクしていた。大人たちは知らない、知られてはいけないボクたちだけの秘密。
だけど、その秘密はいとも簡単に奪われてしまった。
すっと、上から伸びてきた細い腕がボクたちの秘密を取り上げた。
「こらこらダメでしょ、勝手に職員室からものを取っていっちゃ」
声の主を見た。
はじめて会ったはずのその女の人に、ボクは確かにどこかで会ったことがあった。
【残り時間 ○秒】
突然の夜。
ボク「戻して」
少女「え?」
ボク「今のつづきへ早くボクを戻してよ!」
少女「え? え?」
ボク「はやく!」
少女「え、ええ……」
夜が明ける。
【残り時間 一○○秒】
「ダメでしょ、きみたち。勝手に人のものを持っていっちゃ」
女の人は怒っていた。だけどその顔は全然怖くなんかなくて、むしろすごく、すごく優しかった。
【残り時間 七九秒】
ボクとヒロキとカズキは命令されてもいないのに、その場で正座をした。イタズラがばれて反省をさせられるとき、いつもこうしているから体が勝手に動くのだ。
何も悪いことをしていないお姉ちゃんも、なぜか僕たちの前で正座をした。
「何かいうことは?」お花みたいに綺麗な声だった。
「ごめんなさい」最初にカズキがあやまった。
「ゴメンナサイ」ヒロキがつづいた。
「…………」ごめんなさい。ボクは心であやまった。
だけどお姉さんはボクのことだけ許してくれてないみたいで、正座したままボクのほうへ近づいてきた。
【残り時間 五九秒】
「どうしてキミは何もいってくれないの?」
お姉さんがボクを叱った。どうしてボクは何もいえないんだろう。
「無理だよ」ヒロキが口をはさむ。「そいつ喋れないもん。ね、カズキ君」
「黙ってろ」
カズキはヒロキの口を手で塞いだ。
「あ……」お姉さんも自分の口を手で覆う。「ごめんなさい……じゃあ、きみがセイ君?」
綺麗な声がボクの名前を呼んでくれた。
ボクはしっかりとうなずいた。
【残り時間 三三秒】
「本当にごめんなさい。ところで、なんでみんな正座してるの? もっと楽にしましょ」
お姉さんの声を合図にボクたし三人は足をくずした。お姉さんは正座したままだった。
【残り時間 二七秒】
「お姉ちゃんってさあ、ボランティアの人なんでしょ?」とカズキは聞いた。
「ええ、そうよ。よく知ってるわね」
「ぼらんてぃあって何?」ヒロキは首をかしげた。
「知るかよ」とカズキは言った。
二人のやりとりを見ていたお姉ちゃんはクスクスと笑っていた。
【残り時間 一七秒】
「お姉ちゃんって高校生?」
「それ制服なの?」
次から次へとお姉ちゃんを質問攻めにするヒロキとカズキ。なんだかよくわからないけど、ボクは二人がうらやましくて、うとましかった。
「そうよ。私は高校生でこれはそこの制服よ。似合ってる?」
うん。すごく似合ってるよ。
……どうしてボクは声で伝えられないんだろう。
【残り時間 八秒】
またヒロキが質問をぶつけた。「ねえ、お姉ちゃんって名前なんていうの?」
「あ、自己紹介がまだだったね。私の名前は月島由香っていいます。よろしくね」
【残り時間 ○秒】
せっかく『また』会えたのに、残酷な時間はボクを夜に連れ戻す。
ボク「ねえエンマ様、もう一回ボクを戻してよ。ねえ! ねえってば!」
少女「…………」
ボク「あれ? エンマ様? いないの?」
少女「いる……わよ」
ボク「どうしたの、声が変だけど」
少女「連続で力を使ったから、ちょっと疲れただけ。もう大丈夫だから……」
ボク「ほんとに?」
少女「そんなことより、何か思い出したことはある?」
ボク「えっとね……」
少女「例えばきみが死の直前に『何を』していた、とか」
ボク「ううん、それは思い出せなかった。思い出したのはヨシカお姉ちゃんのことだけ」
少女「……そう」
ボク「ねえエンマ様、お願いします。もっとお姉ちゃんに会わせてよ」
少女「うーん、あんまり意味のない過去には戻したくないんだけど……」
ボク「お願いします。ボク、がんばって色々思い出すから」
少女「わかったわ。無理やりキミをここに連れてきたのは私だしね」
ボク「会わせてもらえるの?」
少女「ええ。それに今回は特別サービス。いつもより少しだけ長くいさせてあげる」
希望に満ちた光がボクを包んだ。
【残り時間 三○○秒】
体が、動かない。
でも苦しいわけじゃない。むしろその逆で、すごく気持ちがよかった。
動けないんじゃなくて、動きたくないんだ。
ボクは温かい枕の上で眠りについていた。
風が柔らかくて、いい匂いが鼻をかすめて、優しい歌声に包まれていた。
【残り時間 二五○秒】
そっと目を開けると、緑色の大地にたくさんの花が咲いていた。行ったことがないからわからないけど、天国ってたぶんこんなところだと思う。
「あ、ごめんなさい。起こしちゃった」
歌が終わって、柔らかい声がボクに話しかけてきた。
「おはよう」
見上げると、ヨシカお姉ちゃんが微笑んでいた。
おはようございます。ボクも笑って見せた。でもたぶん、変な顔をしていると思う。
本当は嫌だったけど、ボクはお姉ちゃんの膝から頭をはなして起き上がった。
【残り時間 二一○秒】
病院の外には広い公園があって、ボクとヨシカお姉ちゃんは二人っきりでそこにいる。
なんだか、デートっぽい。
「ヒロキ君もカズキ君も遅いね。休み時間の間に検査が終わりそうにないのかな」
