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その日届けられた招待状を見て、私は頭を抱えてしまいました。
上質な紙が使われた封筒からは、ほんのりと良い香りがします。書かれた宛名の文字は美しく完璧でした。
問題なのは、どこを取っても非の打ち所のないこの手紙の差出人なのです。
「どうなさったの、お姉様。まるで嫌いなものを一気に飲み込んで吐き出せないみたいな顔だわ」
居間で呆然としていた私を見つけたのでしょう。
妹であるヘッセニアは心配そうにこちらに近寄ってきます。
「お茶会のお誘いなのだけれど……。どうして招待状が来たのかさっぱりわからないの」
妹にそれを見せると、彼女も目を丸くしました。
「お姉様、セレスティナ様とお知り合いだったの?」
「まさか。公式な場で2、3度お話した程度よ。今まで一度だって招かれたことはないし、こちらからもそう」
接点が思い浮かびません。
父親同士も、特に親しい関係だとは聞いたことがありません。そうならば、父親を通して、もっと早くに話をしていたはずです。
セレスティナ様はベルグラーノ侯爵家の令嬢で、美しく聡明な方として有名です。王太子殿下の妃候補として随分前から名前があがっており、もう一人の候補であるセディージョ公爵令嬢と共に、私たち貴族令嬢だけでなく庶民の女性たちの間でも一番頻繁に名前のあがる方々でもありました。
けれども、どちらの方とも特に交流はなく、これからもよほどのことがなければ、表面的なつきあいしかしない方なのです。
もちろん、令嬢の中には、それぞれの派閥に所属するものもいて、互いにどちらが王太子妃になるのかと、時には争い事になったりもしています。
私は中立派でした。親しい友人たちにも、それぞれの派閥に加わっているものもいますが、私は父から、あまりどちらかの派閥に偏りすぎないようにと釘をさされていたのです。
まあ、どちらかに肩入れしていれば、王太子妃になれなかった方の派閥が居心地悪くなるのは間違いないですから、ある意味保身を計った卑怯な態度なのでしょうけれど。
「一応、お父様に相談してみるけれど。やはり、お断りした方がいいのかしら」
そうはいっても、そろそろ正式にどちらが妃になるかを決めなければならない次期です。このところお父様が水面下でセディージョ公爵の方を肩入れしつつあるのは知っていたので、私自身の態度もはっきりさせなければいけないのかもしれませんが。
「断ったら断ったで、面倒なことになるのでは?」
妹はとても心配そうです。
ヘッセニアによると、セレスティナ様は、策略にも長けた方で、ここ数ヶ月で、それまで中立の立場をとっていた令嬢方を幾人か自分の派閥に取り込んだとの噂が流れているとのことなのです。
「セレスティナ様を嫌っていた方が、今では彼女に心酔しているって話で、いったいどういうことをしたらそうなるのか、知りたいくらいよ」
「まあ、それはすごいわね」
確かに、数少ない会話を思い出してみれば、とても頭のよさそうな方だと感じた気がします。場の空気を読むのも上手でしたし、こちらを不快にさせるような態度も取られませんでした。もっとも、大勢いる害にも得にもならない令嬢程度に思われていたのかもしれませんが。
「お茶会に参加してしまえば、お姉様もセレスティナ様を崇拝するようになるかも」
それはどうなのでしょう。
できれば、難しい話をする人とは、親しくはなりたくはないのですが。オルランド様のように、実際は話しやすいということもあるのかもしれないので、敬遠ばかりしてもいけないとはわかっています。
「冗談ではないのよ、お姉様。お姉様が招かれたのだって、派閥を広げるためだとしたら、やっかいだもの」
そういう可能性もあると指摘され、私はますます憂鬱になりました。
「だけど、私は結婚したらあまり王宮とは関わらなくなるでしょうし、派閥に引き込んで意味があるの?」
私を取り込んだところで、父や姉妹たちがセレスティナ様を支持するようになるはずもありません。夫になる方が第2王子の近衛ですから、あまり王太子に繋がる派閥に関わるのはよしとされないでしょうし、そもそも身分的にも一介の近衛騎士の妻が頻繁に王族に会えるはずがありません。その他大勢の身分のものがいくら派閥に増えても、影響力などないと思うのです。
数だけで乗り切れるほど、王宮内は甘くはないでしょうし。
「だったら、我が家がどちらを支持しているか探りたいとか?」
ああ、それならば可能性があるかもしれません。
「そこまで口が軽いと思われていないことを願うわ」
さすがに、我が家の事情を簡単に話すほど考えなしではありません。
姉や妹ほどうまくはできませんけれど。
結局、一度くらいならばは参加しておいた方がいいというお父様の言葉に、私は気乗りしないまま、承諾の返事を出したのでした。
