01
『一度にすべてのことが同時に起こらないために、時間はただ存在する』
アルベルト・アインシュタイン
どうでもいいを、歩いてた。
街を洗うような強い雨の道を、傘もささずに少女は歩いてた。
ずぶ濡れの髪と制服。アスファルトにつま先を埋めるように、その足取りは重い。
うつむいたまま、どこに向かうでもなく、ただ、どうでもいいと歩いてた。
親友が自殺したのだ。
『意味わからない』が彼女の口癖だった。
こっちこそ意味がわからなかった。
いつも一緒に笑って、きっとずっとこんな関係がつづくのだろうと、のんきに信じてた。
しかたないだろう。昨日は夏休みに二人でいく旅行について談笑していたのだから。
その談笑から数時間後、教室の窓から飛び降りることで親友は約束を放棄した。
葬儀は明日おこなわれる。弔辞を読んでほしい。それ以外にもいくつかの頼まれごとを彼女の両親から聞かされていたが、一つも覚えてはいない。
二つの足音が前方から迫ってくる。
「すみません、葉ノ咲中学の生徒さんですよね?」
黄色い傘をさした二十代の女性が少女にマイクを向けてきた。もう一人は四十代の男性で、透明なカッパに身を包みカメラをまわしている。テレビ局の人間のようだ。
「乃愛ちゃんのことでお話を聞かせてもらえませんか?」
女性の口調は丁寧だったが、その奥にある下世話な好奇心を隠せてはいない。
うつむいたまま進む少女の額にマイクがぶつかる。レポーターの女性はぎょっとして、大丈夫ですかと心配してみせたが、少女はテレビ局の人間など存在しないかのように、一瞥をくれることもなく、雨に打たれながら歩くのをやめない。
亡霊のようにどこかへ向かう少女の背中を、レポーターとカメラマンは茫然と見送った。
それからどれくらい歩きつづけただろうか、小さな橋のある河原の近くで少女は転んだ。
さらに強さを増した雨粒が少女の背面を容赦なく打ちつづける。むくりと立ち上がり、また歩きだした。しかし、三歩も進まないうちにまた転んだ。それでもしぶとく気味の悪い植物みたいに、ぬるりと立ち上がる。白いスクールシャツは土色に滲んでいた。
歩く。だが今度は足を一つ進めただけで、膝から崩れて地面に両手をついた。その姿勢で嗚咽をもらす。
まるで罪人だった。何かに許しを請うように、少女は泣き叫んでいた。何もできなかった自分を罰するように、雨に打たれつづけた。
「──泣いているの?」
ふいに、声が落ちる。
同時に雨が去り、景色が消えた。
少女もその異変に気づいた。いつの間にか、真っ白で何もない場所に自分はいる。ずぶ濡れだった髪と体は乾き、半袖のスクールシャツと黒のプリーツスカートから汚れは消えていたが、そのことを少女は知らない。なぜなら、ここまで無意識に街を彷徨っていたからだ。
ここはどこなんだろう、と周囲に視線を配る。雪の中に閉じ込められてしまったような、あるいは上質な和紙に包まれたような一面の純白世界。あまりにもただ白く、家具や備品のようなものが何一つないため距離感もつかめず、この空間が広いのか狭いのかさえわからない。
どこからともなく足音が響く。見ると、同い年くらいの少女がこちらに向かって歩いてきていた。
彼女は個性的な出で立ちをしていた。裾が短く袖のない白いワンピースを身に着け、その腹部は花が咲いたような形に裂け、肌を露出していた。そういうデザインなのか、彼女が自分で破ったのかはわからない。
脚は素足。髪の長さは少女と同じく肩まで伸ばしている程度だが、毛先が粗野に広がっており、それらが彼女に野性的な魅力を加味していた。
そしてなぜか、彼女は右目からだけ涙を零していた。
「……あ」そこでやっと少女は口を開く。「その、ごめんなさい。すぐ出ていきます」
少女は自分が勝手にこの女の子の家に迷い込んでしまったのだと考えた。
「出ていく必要などない」ワンピースの少女は言う。「珠城珠菜さん、ここはあなたの場所だから」机の上に感情を忘れてきたような、無表情な声だった。
「え?」名前を呼ばれて少女は目を丸くする。彼女は自分のことを知っているようだが、自分は彼女のことを知らない。「……えっと、ごめんなさい。どこかで会ったことが?」と申し訳なさそうに訊いた。
「私の名前はティーア」
知らない名前だった。
流暢な日本語で髪も瞳も怖いくらい黒い。外国人には見えないけれど、偽名を使っているようにも見えない。
「ティーア……さん?」
「ティーアでいい。私もあなたのことを珠菜と呼ぶから」
「じゃあティーア、ここはどこであなたは誰なの? それに──」
なぜ泣いているのか訊いてみたかった。でも、それを声に出すことはできなかった。
「私はここを白の部屋と呼んでいる。だけどここはあなたの場所。だからあなたの好きなように呼べばいい」淡々とティーアは言葉をつづけていく。「そして私は環す者」
「かえす、もの?」珠菜はオウム返しで首をかしげた。
「与えたものは環される」ティーアは言う。「かつて、私の魂はあなたに救われた。あなたの百の涙と、あなたの百の時に」
「…………」
知らない国の言語で語りかけられているみたいに、ティーアの言葉が微塵も理解できない珠菜は、首をかしげたまま固まっていた。
「そのとき私は誓った。もしあなたがいつか悲しみの涙につぶされそうなときがきたら、この想いを環そうと」
「どういうこと?」珠菜は怪訝そうに眉をひそめる。
抑揚のない声で、ティーアは、はっきりとこう告げた。
「あなたの悲しみの源、御暁芹を救う『時』を、これからあなたに与える」
聞いた瞬間、珠菜の体温は急激に下がり、そこから一気に上昇した。
御暁芹。それは自殺した親友の名前。
「な、何を言ってるの?」浮世離れした提言に語気が荒くなる。「ふざけないでよ」
「ふざけてなどいない」ティーアは素早く珠菜との距離を詰める。「それには、言葉よりも実際に見てきたほうが早い」
ティーアは細い指で珠菜の細い手首を掴む。
「何をするの?」
珠菜は掴まれた腕を振りほどこうとしたが、まるで抵抗できていなかった。この細い指のどこにこんな力があるのか。
「すぐにわかる」
ティーアは強引に珠菜の指を自分の涙にふれさせた。
その刹那、すべての色が世界から消えた。