2
その日は天気もよく、私は昼食を食べた後、庭の中の東屋へと移動し、くつろいでいました。
めずらしく来客も用事もなく、のんびりとした午後です。父や兄は仕事、姉と妹は友人の家へ、母はお茶会へと出かけており、留守でした。
私は趣味でもあり、気分転換にもなるということで、刺繍の道具を持ち出していました。
晴れた日に、庭で過ごすことは、屋敷の誰もが知っていることでしたから、滅多なことでは邪魔は入りません。こちらから頼まなければ、お茶など用意する必要もないと言ってありましたから、この時間だけは誰にも干渉されず、くつろぐことも出来ました。
せっかくだから、この刺繍を仕上げてしまおう。
私はそう思って、集中して針を動かしていました。
そんな時です。
「へえ、綺麗なものだな」
ふいに聞こえた声に、私は持っていた布を落としてしまいそうになりました。
誰もこないと思っていた場所に、何故か、あの方が――オルランド様がいて、私を見ているのです。
私は慌てて立ち上がろうとしましたが、あの方はそれを手で制し、さらに私に近づくと、広げられ木の枠で留められた布をのぞき込みました。
「庭に咲いている花?」
「……はい」
「刺繍は令嬢の嗜みって聞くけど、うまいもんだな」
「私はそれほど上手な方ではありません。もっと上手な方はたくさんいらっしゃいます」
時折、友人同士で集まって刺繍を見せ合うのですが、驚くほど見事な腕前を持つ人もいるのです。それに、これをちゃんと仕事としている人が仕上げたものなど、令嬢の趣味程度ではおよびもつかないものばかりです。
たとえば、自室のベッドにかけられている掛布は、見事としかいいようのない美しさで、今の私の一番のお気に入りです。届けられた時は、頼んで良かったと感激したものです。
「そんなもんか? 興味ないから、他を見たことないしな」
そういうこの方が、式典で羽織っていらっしゃるマントなども、見事な刺繍が施されているはずなのですが。
ああ、今は刺繍のことよりも、この状況をなんとかしなければなりません。
辺りを見回しても、誰もいませんから、成り行き上、この方の相手をしなければならないのは私なのでしょう。もしかすると、夫になる可能性がある方なのですから、素っ気なくするわけにもいきません。
「あの、今日はいらっしゃらないと思っていたので、両親も妹もいないのですが」
私がそういうと、あの方は不機嫌そうに顔をしかめました。
「ああ、知っている」
知っているのならば何故、という言葉は言うことが出来ませんでした。
なぜなら、オルランド様は、私の隣に、遠慮のない態度で、腰掛けたかたらです。まだ未婚の、婚約者でもない女性の側に堂々と座るとは、あきれるやら居心地が悪いやらで、私は彼から距離をとるように、端へと体をずらしました。
「さっき、王宮であんたの父親にあった。で、本日の夕食に招かれたってわけ」
「それでしたら、客間の方に――」
言いかけた言葉を、あの方は遮りました。
「客間にいると、客扱いで、鬱陶しい。だから、庭を見てくるって逃げてきたんだ」
客なのだから、それが当然の扱いのはずなのに、変わった方だと思いました。
むしろ、逃げられた家令や侍女たちが気の毒です。
「ですが……」
言いかけた言葉を、遮るように、あの人は手を振ると、大げさなほどにため息をつきました。
「一応、俺は婚約者候補の令嬢に会いに庭へ行ったことになっているんだ。あんたは好きにしていていいから、しばらくつきあえ」
あまりにも強引な言葉に、私は目を丸くします。
いくら私が婚約者候補でも、やはり二人きりというのはまずいと思うのです。
「心配しなくても、遠くでこっちを伺っているから、大丈夫だ」
言われてみれば、人の影が遠くに見えます。
何かあれば、駆けつけられる距離に安心するとともに、話に聞いていた以上に変わり者のこの人に、あれこれ余計なことを考えているのもばからしくなりました。
きっと、ここで私が彼を無視して、刺繍を再開しても、何も言わないでしょう。
ちらりと隣に座る彼を見れば、くつろいだ様子で腰掛け、目を瞑っています。もちろん、本当に寝ようとしているわけではないのでしょう。
彼なりの、自分のことは気にせず放っておいてくれという意思表示なのかもしれません。
それとも、私と会話する気はないという気持ちでいるのでしょうか。
どちらにしても、話さなくて良いというのは助かります。
なにしろ、話題が思いつきません。
庭の花のことを殿方に話しても何か違うような気がしますし、かといって政治の話など、私には出来ません。最近令嬢の間で流行っているドレスの型も、新しく出来た焼き菓子のお店の話も、絶対興味はないはずです。
私は、もう一度だけ隣に座る彼の顔を見て、やはり反応がないのを確かめてから、膝の上に置きっぱなしだった布を手に取りました。
そして、彼が何も言わないのをいいことに、刺繍を再開したのでした。
どのくらいそうしていたのでしょう。
最後の花弁の刺繍が終わり、糸の始末を終え、ふと顔を上げると、そこにはこちらをじっと見つめるオルランド様の眼差しがありました。
いつのまに目を開けていらしたのでしょう。
いえ、それよりも、いつからこちらをご覧になっていたのか――。
「あの?」
なんと問い駆けていいのかわからず、間抜けな呼びかけをすると、あの人は口元を歪めて笑いました。
「ああ、悪い。面白いから見ていた」
面白い、のでしょうか?