数日後、憂鬱な気持ちのまま、茶会が行われるというベルグラーノ侯爵家の別宅へ向かった私は、それはそれは豪華な建物にため息をついてしまいました。
たかが別宅などと言えないくらいの美しさです。
整えられた庭も、かなりの手間と金がかかっているのだとわかります。
さすがに、今貴族の中でも抜きんでて裕福だと言われているベルグラーノ侯爵家です。
我が家も、そこそこ頑張っている方とは思いますが、さすがにここまでではありません。
別宅もありますが、もっと慎ましやかな造りですし。
気後れした気持ちのまま、私は茶会が行われるという部屋へと案内されました。
現れたセレスティナ様と型どおりの挨拶を交わした後、私はようやく落ち着いて辺りを見回す余裕が出てきました。
広間の中央にいくつか並べられているテーブルの側には、椅子がありません。壁に近い場所に固まって置かれているだけです。
案内してくれた侍女が、茶会と言っても、堅苦しいものではなく、用意されたお菓子をつまみ好きな場所で皆でお話をする形式なのだと教えてくれました。
私は参加するのは初めてでしたが、何度かこの別邸でセレスティナ様主催で行われているらしく、他の参加者の皆様は慣れた様子で部屋の中を行き来しています。
勝手がわからない私は、目立たない場所で、手にしたカップの美しい装飾を眺めつつ、どうしたらいいのかと考えていました。
誰かに話し掛けた方がいいのか、それとも話し掛けられるのを待つべきか。
きっかけをつかめないのは、すでに幾人かで固まって話をしているからでした。そのどこかに、知り合いがいればいいのですが、どなたも顔と名前はわかるという程度の方ばかり。わざわざ楽しそうに続いている会話を遮ってまで話し掛けるのは、はばかられました。
しかも、内容はなにやら難しげです。
政治や経済、最近の国境付近の話題。魔物の被害と、それに影響を受ける経済の話。
そっと聞き耳を立ててみれば、聞こえてくるのはそんなものばかり。改めて見回してみると、確かに考え方が革新的な令嬢ばかりですが、お茶会って、こういう話をする場所だったのでしょうか。
私が出た茶会では、もっと気楽でくだらないことを話していたような気がします。
たとえば、流行のドレスの型や色、最近聞いた噂話。
そんな話しか出来ない私は、どう考えても、ここにいるのは場違いな気がします。
困ったと、正直な感想を心の中で呟くと、小さなため息をもうひとつだけはき出しました。
その時です。
「楽しんでいらっしゃるかしら」
いつのまにかすぐ目の前にセレスティナ様が立っており、にこやかな笑みをこちらに向けています。
「セレスティナ様」
慌てて、私は立ち上がりました。
「本日はお招き頂きありがとうございます」
「突然のお誘いだったから、ひょっとして断られるかもしれないと思っていたの。今まで、あまりお話したこともなかったから」
優雅に微笑み姿は堂々としていて、私よりほんの少しだけしか年が上だとは思えません。
明るい場所でこうやって間近に見ると、随分落ち着いて見えます。さすが、王太子妃候補とされる方です。
「お座りになって。せっかくですからお話しましょう」。
主催である方からのお誘いです。
私は即されるままに再度椅子に座りなおしました。緊張します。
「実はね、今日お招きしたのは、是非あなたと話をしてみたかったからなの」
「私と、ですか?」
「そうなの。オルランドの噂の婚約者に会ってみたかったの」
あの方の名前を親しげに呼ぶセレスティナ様に、驚いてしまいました。
「オルランド様と、お知り合いなのですか?」
「オルランドは、兄の友人でもあるのよ。幼い頃から知っているわ」
確かに交友関係の中に、その名があった気がします。
ですが、そこまで親しかったとは。知りませんでした。あの方の親しい友人は、すでに紹介してもらっています。内輪だけのお祝いの宴も開いてもらいましたし、これから頻繁に付き合うであろう既婚の方の奥様ともすでに顔合わせは済んでいます。
ほとんどが騎士か、同じ近衛の人で、ベルグラーノ家の人間はいなかったと思います。話題にものぼったことがありませんし。
「彼が、急に婚約したものだから、驚いてしまって。せっかくだから会ってみたいとお願いしてみたけれど、断られてしまったのよ」
楽しそうに話していますが、なんとなく返事がしづらい気がします。
「何も聞いてはいない?」
戸惑う気持ちが顔に出ていたのでしょう。
表情を陰らせて、セレスティナ様は私を見つめています。
「そう。知らないのならば、その方がいいのでしょうね」
その含みのある言い方では返って気になってしまう気がします。ですが、私は何も言わず、ただ曖昧に微笑みました。
何も知らないと思われているのならばその方がいいと思ったからです。