そっか、二人とも検査中なんだ。
……戻ってこなくていいよ。
【残り時間 一五○秒】
「ほら見てセイ君、お花がいっぱい咲いてるね」
お姉ちゃん、お花好きなのかな。ボクは足元に咲いていた白と紫の混ざり合った名前の知らない花を一本ちぎって、お姉ちゃんにプレゼントした。
「あら、私にくれるの? ありがとう」
ヨシカお姉ちゃんはすごく喜んでくれた。
【残り時間 一三〇秒】
ボクは夢中になってそこら中に咲いている花をむしりとった。赤いやつも、白いやつも、ピンク色のや、オレンジのも。集めて一つにすると、小さな花束が出来上がった。ボクはそれをお姉ちゃんにプレゼントした。だけど、お姉ちゃんは受け取ってくれなかった。
「セイ君……」
と、寂しそうな声。もしかし、嫌いな色の花が混ざっていたのだろうか。
「あのね、気持ちはすごく嬉しいんだけど、このお花たちにも命がちゃんとあって、だからいっぱいとっちゃうとかわいそうだよね」
……うん。とうなずいた。
喜んでほしかったのに、喜んでもらえなかった。
「セイ君が作ってくれたこの花束は病院の花瓶にいけようね」
うん。もう一度うなずく。
【残り時間 一○秒】
「なんだよ、ここにいたのかよ」
ふいに背中から声が聞こえた。男の人の声だった。
「中橋君、どうしたの?」
「今日から俺もこのクラスの担当になった」
「へえ、そうなんだ」
何気ない会話のはずなのに、どうしてヨシカお姉ちゃんはこんなに嬉しそうなんだろう。ボクが花をあげたときよりも、ずっとずっと。
「この子はお前のクラスの子?」
「そう。セイ君っていうのよ」
「ああ、例の声が……」
「しっ!」
「あ……すまん」
はじめて会ったばかりのこの男のことが、なぜかボクは大嫌いだった。
【残り時間 ○秒】
何度目かの夜がやってきた。
ボク「あいつ嫌い」
少女「あらあら、帰って早々ご立腹ね」
ボク「ご立腹って?」
少女「今のキミみたいに怒ってることをいうのよ」
ボク「怒ってないよ、あいつが嫌いなだけ!」
少女「……まあいいわ。何か思い出せた?」
ボク「あいつが嫌い!」
少女「はいはい。わかったから」
ボク「わかってないよ全然」
少女「しつもーん」
ボク「なに?」
少女「どうしてキミはあの男の人のことが嫌いなの?」
ボク「え? それはだって…………あれ?」
少女「思い出せないんでしょ」
ボク「……うん」
少女「思い出させてあげるわ」
そして何度目かの朝を迎える。
【残り時間 一○○秒】
「ねえねえねえ、ヨシカ姉ちゃんとワタル兄ちゃんって付き合ってるの?」
「結婚するの? 結婚!」
いつもの部屋でヒロキとカズキが二人を問い詰めていた。
「なんか、すごいな、子供って」
中橋渉。ワタル兄ちゃんはそんな二人に圧倒されていた。
「かわいいでしょ?」
ヨシカお姉ちゃんは今日も綺麗だ。
「ねえ、教えてよお。付き合ってるんでしょ?」
ガキみたいに甘えた声でヒロキがワタル兄ちゃんの腰にしがみついた。
「まあヨシカとは小学校のころから一緒だったし、付き合ってるといえば……」
「セイ、カズキ君、聞いた? 結婚するんだって!」
ワタル兄ちゃんの話を聞き終える前に、ヒロキは叫んだ。
「っていうか、お前は一体何を聞いてたんだ?」
カズキは冷めた言葉を返す。
そのとき、ワタル兄ちゃんのポケットから音楽が流れはじめた。
「お、悪いけど、ちょっと出てくる」
「ここでは携帯電話の電源をお切り下さい」
事務の先生みたいな口調のヨシカお姉ちゃん。
「すまん。大切な用事なんだ」
言い訳がましいワタル兄ちゃん。
「しょうがないな、特別よ」
いつもどおりの優しい声に戻っていた。
そそくさと、逃げるようにワタル兄ちゃんは部屋から出ていった。
【残り時間 七九秒】
「ねえねえねえねえ、ヨシカ姉ちゃんはワタル兄ちゃんとどんなことしてんの?」
「デートとかしてんの? チョコレートは?」
今度はお姉ちゃんを標的にするヒロキとカズキ。
そんな話、聞きたくない。
ボクは立ち上がって、部屋を出ようとした。
「あれセイ、どうしたの?」後ろからカズキが聞いてくる。
ボクは自分の右足を二回叩いた。『トイレにいってくる』の合図だ。
「ついていこうか?」ヨシカお姉ちゃんの声。
ボクは首を何度か横に振って遠慮した。
「そう、気をつけてね」
本当はついてきて欲しかったけど、ついてこられると困った。
だって、別にトイレなんていきたくなかったから。
【残り時間 二二秒】
あてもなく歩きつづけて、裏庭まできてしまった。まだ外は明るいのに、このあたりは誰もいなくて、寂しい。
病院内で噂されている怖い話のほとんどはここが舞台だ。夜中に若い女の人が緑色の涙を流しているだとか、夜中に若い女の人が子供たちを食べるためにここに隠れているだとか、夜中に地面から若い女の人がはえてくるだとか……とにかく、夜中に若い女の人が現れるらしい。
ボクはそんな話信じないし、こんなところにいても全然怖くないけど、ヨシカお姉ちゃんが心配していたらいけないから、とっとと戻ることにした。
ガサっと近くで音がする。思わずボクはその場にしゃがんで身を潜めた。
【残り時間 一五秒】
若い女の人、現る。
なんで? まだ夜中じゃないのに? どうして? ボク、食べられるの?
