19
自分の涙でできた水たまりに顔を沈め、珠菜は小刻みにふるえていた。
「たくさん泣けばいい。まもなくこの世界は閉じられる。それまでは泣けばいい」
ティーアの右目から涙はとまっていた。これまで珠菜を過去に導いていた涙。代わりに今、涙は彼女の左目からこぼれていた。彼女自身の涙だった。
泣きやまない珠菜を直視することができず、背を向けて歩き出す。数歩進んだとき、右目に違和感を覚えて目元をふれてみた。
涙がこぼれていた。リトライを可能にする涙。
「……なぜ?」理由がわからない。「もう涙はないはず。私の受け取った大切な涙は……」そう口にしたとき、彼女は気づいた。「……ああ、そういうことか」
ほんの数秒だけ、彼女は朗らかな笑みを湛えた。
踵を返し、ティーアは珠菜のもとに戻る。
「起きて、珠菜」言いながら珠菜の肩をゆらす。
泣いてばかりで反応しない。
「起きて」そう言って、むりやり珠菜を起こす。
目が、鼻が、口が、顔中ずぶ濡れだった。
その顔に向かって、こう言った。
「あと一度だけ、リトライできる」
「………………え?」やっと出た声がそれだった。「……どうして?」
「高いところから見ている存在の言葉の真意に私も気づけていなかった。涙はもう一粒ある。今はそれ以上、考えなくていい」
「もう一度リトライできる……あれ、ティーア」珠菜は目の前の少女の小さな変化に気づいた。「涙が、両目から」確かこれまでは右目からしか流れていなかったはず。
「右目の涙は私が受け取った大切な涙。左目の涙は私の涙。これまでは片方しか流れていない不自然な涙だった」
「そうは思わないけど……」だが、そこで珠菜は奇妙な感覚に肩を抱かれる。「一つだと不自然、でも二つなら自然……一つは不自然……二つは自然……」
顔を下げ、拳を顎にあてて思考する。
「────」
以前のリトライで、一人の少女が口にした言葉が再生される。
「────!」
幼いころ、海でなくしたと思っていた欠片が机の引き出しから出てきたような、そんな気持ちだった。
答が、出た。
「そうだよティーア。私はずっと一つだと思ってた。だからわからなかったんだ。でも二つだと思えば──これって『問題そのものは問題じゃない問題』だったんだよ」
答は最初から見えていた。その後につづく難しいことは全て無意味だとしたら。
ティーアは言う。「たどり着いたのね」
珠菜はうなずく。「──『あいつ』が誰なのかわかった。でも……」珠菜の声が徐々に沈んでいく。「……まだそれだけ。他は全然わからない……」
「珠菜、あなたの願いは何? 悪者の正体を曝くこと? 世界の真実をみつけること?」
「……私は、芹を、たすけたい。でも……こわい」珠菜は自らを檻に閉じ込めるように胸の前で腕を交差する。「もしまた失敗したらって考えたら、私、どうにかなりそうで……」
「まだ失敗したわけじゃない」
「でも──」
どこかでブレーカーを落とす音がした。白の部屋の明るさが少し失われた。また音が鳴る。部屋はさらに暗くなる。
「どうしたの?」
「どうやら私はまだ、高いところから見ている存在の真意に気づけていなかった。高いところから見ている存在は、ここを終わらせようとしている。珠菜、急いで」
「でも……」珠菜はまだ戸惑いから抜け出せない。
「──答ならもう持ってる!」
闇の裂け目から光が射すような叫びに、それがティーアの声だとすぐに気づけなかった。
「ティーア……?」
「あなたがこれまで零した百の涙。そこに無駄なものなんて一粒もなかった。思い出して! 信じて! 御暁芹を救うのに、百秒も必要ない!」
珠菜の手を握り、自分を叩かせるように、ティーアは右の涙にふれさせた。
【残り時間 一〇〇秒】
チックタック チックタック
放課後の教室。最後のリトライがはじまる。
「珠菜? どうしてここに?」芹は目を疑っている。
思考も感情もまだ混乱したまま。
どうするべきなのか。
何をするべきなのか。
リトライをするには、最悪の状態だった。
『そんなの、こわせばいいんだよ』
体の内側から響く、親友の声。だから珠菜はその声に従うことにした。
「どうして私がここにいるのか、みんな驚いてるよね。でもね、別に不思議なことじゃないんだよ。だって」口を衝いたのは「だって……」全てを破壊する言葉。「私が『あいつ』だから」
【残り時間 九〇秒】




