8
「今日も、一人なのね」
そう話し掛けられた時、私は舞踏会の会場である大広間の片隅で、ぼんやりとしていましたから、随分間の抜けた顔をしていたと思います。
しかも、声の主はセレスティナ様。
慌ててお辞儀をし、挨拶をします。
舞踏会といっても、王族主催のものではなく、呼ばれている人も国内の貴族ばかりです。まさかその中にセレスティナ様がいるとは思わなかったものですから、油断していました。
そして、何故か今日に限ってセレスティナ様は取り巻きもおらず一人きりです。
周りを見ても、こちらには誰も近づいてきませんから、もしかすると、意図的にこの状況は作られているのかもしれませんが。
「あいかわらずオルランドは忙しいのかしら」
微笑みながらそう言っていますが、オルランド様が国内にいないことくらい把握しているでしょう。ここしばらく私が彼とは会っていないということも。
「帰国が遅れているようですから」
控えめに知っている事実だけ口にすると、意味ありげな笑みをセレスティナ様は浮かべました。
「何の連絡もないの?」
単刀直入な言葉に、私は黙り込むしかありませんでした。確かに、最初に使いの人が来てから、手紙のひとつもありません。なかなか戻って来くることができないというのも、父親を通して聞いただけなのです。
「連絡などできない状況なのかもしれないけれど、やはり寂しいことでしょう」
寂しい、のでしょうか。
連絡が来ないことは確かに婚約者に対しては不誠実で、私は怒るべきなのでしょうが、そこまでの感情は沸いてこないのです。
オルランド様のことがどうでもいいというわけではないと思います。
何かあったら心配だという気持ちはあるのです。遠く離れた国で、警護をするのは大変でしょう。自国と同じように振る舞うことが難しい場面はいくらでもあるのだろうと、この国を訪れた他国の貴族を見ても想像できます。だからといって、身を焦がれるほどに遠く離れた人のことを思ったり、心配で落ち着かないということもありません。
薄情だとか、情が薄いと言われてしまえばそれまでですが、やはりどうしてもそれ以上の感情が出てこないのです。
ああ、でも。………もしかして、あの人は心配しているのでしょうか。
オルランド様の元恋人。彼女は、彼の帰りが遅いことやどういう状況にあるかわからないことを悲しんでいる? いまさらという思いと、そこまで好きならば何故あの人の手を離してしまったのかと、どこか釈然としない気持ちになり、私は俯きました。
嫉妬とは違う、でも、自分のものを盗られて腹を立てた時に似ている感情に、不安になります。子供ではないのに。
「政略結婚の相手ですものね、寂しいと言われても微妙なのかしら。なんとなくわかる気がするけれど」
わずかに唇を歪めたセレスティナ様は、今まで私が知っている彼女の穏やかな表情とは違うものでした。
確かに、彼女は王太子妃候補で、もしそうならなかったとしても、恐らく自分の意志で思う相手に嫁ぐことは許されないのでしょう。例え身分が釣り合う相手だったとしても、その結婚に意味がなければ、なかなか周りは賛成してくれません。
もっとも、セレスティナ様なら、そのあたりはなんとかしてしまいそうな気もしますが。
私などは、好きな人がいたとしても、親に反対されてまで添い遂げる勇気も行動力もありません。今の状況と同じように流されるように結婚してしまうのでしょう。
幸い、というか私にはそういう相手はいませんでした。淡い思い―――なら、子供の頃にあった気がしますが、それはあくまで見目麗しい方への憧れにしか過ぎず、本当の恋などしたことはないのです。
そういう意味でいえば、あそこまで情熱的になれたオルランド様も、一時とはいえそれを受け入れたあの女性を羨ましく思う気持ちがないとはいえません。
「あの子に―――バネッサに養護院で会ったでしょう」
扇で口元を隠したまま、囁くようにセレスティナ様があの女性の名前を口にしました。
あの人は、セレスティナ様の代理で養護院に訪れたのですから、当然彼女があのことを知っているのは当然です。ですが、それを何故今この場所でわざわざ私に言うのでしょう。
偶然だったはず。
そう思って、すぐに私はそれを否定しました。
定期的に私が姉の変わりに養護院に行っているのは、少し調べればわかることです。
まさかとは思いますが、わざわざ同じ日に重なるように仕向けたなどということがないとはいえません。いえ、セレスティナ様ならそのくらいやってしまいそうです。
「あなたは、バネッサのことをどう思った?」
セレスティナ様の真意がわからず、私はしばらく考え込んでしまいました。
彼女は、あの時二人がかわした会話をどこまでご存じなのでしょう。少し意地悪な質問をしたことを知っているのでしょうか?