ただこうやって刺繍していただけなのに。
「今まで意識してなかったけれど、結構手間かかっているものなんだなと」
「そうでしょうか。これはまだ簡単な方です」
それほど複雑な図案ではありません。妹に渡そうと思っていた膝掛けですから、大きさもそれほどではないのです。
「母や妹がやっているのは知っていたんだが、あまり家にいなかったからな」
そういえば、この方は騎士を目指していて、騎士見習いとなれる年齢に達したとたん、家を出たのだと聞きました。家柄からして、わざわざ苦労して下から這い上がる必要もなく、それなりの地位にある騎士の下につくことも可能だったでしょうに。
現場に出ることも多く、市井からの人間も多い場に入り、身分も関係なくやってきた彼はすばらしいのかもしれませんが、反対に妬まれることも多いのではないでしょうか。
どれだけとりつくろっても、所詮私たちは貴族で、そこから逃れることは出来ないのです。
例え没落しても、身分を剥奪されても、です。
だからこそ、そこから外れた生き方をするこの方が、変わり者といわれているのかもしれませんが。
「ただのお嬢様の遊びってわけでもないんだな」
「……どういう意味なのでしょう」
あまりにも難しい顔をして、そんなことを言うものですから、私はおもわず相手を凝視してなおかつ聞き返してしまいました。
「そういうのって、意味あるのかって思っていたんだ。妹なんて、それほどうまくはないし、正直できあがったものを見ても、微妙な感じだった。でも、みんな貴婦人の嗜みとかいって、熱心にやっているだろう?」
「貴族の殿方も、好き嫌いは別として、皆様剣を習うでしょう? 確かに、剣の腕がどうしようもない方もいらっしゃいますが……やはりそれも嗜みなのでは?」
「嗜みねえ。そんなふうに考えたことはなかったな」
彼は、難しげな顔をしています。考え込まなければならないほどのことではないと思うのですが、彼は、政治や軍事のことを話す時と同じ表情を浮かべていました。
そもそも、剣にしても刺繍にしても、貴族の子供たちが意味もわからず幼い時に教えられるものであって、そこに将来役に立つかもしれないという意味以上のものはないではないでしょうか。
「ああ、だけど、それだけ手間がかかっているんなら、妹からもらったハンカチを粗雑に扱うんじゃなかったな」
さすがに人前に出る時は使えないが、と笑った顔は、それまで私が知っていたこの方とは不釣り合いなほど、優しいものでした。家族仲はあまりよくないと聞いていましたが、もしかするとそんなことはないのかもしれないと思わせるものが、その表情にはあったのです。
だからこそ、余計なことだとは思いましたが、私は言葉を発していました。
「わざわざ自ら刺繍したというのでしたら、やはりあなたに使ってもらいたかったのではないでしょうか」
「そうだったら、嬉しいが」
きっとそうなのだと思います。
私だって、自分が自ら刺繍したものは、やはり親しい方に使ってもらいたいです。今のところ、それは家族や友人に限られていますが。
「だとしたら、妹には悪いことをした」
苦笑とともにはき出された言葉に、私は思わず目を丸くしました。
意外だったからです。
「……難しくない話も、ちゃんとされるんですね」
思わず呟いてしまった言葉に、あの方はめずらしく驚いた顔をされました。
それから、ほんの少し眉をひそめ、私の方を見ました。
「そういうあんたも、難しくない話なら、そんなに饒舌になるんだな」
「そうでしょうか」
「ああ、そうだ」
断言されてしまい、私は小さく息を吐きました。確かに、オルランド様が訪ねてこられたときは、私はあまり話をしていませんでした。
「難しい話は、あまり好きではないのです。そういうのは、得意ではありませんし……」
「確かに、かしこくはないな」
はっきり言われて、笑ってしまいました。
以前、答えられなかった話題のことを思い出したのでしょう。
「でも、余計なことを言わないぶん、気楽だ。相手が自分と同等の知識をもっていると、つい論議をしたくなっちまうからな。頭を空っぽにして会話すると、楽だ」
「そういうものでしょうか」
「そんなものだ」
そういって彼は声を上げて笑いました。
「話してみるもんだな。そうでなければ、あんたのことは、誤解したままだった」
楽しそうな顔に、私も同じことを考えました。
こうやって話さなければ、オルランド様のことを怖い方だとしか思えなかったでしょうから。
それに、恋愛感情はもてないかもしれませんが、友人――あるいは妹の夫としてならば親しくなれるかもしれない。そんなことをぼんやりと考えてしまったのは、その笑顔を見てしまったからかもしれません。
そして。
その日を境に、オルランド様はふらりとこの庭に現れるようになりました
決まって昼下がり。一定の間隔を開けての訪問ですから、おそらく自らの休みの時なのでしょう。
何をするでもなく、ただここへ座り、庭を眺めたり、たわいない話をしたりするのです。両親が期待するような甘い雰囲気などありませんでしたが、同性の友人たちとは違ったくすぐったいような気恥ずかしいような気持ちは新鮮で、いつしか私自身もこの時間を楽しみにするようになっていったのです。
このままいけば、なしくずしのように婚約することになるのでしょうか。
そんなことを漠然と思っていた時、その出来事は起こりました。
私はそこで、またあの方の意外な一面を知ることになるのです。