別に怖くないけど、いざというときのために怯える練習をしていると、誰かが急ぎ足でこちらに向かってくるのがわかった。
若い女の人二号? ──違った。やってきたのはワタル兄ちゃんだった。
どうしてワタル兄ちゃんがここに? 用事ってこのことだったのかな?
ワタル兄ちゃんと若い女の人が何か話し合っている、会話の内容は聞こえないけど二人ともすごく楽しそうだった。
それから二人はちょっとだけ見つめ合って、そしてワタル兄ちゃんと女の人のくちびるが
──くっついた。
【残り時間 ○秒】
真夜中のように、暗くなる。
ボク「あいつ大っ嫌い!」
少女「思い出せたようね」
ボク「なんで? どうして? だってワタル兄ちゃんとヨシカお姉ちゃんは」
少女「付き合ってるわよ」
ボク「あの女の人とは?」
少女「付き合ってる」
ボク「ヨシカお姉ちゃんはそのことを?」
少女「もちろん知らないわよ」
ボク「なんで!」
少女「ワタル君が教えてないから」
ボク「どうして!」
少女「ヨシカちゃんが傷つくからかな?」
ボク「そんなの卑怯だよ!」
少女「そうよね。まあ、ワタル君はハンサムで女の子から人気あるからねえ」
ボク「理由になってないよ! ボクがお姉ちゃんに教えてあげなきゃ」
少女「どうやって?」
ボク「それは……」
少女「やってみる?」
ゆっくりと、夜が明けていく。
【残り時間 一○○秒】
なぜかボクは部屋の窓から外の景色を眺めていた。ずっと向こうには線路があって、その上をオレンジ色の列車が走っていく。当然、列車の騒音なんてここまで届きはしない。そのかわりだろうか、後ろでヒロキが「いやだ、いやだ」とわめいていた。
「セイ」ヒロキの手がボクの肩を掴む。「お前からも何か言えよ。ヨシカ姉ちゃんとワタル兄ちゃん、あと二日でボランティア終わっちゃうんだって。もう会えなくなるんだよ」
「お前、いい加減覚えろよ。そいつは喋れな──」
「喋れなくてもいいから何か言えよ! 姉ちゃんたち、いなくなるんだぞ!」
カズキを遮ってヒロキは無茶なことを言う。
【残り時間 八一秒】
振り返ると、ヒロキは目に涙を浮かべていた。カズキもいつもみたいな元気がない。ワタル兄ちゃんの姿はなく、ヨシカお姉ちゃんは何だか困っていた。
あと二日。たった二日でお姉ちゃんと会えなくなるなんて……そんなの、イヤだ。
【残り時間 七二秒】
ワタル兄ちゃんが部屋にやってきた。ここに漂う重い何かを感じ取ったのか、兄ちゃんの表情から作り笑顔が消えた。
「どうしたんだ?」
ワタル兄ちゃんはヨシカお姉ちゃんに訊ねている。ヒソヒソ話しのつもりかもしれないけど、声はちゃんと聞こえている。
「なんでもないわ。ところで何かあったの?」
「先生がミーティングするから呼んでこいって」
「もうちょっとだけ待ってもらってて、すぐに行くから」
「わかった」
ワタル兄ちゃんは部屋から出ていった。
【残り時間 五七秒】
「みんな、私ちょっと先生たちのところへ行ってくるけど、すぐ帰ってくるから」
去っていこうとするお姉ちゃんのスカートを思わず掴んで、それを阻止する。
「……セイ君」
あんなヤツのところへ行かせるわけにはいかない。
「だいじょうぶよセイ君、私は逃げたりしないから、ね」
きっと今ボクはお姉ちゃんを困らせているに違いない。だけど、だけど……。
あんなヤツのとこなんて、いかないでよ。
ついさっき聞いたばかりのヒロキの言葉が蘇る。『喋れなくてもいいから何かいえ!』
ボクは大きく息を吸い込む。そしてノドにためていた力と共に吐き出した。
結果、ただの深呼吸にしかならなかった。
声って、どうやったら出せるんだろう。
「セイ君、お願いだから……」
そうだ絵だ! 絵に描いて知らせよう。文字でもいい。
ボクは部屋のすみに置いてある道具箱から自分のノートとペンを取り出して、全てを打ち明けることにした。あの悪い男のことを全部だ。
ノートを開いて、ペンを握った。さあ何から描こう…………何を描けばいいんだろう。
描きたいことは山ほどあるのに、それを表現できる技術がボクにはなかった。でもまあいい、とりあえず描いてみよう。ボクはペンを走らせた。白いノートの上に下手クソな線が迷子みたいにユラユラと伸びていく。おかしいな、いつもはもっと上手なのに。
「ダメだよセイ君」ヨシカお姉ちゃんが心配そうな声でボクに話しかけてきた。「今日はいつもより体調がよくないから安静にしてなきゃダメって先生から言われてたでしょ」
……そういえば、そんなことを言われていたような……。
ヨシカお姉ちゃんの手がボクのおでこにふれた。冷たくて気持ちよかった。