もし、そのことで悪印象を持たれていたとすれば、私がここで彼女のことをどう言っても駄目な気がします。
もっとも、あの人がそんなことを言うとは思えないのですが。
「とても、美しい方だと、思いました」
ゆっくりと、慎重に言葉を紡ぎます。
彼女の人となりはわかりませんが、初めて見たときから、その印象だけは変わりません。顔かたちだけでなく、まっすぐに相手を見つめる眼差しも、立ち居振る舞いも、その全てが『美しい』のです。貴族としての教養もあるのでしょうが、持って生まれた資質も大きいのだと思います。
侍女などしているのはもったいないほどだと、私でさえ思うくらいなのですから。
「ええ、そうね。美しい子だわ。……憎らしいくらいに」
どこか愛おしそうに、まるで困った人のことを話すように、セレスティナ様は言います。
その言い方から、彼女がセレスティナ様にとって、ただの侍女ではないのだとわかりました。
身分の違いや主従関係を超えた絆が、二人にはあるのかもしれません。ただ自分に忠誠を誓った相手だとすれば、きっとこんな顔はしないでしょうから。
「あの方は、オルランド様の恋人だった方なのですか」
確認するように尋ねると、セレスティナ様は、あらあらと呟いて笑いました。
「やはり、知っていらしたのね。そうよ。私から見ても、とてもほほえましい恋人同士だった。だから、別れたって聞いたときは、驚いてしまった。あの子はともかく、オルランドが彼女を手放すとは思えなかったから」
そうかもしれません。
王宮で見たオルランド様は、とても情熱的でしたから。
「あの子――バネッサはね、自分に自信がないのよ」
ぽつりともらした言葉に、セレスティナ様はため息をつきあした。
「誰よりも身分を気にしないようでいて、実はとてもこだわっている。オルランドとでは釣り合わないと本気で思っているの。彼はそんなことちっとも気にしていないのに」
セレスティナ様は、思っていたよりも、オルランド様のことをご存じのようです。小さい頃から知っていたというのも本当のことなのでしょう。
「そうですね。オルランド様なら、そういうところはなんとかすると思います。たとえば、しかるべき仮親を立てるとか」
「あら、よくわかっているのね」
「一応、婚約者ですから。一度もお話したことがないなど、ありえないでしょう」
つい言ってしまったのは、セレスティナ様の「あなたは何も知らないでしょう」という態度に反発してしまったのかもしれません。
確かに私とオルランド様のつきあいは短いです。
知らないこともたくさんあるし、本当にうまく夫婦としてやっていけるのかさえもまだわかりません。
「そうよね、気に入らない相手だったら、オルランドは婚約自体受けなかったでしょうから、案外あなたは好かれているのかもしれないわね」
好かれているかどうかはわかりませんが、嫌われてはいないと思っています。
おそらくそれは恋愛感情ではないのでしょうけれど。
「ここだけの話だけれど、オルランドは私の初恋の相手なのよ。いまではちっともそんな気持ちになれないけれど、昔はあれでもかっこよく見えたのよね」
少女のように無邪気に笑うセレスティナ様に、私は目を丸くします。
「ああ、安心して。本当に今はどうとも思っていないから。あんな面倒な男、夫にしたくはないもの」
「面倒、なんですか?」
「面倒でしょう? 理屈っぽいし」
………言われてみれば、そうかもしれません。
幸い、私は難しいことを言われてもさっぱりわからないので、彼と議論などしたことがありませんが、妹と話す時は、だんだんと白熱した会話になっていたように思います。
妹はちょっと熱くなりすぎるところもあるので、言い負かされた時などは、その場では笑っていても、あとで愚痴と文句を口にして、とても悔しがっていました。
妹とオルランド様が夫婦になったら、毎日あんな感じなのかと思うと、彼らに仕える使用人たちが大変だと思ったのを覚えています。セレスティナ様や妹のように頭のいい女性からみれば、『面倒』なのかもしれません。
