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婚約が決まったからといって、すぐに日常が変わるわけではありませんでしたが、少しずつ、変化はありました。
お互いがそれなりの伝統と格式を持つ家柄です。
昔にくらべて簡素化する傾向にあるとはいえ、面倒なやり取りをいくつかこなし、陛下に謁見し婚姻の正式な許可をもらい、書面を整え、婚約者という立場に互いがなったのは、あの舞踏会から随分日がたっていました。
季節も変わり、今はもう冬です。
雪はまだちらついていませんが、外は寒く、趣味の刺繍をするのはもっぱら日が差し込む大きな窓の側になりました。
以前と同じようにふらりとオルランド様が現れるのも、珍しくない光景になってきています。
相変わらず友情の延長の様な関係ですが、以前に比べれば私たちの間には会話も増え、時には他愛ない話題で笑いあうこともあります。
それだけではなく、いつも彼はお土産をもってきてくれるのですが、それが変なものばかり。
たとえば、どこで拾ってきたのかわからない鳥の羽だったり、奇妙な形の石だったり。
仮にも婚約者に対して贈るものとは思えないのですが、それを拾った経緯や背景、持ってきたもののことをおもしろおかしく話してくれるので、退屈はしませんでした。
彼の知識は豊富で、私の知らないことをたくさん知っているのです。
本には載っていないことばかりで、話を聞いた後は、がらくたにしか見えなかった物が、意味あるもののように見えてくるくらいです。
「楽しいですか?」
以前、あまりにも嬉しそうに話すので、そう尋ねたことがあります。
彼は一瞬きょとんとした顔をして――それから、照れくさそうに笑いました。
「アディは、こういう話は嫌いだったか。だったら、悪かった」
いつのまにか、私のことを愛称で呼ぶようになったオルランド様は、そう言ってすぐに謝ってきました。
「嫌でしたら、すぐにそう言います。そうではなくて、オルランド様がとても楽しそうだったので」
「そうだな。最初は会話が続かないから、持っていた物についての話を適当にしたんだと思う」
確かに初めの頃、私たちの間に会話はあまりありませんでした。
「そうしたら、くだらない話だっていうのに、随分熱心に聞いてくれるから、ついこっちも面白くなって。外にはあまり出ないから、実物を見たことがないものが多いって言っていただろう?」
確かに、私の世界は狭いです。
この屋敷と、時々訪れる領地の屋敷。それに付随する庭――自由に動き回れるのはその程度です。王都の中を移動するにもいろいろ制限があり、馬車で動くか、歩く時でも決して一人になることはないのです。
それは私だけが特別というわけではなく、貴族の令嬢のほとんどがそうなのです。
街の外に広がる草原や森に、何が住んでいるか知っているけれど、見たことなどないは当たり前。それを不自由だと思うか、仕方ないと諦めるのかは、それぞれなのでしょうけれど。
「今は無理だが、そうだな。結婚してもう少し融通が効くようになれば、あちこち連れていってやるよ」
「本当ですか?」
つい大きな声を出してしまい、私は慌てて取り繕うように愛想笑いを浮かべました。
もちろん、オルランド様には私の内心の動揺などお見通しなのでしょう。いつもより大きな声で笑っています。少し悔しい気がします。
「そのくらいしか、してやれないしな。俺は次男坊だし、親に逆らって騎士になったものだから、領地もないし、住む家もここまで立派なものじゃない。使用人だって少ないし、仕事柄、家を空けることも多いぞ」
つらつらと『悪い事』をあげていますが、彼自身はそれを悪いとは思っていないように見えます。目元は笑っていますし、並べられた菓子を口にしながらの言葉なのですから。
「大丈夫ですよ。貴族の令嬢のほとんどは、よき妻になるために、いろいろ勉強しているのです。使用人たちには及びませんが、それなりに家事については学んでいますし、オルランド様が使用人を全て解雇したからといって、ひどい食事を食べさせたり、汚れた部屋になど住まわせたりはしませんよ」
私たちが家事をすることなど、滅多にありませんし、慣れた人達から見れば、その実力はままごとのようでしょう。実際にそういうことをしなければならなくなれば、失敗だってすると思います。それでもある程度の知識を教えられるのは、屋敷内を取り仕切るためには、最低限のことは知っておいた方がいいという理由からでした。