「大変、こんなに熱くなってる」
急に世界が慌ただしくなった。ヨシカお姉ちゃんが布団をひいて、ボクを寝かせてくれた。
「すぐに先生を呼んでくるから」
お姉ちゃんは走り去っていった。まるで、ボクから逃げるように。
遠くなっていく足音を聞きながら、ボクは思い知らされた。
ボクは──あまりに無力だ。
【残り時間 ○秒】
意識は夜に。
ボク「……ねえ、エンマ様」
少女「どうしたの?」
ボク「一番最初に戻った過去があったでしょ?」
少女「キミが死ぬ二百秒前の過去のこと?」
ボク「うん。あのあとボクは死に様に叛いたんだよね」
少女「どうして『あんなこと』をしたのか思い出したの?」
ボク「ううん、それはまだ」
少女「……そう」
ボク「だけど、なんとなくわかるんだ。ボクがあのあと何をしたのか」
少女「急かすわけじゃないけど、私の力もそろそろ限界なの」
ボク「ボクはあと何回過去に戻れるの?」
少女「二回よ」
ボク「それじゃあ早く連れていってよ」
少女「わかったわ」
ボク「なんとなくわかる。きっとボクはここで決意するはずなんだ──」
導かれるように、夜は明けた。
【残り時間 一○○秒】
エンディングテーマが終わり、次回予告が流れはじめた。
『次回、アークレンジャー銀河に散る』らしい。
【残り時間 七五秒】
テレビの時間は終わった。
テレビに黒板、何をするときに使うのかよくわからない機械。机や椅子もたくさんあるこの場所は、病院では教室と呼ばれている。
クリスマス会とか、みんなで集まる行事はたいていここでやっていた。
【残り時間 三一秒】
みんな足早に部屋に戻ってしまい、もうボクしか残っていない。
ボクは一人で震えていた。別に体調が悪くなったからじゃない。
嬉しくて、震えていた。
【残り時間 二五秒】
さっきの番組で、アークレンジャーのレッドアークはいっていた。
「大切な人は俺が守ってみせる」
そうだ。大切な人はボクが守ってみせる。
ブルーアークはいっていた。
「そうすれば平和が訪れる」
そうだ。そうすればきっと平和になる。
でもピンクアークはこういっていた。
「だけど敵は巨大よ。私たちに勝てるかしら?」
そうだ。相手は強くて大きい。ボクに勝ち目はあるだろうか?
ブラックアークの言葉を思い出した。
「諦めるな。信じる心さえあればきっと勝てる」
そうだ。ヨシカお姉ちゃんを想う気持ちは誰にも負けない。勝つのはボクだ。
【残り時間 一四秒】
「あ、ここにいたよ」
ヨシカお姉ちゃんが教室にやってきた。……隣にイヤなヤツを連れて。
「どうしたセイ君、心配したぞ」とワタル兄ちゃんはいう。
あっそ。
馴れ馴れしい手つきでヨシカお姉ちゃんの手を握っているワタル兄ちゃんを見て、なぜかボクは悪の将軍ベルザイータの言葉を思い出した。
【残り時間 一秒】
「キサマを地獄に叩きおとしてやる」
【残り時間 ○秒】
夜がきた。どういうわけか心地いい。
ボク「次で、最後なんだね」
少女「そう。あと一回しかキミを過去に戻す力は残されていないの。今の気持ちは?」
ボク「あついよ」
少女「え?」
ボク「あつい、すごく熱いんだ。熱くて、でも気持ちよくて、こんなのはじめてだよ」
少女「だったらキミはこのあと自分がすることも?」
ボク「わからないよ。でも熱いんだ」
少女「…………」
ボク「どうしたの?」
少女「何が?」
ボク「今、笑ったでしょ? なんで? いいことでもあったの?」
少女「そんなこと……」
ボク「ほら、やっぱり笑ってる。エンマ様、もしかしてボクに何か隠してる?」
少女「そんなことないわ。それよりほら、早くいきましょうか」
ボク「そうだね。この憎しみをヤツにぶつけて、お姉ちゃんを助けるんだ」
少女「残りの力全てを使って、キミに今一度、あの世界を──」
光。
【残り時間 七○○秒】
部屋の中、時間は午後四時、外には夕日が。
「あーあ、今日で姉ちゃんと兄ちゃんともサヨナラか」
カズキが床にうつ伏せになって愚痴っていた。ヒロキの姿は見当たらない。
「今までのボランティアの人で一番美人で一番カッコよかったよなあ」
これからするべきことは頭の中で何度も予行演習している。だいじょうぶ、きっとうまくいくはずだ。
カズキがうつ伏せになっているのは好都合だった。ボクはカズキの道具箱の中から、何日か前にアイツが先生から盗んだナイフをそっと奪った。
「おいセイ、何やってんだよ」
驚いて振り返ると、部屋の入り口にいたヒロキがボクを指さしていた。その声に反応してカズキが顔を上げる。目が合う。やばい。