「確かに、面倒ですね」
「そうでしょう? 昔はあんなところはなかったのに、どうしてああなってしまったのかしらね。女の人と話すのも苦手で、私の前ではいつも畏まった顔をしていたし、年上の女性に話し掛けられては真っ赤になっていたわ」
失礼だとは思いつつ、口元が緩んでしまいました。
オルランド様は、小さな頃からああいうふうだと思っていたのは事実です。
ですから、女性に話し掛けられて真っ赤になっていたって、本当に同一人物ですかと言いたくなってしまいます。
私の表情に気がついたのか、セレスティナ様もおかしそうに笑っています。
「騎士になるために家に出てから、ああなってしまったのね。だから、バネッサも最初彼を見た時は、不誠実な人って思っていたみたいよ」
ということは、あの人とオルランド様が出会ったのは、騎士になってからということなのでしょう。
「元々、バネッサと私はね、幼なじみ同士だったの。彼女の父親は男爵位にあって、父の部下でもあったから。年も近いし、気もあった。彼女の父親が死んで、その弟が男爵を継いで実家に居づらくなってからなのよ、私の侍女になったのは」
それまでは、普通に友人として付き合っていたのだといいます。
身分が違うことを気にして、初めは遠慮していたけれども、強引に引っ張り回しているうちに友人になれたのだと。
侍女になることで、距離が空いてしまうことが嫌で、最初は反対していたといいます。彼女の性格上、対等の立場でいられるはずがないと、セレスティナ様はきっぱりと口にしました。
「だからね、オルランドとつきあい始めるまでは、侍女としての自分を徹底するあまり、感情を抑えることが多かった。だけど、オルランドが側にいると、昔みたいに笑うのよ。私に対してもね。だからとても嬉しかったのに」
侍女としての自分を崩すことはなかったけれど、とセレスティナ様は肩を竦めます。
「でも、そこまで身分を気にするのならば、どうしてオルランド様と恋仲になったのですか?」
疑問に思ってしまうのも当然でしょう。
セレスティナ様も、その家族の方も、もちろんオルランド様の素性など知っていたはずです。まさか侍女である彼女が、客人のことを知らないとは思えないのですが。とても優秀そうに見えましたし。
「オルランドは自分の実家のことをあまり話さなかったし、私も言わなかったからうかつだったのよ。バネッサは、オルランドをただの騎士だと思っていたみたいだった。実際、その頃の彼は実家と疎遠になっていたし、そもそも彼が兄に会いに来るときは、先触れも何もなく、突然だったし、早い内から家を出ていたから社交界にもあまり出ていなかったし、言葉遣いだって貴族らしくなく乱暴だった」
「それが、身分がわかって、身を引こうとしたということですか」
「ええ。しかも、腹立たしいことに、私を理由にしてね。どれだけ諭しても頑固すぎて譲らないのよ。私は頼るものには頼るけれど、守られなくても一人で立っていられるわ。周り中敵だらけでもひるんだりしない。バネッサ一人くらい、オルランドと添い遂げるように協力することだって出来るわ」
すがすがしいほどまでに堂々と言い切るセレスティナ様を、私はまぶしげに見つめました。
本当に、実行に移してしまいそうな勢いですし、実際にそうなのでしょう。何度も感じた印象は、やはり変わることはなく、まるで別世界の住人のように、私とは考え方も行動力もまるで違う人なのだとわかりました。
もしかすると、根本的なところで、私とあの人――バネッサという人は似ているのかもしれません。
私も、自分の恋人が身分違いだとわかれば、身を引くでしょうし、そこまでして一緒になろうとは思わないでしょうから。
「ねえ、どうして、オルランドはあなたを選んだのかしらね」
ふいに尋ねられた言葉に、私は戸惑います。
どうして、と聞かれても私に答えられるはずはありません。
確かに、私は取り柄といえば伯爵家の令嬢であるというだけで、突出した何かを持っているわけではありません。結婚しても、貴族の夫人らしく、夫を立て、一歩引いたところから家を守るだけの、そんな存在にしかなれないでしょう。