本人が元恋人らしき人と会っていたのを見たことも、彼の脆い面を見てしまったことも、最初から胸の奥にしまうつもりでした。セレスティナ様が私を茶会に招いた意図もわからない今、余計なことは口にしない方がいい。うっかり口にしたことが、後日何か問題になるかもしれない。ヘッセニアも、そんなことを何度も繰り返していましたし、私だってそのくらいのことは理解しています。
普段とは比べものにならないほどに、無口になっていますけれども。
「そういえば、舞踏会ではいつもお一人なのね」
そんなことばかり考えていた私は、ふいにそう言われて思わず首を傾げてしまいました。
舞踏会、と口の中で繰り返し、そういえば、オルランド様と婚約した後一度もそういう催しに二人で参加したことがなかったことに気がつきます。
忙しい方だとわかっていましたし、屋敷では頻繁に会っていたので、そこまで深く考えていなかったのですが、確かに傍目から見れば不思議でしょう。
いつのまにそのことを調べられていたのかわかりませんが、事実なのでこればかりは取り繕うことが出来ません。
仕方なく『あの方は忙しい方なので』と答えました。
「まあ、そうなの? オルランドも、困った人ね。婚約者を放って仕事ばかりしているなんて」
「いえ。仕事に対して真摯なのはすばらしいことです」
冗談でも強がりでもなく、あの方は本当に忙しいということを知っています。そんな中、時間を作っては会いにきてくれるのですから、政略結婚にしてはましな方だと思っているのですが。
ですが、セレスティナ様はそうは思わなかったのかもしれません。
美しい顔を顰めたまま、気の毒そうに私を見ています。
「……こんなことをあなたに問うのは、いけないことなのでしょうけど」
声を潜めたセレスティナ様は、私の顔を近づけると囁きます。
「この結婚、本当に望んでいらっしゃるの? オルランドはああいう人だし、家同士の結びつきだから仕方ないと諦めているのなら、手助けできることがあるかもしれないわ」
手助け?
セレスティナ様は、何を言おうとしているのでしょう。
「これでも、いろいろ繋がりを持っているのよ。あなたが心底嫌ならば、私ならばなんとか出来るかもしれない」
彼女の思いがけない言葉に、私は言葉を失ってしまいました。
でも。
でも私は。
「私は、この結婚を嫌だとは思っていません」
ようやく絞り出した声は、どこかかすれていました。
そうなのです。
今の私は、皆が心配するほどに、この結婚を嫌だと思っていません。
確かに、お父様から話を聞いた時は憂鬱でした。
自分がオルランド様の好む女性ではことはわかっていましたし、初めの頃は、会話さえ成立しなかったのですから。これが政略結婚で、避けられないとわかっていたからこそ、不満は口にしませんでしたが、不安には思っていました。
話をするようになってからは、最初のような苦手意識も減っています。
「そう。……でも、オルランドはどうなのかしら。あの人、意外と情熱的で一途なのよ。そのことで、辛い思いをすることになるかもしれないわ」
その意味深な言葉に、この人は何かを知っているのではないかと疑ってしまいます。私が名前を知らないあの綺麗な女の人との間にあったことを。
「政略結婚って、本当に嫌なものよね」
私に向かってぽつりと呟かれた言葉に、ぶしつけにもセレスティナ様をまじまじと眺めてしまいました。その目は、何故か遠くを見ているようで、どこか危うく、普段私が知っている彼女とは思えないほど弱々しくも感じられます。
「あら、ごめんなさい。この言葉は失言だったわね。それに、あなたが納得しているというのに、余計なことを言ってしまって申し訳なかったわ」
柔らかく微笑みながらも、その瞳は笑っていません。
いえ、むしろ睨まれているかのようにも感じられます。彼女に何かした覚えはないのですが、失礼なことを言ってしまったのでしょうか。
「私自身も政略結婚を望まれているから。だから、大事な友人が悲しむのは嫌なの」
その挑むような口調に、私は言葉を発することが出来ませんでした。
友人とは誰なのですか。
そう聞きたいのに、聞けば何かまずいことが起こる気がして。
「そのためなら、割と何でもしちゃう方なのよ、私。友人には私の分まで幸せになってほしいもの。ねえ、そのことを覚えておいてもらえると嬉しいわ、アデライダ様」
とても友好的とは思えない言葉なのに、セレスティナ様は笑っているのです。
………恐い。
ふつふつとわき上がってくる感情に私は思わず、自身の手を握りしめます。
何故かはわからないけれど、私はこの人に敵意をもたれている。突然にそのことに気がついてしまったのです。
正直、そこから先は何を話したか、あまり覚えていませんでした。
まるで申し合わせたように近寄ってきた令嬢も加わって、次々に出てくるのは、私には難しい話題ばかり。