「セイ、おまえなんで俺のナイフ持ってんだ?」
「僕見たよ、セイがカズキ君のナイフ盗んでたところ」
「なんだと!」
カズキは立ち上がってボクに向かってくる。距離はすぐに縮まり取っ組み合いになるが、力でこいつに勝てるわけがない。
こんなところでもたもたしてるわけにはいかないんだ。無我夢中でボクは暴れた。そして、手に持っていたナイフの刃がカズキを左腕を鋭く撫でた。
「痛!」
カズキは顔をゆがめ、傷口をおさえている。ぽたぽたと赤い血が木製の床を染める。
「……セイが」ヒロキの声が怯えている。「セイがカズキ君を刺した!」
違う刺してなんかない。軽くあたっただけだよ。
自分にも危害が加えられると恐れたのか、ヒロキは出入り口に備えつけられている緊急用のブザーを鳴らした。通常これは突然の体調不良などが起きたときに使われる。
ここでボーっとしていたら先生たちに捕まってしまう。
ボクは血のついたナイフを構えてヒロキに向かって走り出す。
「ヒィ! ごめんなさい、ごめんなさい」
刺されるとでも思ったのか、ヒロキは頭を抱えてその場にうずくまった。ボクはさっさと教室から飛び出した。
待っててねヨシカお姉ちゃん。すぐにいくから。
【残り時間 六二○秒】
お別れ会のとき、ヨシカお姉ちゃんは泣いてた。きっとまだここにいたいからに違いない。だから、お姉ちゃんはまだ帰っていないはずだ。まだ教室にいるはずだ。
必ずボクがお姉ちゃんを守って見せる。そのための武器はもう手に入れた。カズキの血を吸ったナイフが赤く艶やかに光る。
だけど──ボクは立ち止まる。そのあとはどうすればいいのだろう。ワタル兄ちゃんを倒したあと、ボクはヨシカお姉ちゃんに愛の告白する。でも喋ることができないから、上手く伝えられる自信がない。どうすればいい? 手を強く握ればわかってもらえるだろうか? 違う。そんなのじゃダメだ。一体、どうすれば──。
ふと、廊下のすみに飾られている花が目に入った。変な形の花瓶に何種類かの花が活けられていた。赤いバラと、黄色い何かと白くてブツブツした何か。バラ以外の花はわからなかったけど、これだと思った。ボクはそこからバラを一本抜き取った。
完璧だ。これで全部整った。敵を倒す武器と愛する人へのプレゼント。ボクは全てを手に入れたのだ。まるで神様がボクの味方をしてくれているみたいだ。
向こうから先生たちが三人走ってきた。ボクは腕を背中にまわして、ナイフを隠した。
どうしたのセイ君、キミの部屋のブザーが鳴ったから、てっきりキミに何かあったと思ったのに、と一人の先生が言う。ボクは首を振って否定した。それより早く部屋にいって下さい、とボクは部屋の方を向いた。わかった、と先生たちはうなずいて走り去っていった。
部屋に着いた先生たちが血まみれになったカズキと怯えたヒロキを発見したらどうなるだろうか? 考えるまでもない気がする。
時間がない、急がなくちゃ。
【残り時間 五一五秒】
教室に到着。
ヨシカお姉ちゃんはまだそこにいた。ワタル兄ちゃんもいる。
教室内に足を踏み入れると、二人ともボクの存在に気がついた。
【残り時間 五〇〇秒】
「セイ君? どうしたの」とお姉ちゃんは言う。
「忘れ物でもしたのかい?」とヤツは言う。
ちょうどこれから帰ろうとしていたのか、ヨシカお姉ちゃんは左手に鞄を持っていた。そして右手はワタル兄ちゃんの手を握っていた。
その手を──離せ。
ボクの右手にはバラの花が、そして背中にまわしている左手にはナイフが。
その左手をワタル兄ちゃんに向けた。
【残り時間 四七九秒】
「おいおい、ちょっと……」
ワタル兄ちゃんは両手をあげて降参のポーズをとった。弱虫め。
「セイ君、そんなもの危ないからしまって」
だいじょうぶだよ。お姉ちゃんには何もしないから。
【残り時間 四七〇秒】
ボクとお姉ちゃんたちとの距離は一メートルくらい。まだ届かない。ボクは一歩前に出た。お姉ちゃんたちは一歩下がった。ボクは進む、お姉ちゃんたちは逃げる。これじゃあ、いつまでたっても終わらない。でも、もうすぐお姉ちゃんたちの後ろには黒板が待っている。だからもう逃げられない。
「お願いセイ君、やめて。どうしてそんなことをするの?」
お姉ちゃん、お姉ちゃんを悪いヤツから守るためだよ。
「おい……頼むからやめてくれよ」
ワタル兄ちゃんはヒロキみたいに怯えて、ヨシカお姉ちゃんの手を強く握り締めていた。弱虫め。戦おうともしないなんて。やっぱりこいつ、大嫌いだ。
ボクの大好きなヨシカお姉ちゃんを傷つけるようなマネをして、ボクの大好きなヨシカお姉ちゃんを、大好きな……あれ?
