パラボラの記憶
「考えるに、僕は明後日こそ最適だと思うんだ」
そう言って、彼はまた大きなパラボラを台車に載せて、山の上へ運んでいた。
はっきり言って、彼は変人だった。
小高い山の中腹に一人で住み、いつも変な研究ばかりしていた。
しかもその内容が、遠い星からの電波をキャッチするのだとなれば
彼の頭の中にこそ電波が来ているのだという謗りも、何となく否定できなかった。
家に篭っているか近くをぶらぶらと散歩しているかで、働いている様子など見たこともない。
その割に、菓子でも差し入れにと行ってみると、意外に甲斐甲斐しく料理など作っていたりして、
生活に困っていそうな様子もない。
そんな正体不明の彼だが、性格はというと…実にあっけらかんとした、気持ちいいものだった。
表裏がなくて、無邪気で、ちょっとしたことに喜んで。
家の前に植えていた苺が実をつけたのだと、嬉しそうに言っていたこともある。
研究の話になると途端に熱が篭るところなんかが、いかにも研究一筋といった風情だった。
友人といえば僕くらいのもので、大概の人は彼を避けるなり謗るなりしていたというのに、
寂しそうな顔を見せることはあっても、悪口のひとつも言うことはなかった。
「考えるに、僕は明日こそ最適だと思うんだ。
この式から計算するとだな…」
彼がPCとプロジェクターを取り出して、僕に事細かと説明する。
僕には、その計算の意味も研究のこともさっぱり分からない。
それでも彼の熱弁を聞いていると、途方もない話なのに、
何だか、今度こそ本当に実現するのではないかと思えてきて不思議だった。
毎年毎年、今度こそはとパラボラを台車に載せて山の上へ登る彼。
実験が失敗するたびに、ああやっぱりなと僕は思うのだが、
それでも、毎回毎回僕は彼の実験についてきてしまうのだった。
実験が失敗するたび、草の生えた地面にへたり込んで空を振り仰ぐ彼の、
何だかとても寂しそうな横顔を思い出す。
それは研究が実らない故の無念というよりは、
誰かのことを思い出しているかのような表情で。
もしかして妻子でもいたのだろうかと、彼に聞いてみたこともある。
彼はこの研究が実れば、とそれだけを口にして、
多弁な彼に珍しく、それきり口を閉ざしてしまった。
妻と子供に出て行かれでもしたのだろうかと、下世話な想像が色々脳裏をよぎったが、
ともかくも僕は非礼を詫びて、それきり家族について彼に聞くことはなかった。
「考えるに、僕は今日こそ最適だと思うんだ」
綺麗な夜。
空には雲ひとつなく、撒き散らしたような星々が見事に天空を飾っていた。
静まり返った山の上で、彼がせっせと装置を組み立てている。
手元のノートを何度も見返しながら、空の一点を仰いで角度か何かの数値を呟く。
あの向こうに、彼が求めている星があるのだろうか。
僕は天文などやったこともないから、星図を見せられても、
いまいちぴんとこなかったのだけど。
「今度こそ、成功すると思うんだ」
それは、彼が毎年口にしているフレーズ。
はいはいと、僕は彼の言葉を聞き流す。
「あっ、本気にしてないな。
今年はこれまでとは違うんだぞ、装置もずいぶん改良したんだからな」
怒ったような振りを見せながらも、彼は手を止めることはない。
最後に僕が手伝って、大きなパラボラが装置に据えられた。
「入れるぞ。少し離れてくれ」
彼の手で、装置の電源が入れられた。
大きな発電機が唸り、装置の随所にあるランプが、それ自体星の固まりのように輝きだす。
発電機のモーターが唸る音を聞きながら、僕と彼はしばし空を見上げていた。
しばらくして、電流が安定したと言って、
彼は装置に繋がったPCに向かうと一つ二つ操作を加えた。
装置の動作音が、やや高い音に変わる。
その時だった。
僕が、昨年までとは違う事態が起きたのを感じたのは。
静かに立っていたパラボラが、激しく振動する。
電波どころじゃない。
やがて、放電めいた光がアンテナの先からパラボラを包み始めた。
「おい、壊れたんじゃないのか!焼けるぞ!」
焦って、僕は彼に呼びかけた。
どこかで漏電でもしたとなれば、装置が壊れてしまうどころか、
下手すると、山火事になりかねない。
しかし、彼はどこかぼうっとしたような表情をして、
ただパラボラと、その先にある空を見ていた。
「おい!」
さすがに焦りが高じて、彼の肩を揺さぶろうと手を伸ばす。
彼は僕の手を自分の手で受けると、そっと押し戻した。
「違うんだ」
言葉の端に、涙が滲んでいた。
「違うんだ。
成功したんだ、今度こそ」
彼はそう言って、泣きそうな顔で笑った。
嬉し涙以外のものも、その中に含まれているような気がして、
僕は一瞬、彼が別れを告げているような錯覚に襲われた。
振動はますます激しくなり、今や周囲までもが揺さぶられていた。
パラボラは全体が光に包まれ、バチバチという音を立て始めている。
彼が、パラボラに一歩歩み寄った。
「危ない!」
慌てて引き止めようとするが、彼はあっさりとその手を振り解いた。
光と振動が、いっそう激しくなる。
懐かしそうな表情を浮かべて、彼は───
───気がつくと光も振動も収まっていて、辺りは静まり返っていた。
草の上に寝転んでいたのは、僕一人。
発電機は止まっていて、装置のランプも消えていた。
彼の姿は、どこにもなかった。
辺りを探し回ったが、服の切れ端すらも見つからなかった。
まさかあの放電で全部焼けてしまったのかと思ったが、その痕跡すらも残っていないどころか、
草が焦げた跡さえもなかった。
まるで、全てが幻だったかのように。
彼は、跡形もなく消えてしまった。
PCの画面には、彼が操作していたコンソールがそのまま残っていた。
彼の家に戻ってみると、彼が生活していた痕跡が僕を迎えた。
その辺に放り出された本も、干されたままの洗濯物も。
出掛けに、終わったらコーヒーでも飲もうと僕が出しておいたカップやら何やらも、そのまま残っている。
いつもなら、ここでおかしいなあ、と不思議そうに首をひねりながら
彼が帰ってくるところなのに。
彼の気配だけがそこにないのが、ひどく不思議だった。
途方に暮れた僕が装置のところへ戻ってみると、不意に装置のランプが点いた。
パラボラを微かな光が包み、わずかな振動が周囲を満たす。
驚く僕の耳に、ノイズ混じりの声が聞こえた。
「…あ…、り、が…と、う、…」
彼の声だった。
ありがとう。
これで、かえれた。
それだけ言うと、それきり装置は沈黙してしまい
それから僕がどんなに装置やPCをいじってみても、ランプが再び点くことはなかった。
空を見上げる。
アンテナの指す先には相変わらず星がひしめいていて、どれが彼の求めていた星なのかは分からない。
僕はふと、突拍子もないことを思った。
もしかして。
彼は、星に帰ってしまったのだろうか。
星を見上げても、声は聞こえなかった。
冷たい風の吹く中、ただ一人立ち尽くしている男がいるばかり。
やがて、東の方から夜が白々と明けて
空の上にひしめく星達を、みな吹き払っていった。