それに曖昧に頷きながら、心の中に残った不安の理由が気になり、結局あまりお茶会を楽しむことはできませんでした。
お茶会から戻った私に、妹はいろいろ聞きたがりましたが、ひどく疲れてしまっていたためお父様に簡単な報告だけをして、部屋に引き上げました。
お父様が聞きたがったのは、お茶会に参加していた令嬢のことで、名前を聞いて満足しているようでした。想像どおりだったのか、何か収穫があったのかはわかりません。
私が知り得た程度の情報ではあまり役に立ちそうにもありませんでしたが、お父様がそれでいいというのですから、深くは考えないことにします。
なにより、疲れと緊張のせいで、頭も痛いのです。
「皆様、いつもあんな話をしているの?」
思わず呟いてしまうくらい、セレスティナ様たちの話は専門的でした。
政治のことだけでなく、経済や産業、遠い国の出来事まで、どうやって知り得たのか疑問に思うくらい話題は豊富だったのです。
お茶会というよりは、殿方の集まりに似ています。昔、お父様が、招いた友人達とお酒を飲みながら議論しあっていたのを、見たことがありました。
幼い時だったので、今よりももっと意味はわかりませんでしたが、飛び交う難しい言葉とお酒の匂いは印象深いものでした。
お酒がお茶やお菓子になっただけで、とても似た雰囲気だったのだと気がついて、ますます私が招かれた理由がわからなくなりました。
私はどう見ても――恐らく私と付き合いがある令嬢や囁かれる噂を知っていれば、そういうことが得意ではないことは簡単にわかってしまうと思います。話をすれば、どれだけ取り繕っても、そのことはわかるでしょう。
もっと砕けたお茶会ならば、交友関係や派閥を広げるためということも考えられますが、私に会いたかったというわりには、その後のことを何も約束されませんでした。
やはりオルランド様に関係があるのでしょうか。
セレスティナ様は、オルランド様と親しそうな様子を見せました。
ならば、何故オルランド様自身はそのことをおっしゃらなかったのか。相手が女性だから気を遣ったというのも考えにくいです。親しくなってから、あの方は過去の女性関係について隠さなくなりました。敢えて話はしませんが、聞かれれば正直に答えてくれます。
考えられるとすれば、相手が王太子の妃候補であることを配慮して、という可能性です。
オルランド様は、自分がどのように噂されているか知っています。
あからさまに中傷されても、否定することなく流しているようだとは、王宮で働いている兄からも聞きました。
そんなふうに女性関係の噂が絶えない人が、将来の王太子妃候補と親しくしていれば、妙な噂が立つかも知れません。オルランド様がそこまで細やかな心配りが出来るかどうかは、ちょっと怪しい気もしますが、貴族ならば家族から釘をさされているということも考えられます。
もうひとつは――あまり考えたくはありませんが、あの女性が関わっている可能性です。セレスティナ様が言う友人があの女性ならば、悲しませたくないという言葉がしっくりきます。
でも。
悲しんでいるというのならば、オルランド様だってそうです。あんなに辛そうな姿を見て、彼が苦しんでいないだなんて思えるはずがありません。
そもそもあの方を振ったのはあの女性のはずです。
二人の関係や思いは、二人だけにしかわからないことだし、それを横から部外者がどうこういうことはできないのではないでしょうか。たぶん、私を含めて。
どうしたらいいのでしょう。
誰かに相談するということも考えましたが、相手はあのセレスティナ様です。うかつなことを口にすれば、自分自身だけではなく、周りにも迷惑がかかるかもしれません。
やはりオルランド様に相談するのが一番いいのでしょうか。
憂鬱ではありますが、このまま放置してしまっているのはよくないような気がするのです。
もしあの女性の方が絡んでいるのなら、オルランド様は嫌かもしれませんけれど、何もせずにいて、私だけでなくオルランド様に都合の悪いことになるのは避けたいのです。
そう思っていたのに、第二王子の外交についていくことになり、しばらく会えなくなるという連絡がオルランド様から届いたのは翌日のこと。
急なことだったらしく、使いの人が訪れた時には、もう出発された後でした。
本来ならば、別の方が王子殿下について行くはずだったのに、怪我をしたということで、代理で行くはめになったのだそうです。
がっかりした顔が表面に出ていたのでしょうか。
その実直そうな使いの方は、何度も謝り、主が戻り次第すぐにこちらに顔を出すと言っていたからと教えてくださいました。
それでも、気持ちは晴れないままです。
オルランド様に相談するまで、何事もなく過ぎればいいのですが。
そんなことを考えながら、私は不安な気持ちを押し込めるようにして、オルランド様の帰りを待つことにしたのでした。