ここまできて、ボクは大きな疑問にぶつかった。
そういえばボク、どうして『この女の人』のことがこんなに好きなんだろう。
【残り時間 三九〇秒】
ボクの大好きなヨシカお姉ちゃん、どうしてこんなに好きになったの?
美人だから? 違う、そんなんじゃない。
【残り時間 三八一秒】
誰にでも優しいから? 違う、それでもない。
【残り時間 三七九秒】
お花が好きだから? 違う、そんなこと、どうでもいい。
【残り時間 三七〇秒】
ボクは、ボクは何でこの人のことがこんなに好きなんだろう。いつ好きになったの?
はじめて出会ったとき、まるで運命のように好きになった?
違う、違う違う違う! 何か、何か理由があったはずなのに──思い出せない。
【残り時間 三五〇秒】
我に返ると、ボクとワタル兄ちゃんとの距離がやけに縮まっていた。ワタル兄ちゃんはボクからナイフを奪おうと手を伸ばしている。
ボクに近づくな! ナイフをデタラメに振り回す。
「いや!」
悲鳴をあげたのはヨシカお姉ちゃんだった。怪我をしたのはワタル兄ちゃんだった。
ワタル兄ちゃんの手のひらに、赤い手相が加わった。
「もうやめてセイ君。どうして、どうしてこんなことするの……」
ヨシカお姉ちゃんの涙声。はじめて聞く声だった。
どうしてボクはこんなことをしているのだろう。お姉ちゃんに喜んでもらいたかったのに、悲しませている。だけど、どうしてボクはお姉ちゃんに喜んでもらいたかったのだろう。
【残り時間 三一〇秒】
教室には恐怖と絶望が広がっていた。それを生み出したのは、ボク。
誰もこんなことは望んでなかった。
いや、一人だけこんな世界を望んでいたヤツをボクは知っている。
──そうか、そうだった。ボクはやっと思い出した。
ヨシカお姉ちゃんはボクに『教えてくれた』んだ。
だからボクはお姉ちゃんのことを好きになった。
ふいに、急激な頭痛と寒気がボクを襲う。きっとボクに残された時間は少ない。
【残り時間 二九〇秒】
なんとなくわかっていた。ボクがどんなにお姉ちゃんのことが好きでも、この気持ちは届かない。だから、だからせめてボクが生きてるうちに『恩返し』を。
【残り時間 二七八秒】
右手にはバラの花、左手にナイフ。ちょうどいい、これならきっとできる。
ボクはナイフを高く掲げた。何を勘違いしたのか、ワタル兄ちゃんは自分を盾にして、お姉ちゃんを守った。
【残り時間 二七〇秒】
掲げたナイフを力強く振り下ろし、ボクは──ボクの脚を刺した。
【残り時間 二六五秒】
生まれてから一度だけ虫歯になったことがある。治療のときは驚いた。椅子に縛りつけられて、歯をドリルでえぐるのだ。あれはもう痛いとかそういう次元じゃなくて、単純に地獄だった。暴れて泣いて、先生たちに迷惑をかけた。人生であれ以上痛い思いをすることはないだとうと思っていた。今、自分の脚をナイフで刺すまでは。
【残り時間 二〇〇秒】
昼寝してる犬みたいに倒れてしまった。でも、のんきにしている暇なんてない。痛みも苦しみもガマンして何とか立ち上がることができた。
だけど、うまく息をすることができない。視点が定まらず、世界が不気味なダンスを踊っている。それでもヨシカお姉ちゃんの姿だけはしっかりと確認できた。
お姉ちゃんはただ目を見開いてボクを見つめていた。そんなお姉ちゃんの口から、ただ一言「セイ君」とこぼれた。
ありがとう。
【残り時間 一〇五秒】
右手に持っていたバラの花を唇に近づけ、左手のナイフでもう一度、自分の脚を刺した。
そして──
【残り時間 一○○秒】
「
ぁ
」
【残り時間 ○秒】
夜。
ボク「ただいま」
少女「おかえりなさい」
ボク「これでいいの? ボクが死ぬ前にやった一〇〇秒の出来事は」
少女「ええ。だけど、まだわからない」
ボク「何が?」
少女「あの一〇〇秒間。キミは一体、何をしていたの?」
ボク「……歌を、うたったんだ」
少女「歌?」
ボク「そうだよ。どうしてだかわからないけど、歌えるような気がしたんだ」
少女「バラの花を口に近づけてたのは?」
ボク「マイク代わりにちょうどいいかなって」
少女「なぜ自分の脚をナイフで刺したの?」
ボク「……ボク、喋ることができないでしょ?」
少女「ええ」
ボク「声が出せなきゃ歌えない……そのときね、いい事を思い出したんだ」
少女「どんなこと?」
ボク「テレビで見たんだ。お侍さんが悪いヤツを刀で斬ってた」
少女「それで?」
ボク「斬られた人は凄い声で叫んでた」
少女「だから?」
ボク「だから、とっても痛い目にあえば、声、出るかなって……」
少女「…………バカ」
ボク「エンマ様、ボクも一つ質問していい?」
少女「ええ、なに?」
ボク「ボクは死に様に叛いて死んだ。本当はボク、どうやって死ぬはずだったの?」
少女「キミはナイフでワタル君を刺して、彼に重傷を負わせて死ぬはずだった」