それに、全ての貴族の娘が裕福な家に嫁ぐわけではありません。
私のように、実家を継がず騎士となった人に嫁ぐものもいれば、嫁ぎ先が表面は普通でも、内実は質素ということもあり得るのです。
「なるほど、それも貴族令嬢の嗜みってやつか? 妹もやっているのかと思うと変な気分だが」
「ご両親がしっかりしていて、雇った家庭教師が怠慢でなければ、しごかれていると思いますよ」
私の家庭教師も厳しい方でした。
それはもう、何度泣いたことか。それでも、我が儘を言ってすぐに勉強をやめたがる妹や私に、根気よくつきあい教えてくださったことに、今では感謝しています。
あれがあったからこそ、今の私があるのですから。
「なんでもわかっているつもりだったが、知らないことはたくさんあるもんだな」
しきりに感心するものですから、私はまた笑ってしまいました。
「物心ついた頃には、男女は分かれて勉強をしますもの。特に貴族の子息の方は、学校へ通う場合も多いでしょう? 私だって、お兄様方のことではわからないことだらけです」
幼い頃は、我が儘でいたずらばかりしていたお兄様が、学校を卒業して帰ってきてみれば、誰ですかと問い返したいくらいに紳士になっていたことを思い出します。
あまりの違いに、妹が、あんなのはお兄様ではないと泣いて、周りを困らせてしまったことが忘れられません。
「貴族が通う学校は、半端なく厳しいらしいぞ。俺は騎士見習いだったから、学校自体には行っていないが、知り合いから話だけは聞いている」
「騎士見習いだって、とても大変なのでしょう?」
我が家はどちらかといえば文官よりで、騎士になったものはあまりいませんが、兄たちによると学校などとは比べものにならないくらい厳しいし理不尽なことも多いとのことでした。
騎士の世界は、完全な序列社会なのだそうです。
年齢ではなく、位。
特に下に位置する騎士見習いなどは、誰につくかどれだけ早く独り立ちするかで、扱いなども変わってくるとのことでした。
それにしても不思議です。
オルランド様は、私くらいの年齢の令嬢のことを知らなさすぎます。
こんなことは、貴族の女性と懇意になれば知っていて当然のことなのに。
相手の女性が話さなかったとしても、妹か姉がいればわかりそうなものです。確かにこの方のことを調べた時には、女性関係の多さに驚きましたが、よく考えてみれば、相手は未亡人や娼館の女性ばかりでした。好きな方がいるという噂は聞いていましたけれど、それが誰だかわからず、ただの噂なのかお父様も私も計りかねていたのですから。
あの時見た女性が誰なのかは、今でもわかりません。
少なくとも、私が知っている貴族の令嬢の中にはいませんでした。王宮で働いている女官である可能性も考えましたが、あの時のことは秘密にしているので、誰かに調べてもらうわけにもオルランド様に聞くことも出来す、胸の中にしまったままなのです。
ですが、恋人同士であったのは間違いなさそうで、そうならば彼らはいったい普段何を話していたのでしょう。とても気になります。
「なあ、アディ」
ふいに呼びかけられて、私はオルランド様の方へと視線を動かしました。
いつものように飄々とした雰囲気ですが、声は真剣です。
「俺たちは、ちゃんとした家族になれるだろうか」
一瞬、彼のいう『ちゃんとした家族』の意味がわからず、ぽかんとしてしまいました。
それは貴族らしい家族なのか、もっと違う何かなのか。
短いつきあいですが、それが何なのか、なんとなくわかりかけてきている気がします。それは、私や彼の両親のようなものではなく、もっと違う関係ではないかと。
「なれますよ、大丈夫です」
根拠などないのに、私はそう答えていました。
お互いに恋愛感情がないことはわかっています。
これが政略結婚だということも理解しています。
それでも、こういう穏やかで優しい関係ならばいいかもしれないと、私は考えはじめていました。オルランド様もそうなら、嬉しいのです。表面だけの関係しかない夫婦は、やっぱり嫌ですから。
ですが、実はこれがなかなか難しいことなのだと気付かされるのは、それほど先のことではなかったのです。