今回の婚約にしても、元々政略結婚でしかなく、オルランド様の相手も、私か妹、どちらでもよかったのです。
ですが、最初に捨てたのはあの人だったはず。
オルランド様がどれほど必死で、どんなに苦しんでいたのか、知らなかったはずがありません。
「オルランドが最終的にバネッサを選ぶかどうかはわからなかったけれど、でも少なくともあなたのような令嬢は絶対選ばないと思っていたのよ。彼には、一緒に並んで歩ける人間が似合うと思っていたし、彼もそういう女性が好きだったから」
それを私に言われても仕方がないことです。
いくら長子ではないとはいえ、貴族の息子で今は近衛騎士でもあるのです。あの方なりの責任もあります。
自由な恋愛など、最初から許されていないのです。それでも、彼の父親や兄は、身分が許すならば、好きあったものとの婚姻も構わないと言っていたのだと聞きます。
義務として私たちは引きあわされましたが、決して強制ではなかったはずでした。
オルランド様が真摯に家族を説得すれば、あの人と婚姻できたかもしれないのです。セレスティナ様の話を聞く限り、一応貴族の身分にあるようですし、仮親を立てるという方法もありました。
「政略結婚など、似合わない。自分でもそう言っていたのにね」
最初の頃のオルランド様しか知らなかったら、私もそういう人だと思っていたでしょう。
実際に、私のことを恋愛の対象として何一つ見ていないことなど、わかっています。
友人としてならば、いろいろと話してくれます。けれども、妻となる相手としてはどうなのでしょう。
本当に私でいいのか、私で務まるのか。
婚約が決まった日から、繰り返しているのは私自身なのです。
いつだって思っているのです。
どうして、私はお姉様のように誰もが振り向く美しい容姿ではなかったのでしょう。
どうして、私は妹のようにかしこくはなかったのでしょう。
顔も、頭も、全部中途半端で、旦那様になる人の言っていることの半分も理解できないなんて、最低です。
それでも、オルランド様が家族になろうと言ってくださったから、この結婚を素直に喜ぼうと思ったのですから。
「私はね、悪い女になろうかと思っているのよ」
うつむいて考え込んでいた私に、セレスティナ様は楽しそうに、それこそ歌でも歌うように言いました。
「バネッサの態度は煮え切らないし、オルランドの考えていることはよくわからないし、あなたはぼーっとしていて私が意地悪しても気がつかないし、なんだか見ていていらいらするのよね」
私の描写に関してと“意地悪”という言葉にひっかかるのですが、あまりにもセレスティナ様が楽しそうなので、反論しそこなってしまいました。
そもそも、私、いつ意地悪されたんでしょう。
「ねえ、もしバネッサが本気でオルランドのことを諦めきれなくて、オルランドがそれに答えるようなことがあったら、二人を許してくれる?」
「どうして、そんなことを私におっしゃるのですか」
言わないでおけばいいことなのに。
セレスティナ様なら、私に何も知られることなく、思うようにできそうに見えます。
「あら、だってあなたに婚約を破棄された可哀想な人って評判がたったら、それは私のせいでしょう? それに、私はあなたのこと嫌いじゃなくなってきたし。ぼーっとしてるけど」
だからといって、どうしてそんな話になるのか、さっぱりわかりません。
「これは宣戦布告よ。オルランドを引き留めたいなら、本気で戦いなさい。そうでないなら、私の邪魔はしないで」
「そんな」
「さあ、話はこれで終わり。今から私とあなたは敵どうしよ」
頑張ってね、と笑いながら立ち去っていくセレスティナ様を唖然としたまま見送った私は、どうしてこんなことになってしまったのかと、ただそれだけを思っていました。
だって、そもそもの始まりは、ただの"政略結婚"のはずで、こんなややこしいことになるなんて、想像していなかったのですから。