ボク「その死に様、誰が決めたの?」
少女「…………私よ」
ボク「どうして? ボクにワタル兄ちゃんを殺させたかったの?」
少女「違うわ。殺さなくてもいい、ただ彼に痛みを知って欲しかった」
ボク「いたみ? ……ねえ、今さらこんなこと聞くのも変だけど、キミって何者?」
少女「私は……私たちみたいな存在は、人とパギータの間に位置するもの」
ボク「パギータ?」
少女「人の言葉でいうところの神様みたいなものかな」
ボク「どんなことしてるの?」
少女「私たちは己の精神を高みへと導くために、神様から試練と力を授かるの」
ボク「シレンとチカラ?」
少女「私に与えられた試練はワタル君を立派な人間にするために影からサポートすること」
ボク「そうなんだ」
少女「そして私は神様から、人の『憎悪』を肥大させる力を授かった」
ボク「ぞうお?」
少女「憎しむことよ。誰かを嫌いになったり、怨んだりすること」
ボク「それって、役に立つの?」
少女「……ワタル君の成長を見守るのは容易いことだったわ」
ボク「ボクの質問無視しないでよ……」
少女「だけど、彼が高校生になったとき色々と問題が起こりはじめてね」
ボク「どんなこと?」
少女「何人かの女の子が彼に告白したの。ワタル君、顔も性格もいいからね」
ボク「……そうかな?」
少女「ワタル君にはヨシカちゃんがいたから断ると思ったんだけど、彼はそうしなかった」
ボク「どうしたの?」
少女「キミも見たでしょ、影で他の女の子と……」
ボク「……あ」
少女「そのころから彼の意識が乱れはじめたわ。欲望を制御できなくなってたの」
ボク「何かいい解決策はあった?」
少女「──キミを見つけた」
ボク「へ?」
少女「ヨシカちゃんに好意を抱いていて、余命間もないキミを見つけた」
ボク「……」
少女「力を使うときがきたと思った。憎悪を肥大させる力をね」
ボク「ボクに……何をしたの? 何をさせたかったの?」
少女「ワタル君を憎ませて、彼を攻撃させようとした。まだ覚えてるでしょ」
ボク「わけがわからないんだけど、それってどんな意味があるの?」
少女「キミみたいな幼くて弱い存在が一途に恋した少女を自分は裏切っていた──」
ボク「……」
少女「そういう後悔を味わえば、真面目な彼に戻ると思ったの。だけど──」
ボク「最後の最後でボクが思い通りに動かなかった」
少女「そう、計画は失敗した。ねえ教えてよ、どうしてキミは歌おうなんて思ったの?」
ボク「……お姉ちゃんに、恩返しがしたかったんだ」
少女「恩返し?」
ボク「ボクね、喋ることはできないけど耳は凄くいいんだ」
少女「そうなんだ」
ボク「だからね、先生たちが話してること全部聞こえてたんだ」
少女「どんなこと?」
ボク「ボクを産んだ人はボクの病気を受け入れることができなくて、ボクを捨てたことや」
少女「……」
ボク「その病気のせいで、ボクはもうすぐ死ぬことも」
少女「…………」
ボク「すごく難しい病気で、喋ることができないのはそのおまけみたいなものだって」
少女「……そう」
ボク「だからねボク、いつも同じことばかり考えてた」
少女「なに?」
ボク「みんなボクより重い病気にかかって、ボクより苦しんで死ねばいいのにって」
少女「………………」
ボク「あのね、どうしても聞きたいことがあるんだけど、ちゃんと答えてくれる?」
少女「ええ、なに?」
ボク「あのね……ボク、どうして生まれてきたの?」
少女「…………」
ボク「答えてよ。なんで? 生まれたときから病気で喋れなくて、何の価値もないよ」
少女「そんなことはないわ、生命には等しく意味があるから……」
ボク「いいかげんなこといわないでよ! ボクのこと利用してたくせに!」
少女「ごめんなさい……」
ボク「もうすぐ死ぬのがわかったとき、嬉しかったんだ。やっと楽になれると思って」
少女「……そんな」
ボク「だけどね、そんなときヨシカお姉ちゃんに出会えたんだ。お姉ちゃんの歌とも」
少女「ヨシカちゃん、キミによく歌をうたってたわね」
ボク「大好きだったよ、あの歌。歌詞はよくわからないけど、優しくて柔らかくて……」
少女「歌を聴いているときのキミの表情はとても穏やかだったわ」
ボク「あの歌がボクに教えてくれたんだ」
少女「なにを?」
ボク「──憎しみじゃ、誰も救えない──」
少女「…………」
ボク「自分でも不思議だった。お姉ちゃんを見ていると、お姉ちゃんの歌を聞いてると」
少女「なに?」
ボク「──生きていたいって思えた」
少女「……ごめんなさい」
ボク「どうしてあやまるの?」
少女「他に何もいえないから……私こそナイフで刺されるべきよね……」
ボク「いいよ。別にもう怒ってないから」
少女「ごめんなさい」
ボク「それよりもっと色んなことお話しようよ。せっかく喋れるんだし」
少女「ごめんなさい」
ボク「だからあやまらないでって。何か楽しいこと話そうよ」
少女「ごめんなさい……もう私にキミをここに滞在させる力は残っていないの……」
【残り時間 一○○秒】
ボク「……ボク、また死ぬの?」
少女「違う。魂が本来あるべき場所に戻るだけ。そして転生への準備をするの」
ボク「意味がわからないよ」
少女「新しい人生をおくるための準備をするのよ」
ボク「また喋れない体で産まれるの?」
少女「そうならないことを祈ってるわ」
ボク「……なんか、不安だな」
【残り時間 八〇秒】
ボク「でも、生きるって難しいよね」
少女「どうして?」
ボク「ボクが一番大好きな人は、ボクのことが一番大好きじゃなくて──」
少女「……ええ」
ボク「ボクが一番大好きな人が一番大好きな人は、その人のことが一番大好きじゃなかった」
少女「そうだったね」
ボク「だけどね、まだ終わってないんだよね」
少女「うん?」
ボク「ボクの人生は終わっちゃったけど、お姉ちゃんたちはまだ生きてる」
少女「そうよ」
ボク「だからまだ、何が起こるかわからないよね」
少女「そうね」
ボク「難しいと思ってたことでも、やればできるんだよ。ボクだって──歌えたんだし」
少女「ええ、そのとおりよ。死の直前、確かにキミの歌声が聞こえたわ」
【残り時間 三○秒】
少女「それに私ね、一つわかったことがあるんだ」
ボク「わかったって、何が?」
少女「もしかしたら神様は私にキミを逢わせたかったのかもしれないって」
ボク「なんで?」
少女「……ひみつ」
ボク「何それ、意味わかんない」
少女「ふふっ、こればっかりは教えられないな」
【残り時間 二○秒】
ボク「でもそれだったら、ボクだってそうかもよ?」
少女「え、なにが?」
ボク「神様はボクとエンマ様を逢わせたかったのかも」
少女「それ、私が言ったことと同じでしょ」
ボク「そう、同じだよ。だから……」
少女「だから?」
ボク「キミに逢えてよかった」
少女「……私もよ」
ボク「それから──ごめんなさい」
少女「?」
ボク「ボク、ずっとキミのことエンマ様って呼んでたでしょ?」
少女「そうだね」
【残り時間 五秒】
ボク「でもキミはエンマ様なんかじゃないでしょ?」
【残り時間 四秒】
少女「……まあね」
【残り時間 三秒】
ボク「だから、ごめんなさい」
【残り時間 二秒】
少女「あやまらなくてもいいのに」
【残り時間 一秒】
ボク「ボクわかったよ。キミの正体って、てん
【残り時間 ○秒】
少女「………………」
【一○年後】
パパ「……これが、俺たちの息子か」
ママ「そうよ、私たちの子供よ。これでもう五回目。あと何十回確認すれば信じてくれる?」
パパ「なんだよ、嬉しくないのかよ?」
ママ「嬉しいに決まってるでしょ。あなたが到着するまで、ずっと嬉しくて泣いてたもの」
パパ「……悪かったな、立ち会えなくて」
ママ「別に怒ってないわ。大切な仕事をしてたんだから」
パパ「……その、なんつうか、ありがとな」
ママ「ん? どうしたの急に」
パパ「ほら、俺らって色々あったじゃん。特に高校のころとか」
ママ「ここがまだ子供たちの施設だったころ?」
パパ「そう。お前が優しいボランティアのお姉さんで」
ママ「あなたは優しくないボランティアのお兄さんね」
パパ「そういうなって──お」
ママ「あらら、どこかのお兄さんは未だにこういう場所で携帯の電源を切れないようね」
パパ「そういうなって、今は仕事の呼び出しなんだから。……どうしよう、断ろうか」
ママ「ダメよ。行ってあげて、素敵なお医者さん」
パパ「じゃあ、そうするよ。帰ったら二人でその子の名前決めような」
ママ「ええ。あ、そうそう、この子もしかしたら天才かもよ?」
パパ「英語でも喋ったのか?」
ママ「惜しい。なんとね──歌ったのよ」
パパ「歌ってるように聞こえただけじゃないのか?」
ママ「違うって。ほら、私のオリジナルソングあるじゃない。あれを歌ったの」
パパ「そりゃすごい。じゃあ帰ったらたっぷりと聞かせてもらうよ。そろそろ行ってくる」
ママ「いってらっしゃい。ほら、パパにバイバイして────あ、やっぱり歌ってる」
ボク「 」
【残り時間 一○○年】
おしまい
お楽しみいただけましたでしょうか。
編集部の方から評価シートをいただき、アイデアとストーリーは斬新で良い、ただ制限時間が都合で増えるのはいかがなものかと書かれていたので、フォローチャートでは制限時間は100秒のみにしました。
それから台本みたいなパートがあるのは、はじめからそうしようと思ったわけではなく、短編部門の規定文字数におさめるためには普通に書いていたらどうやっても入りきらないための苦肉の策だったのですが、あのパートは編集部の方にむしろ好評でした。
ここまで読んでいただいて、本当にありがとうございます。
今この瞬間のあなたに祝福を。




