番外編 はじめての
私がお姉様の婚姻の式へと出席するためにコルレアに訪れたのは、冬が終わりを告げ、春らしい暖かな日が続きはじめた頃でした。
到着してからしばらくは、いろいろな方への挨拶や顔合わせなどに忙しく、ようやく落ち着いた時間が取れたのは、翌日になってからのこと。
まだ、いくつかしなければいけないこともありましたが、式当日まではゆっくりしてよいとのことでしたので、かねてからどうしても実現したかったことが可能かどうかと、屋敷の方に尋ねてみたのです。
そう、コチュです。
屋敷の近くにも放牧されている場所があるらしいのですが、私はまだ一度も見ていませんでした。
オルランド様からお話を聞いた後、図鑑で姿を確認してはみたのですが、やはり、どの程度『コロコロ』していて『丸い』のか、自分の目で確かめたかったのです。
熱心に頼み込んだ私に、フィゲーラス家当主であるハシント様は驚かれたようですが、それならばと、一番近くにあるコチュの放牧場を教えてくださいました。
そして、それを聞いた伯爵家の侍女の方々に、出かけるのならば、是非着替えをと勧められたのです。
コルレアは、春とはいえ、私がすごしている王都よりもずっと寒いですし、コチュが放牧されている場所は普段履いているような靴では足を取られやすく、しかも草の中には糞が落ちている場合もあるのでとても『危険』なのだそうです。
足首が見えるくらいの長さのスカートに、踝まである編み上げ靴、動きやすく暖かい上着は、こちらの領地で身分ある女性たちが春に森や草原を散策する時には一般的な服装で、是非それで出かけるようにということらしいのです。
もちろん、そのような服は持ってきていませんのでしたので、お姉様にお借りすることになってしまったのですが。
遠慮する私に、せっかくだからオルランド様と出かけてくればと楽しそうに勧められ、妙にはりきったオルランド様に押し切られ、気がつけば、この地では一般的な貴族令嬢の姿をした私ができあがっていたのです。
支度を済ませ、部屋の外に出ると、同じように着替えたオルランド様が待っていました。
カレスティアの屋敷に来る時のような、動きやすく装飾の少ない服装です。
「随分、すっきりした感じになったな」
オルランド様は、私の姿を見て、目を細めました。
恐らく、こんな姿の私を見るのは初めてだと思います。
「この辺りでは、外を出歩く時は、このような服装なのだそうです」
森や草原が多く、他の領地よりも石畳の道が少ないせいで、裾の長い服や動きにくいドレスなどは好まれないとのことでした。
靴にしても同じで、王都で流行っているような踵の高いものは足を痛める原因になるという理由で、屋敷内や特別な行事の時以外は、あまり履かないのだとも聞かされました。
「確かに、森の中を歩くのには、ひらひらしたドレスは合わないだろうな。どこにコチュの糞が落ちているかわからないし」」
笑いながら言うオルランド様に、私は少しだけ青ざめました。
コチュの糞の匂いが独特だということは、この屋敷に到着したときにも教えられています。忙しいはずのお姉様からも、外に出る時は気を付けるようにと注意されました。
さすがに屋敷の周りや大通りは清掃されているそうですが、たまに予測不可能なところに糞が落ちていることもあるのだそうです。
うっかり踏んでしまったりすると、すぐには匂いを落とせないため、気を付けるに超したことはないのだと。
「大丈夫。そんなに神経質になるほど落ちてはいないはずだ」
一応、飼われている生き物です。
放牧場所から、あまりにも離れたところに行ってしまえば、獣に襲われる危険性もあるのですから、コチュの世話をする方も気を付けているでしょうし。
「踏んだらその時はその時。気にしていたら、楽しめないぞ」
その通りなのですが、やはりどきどきしてしまうのです。
オルランド様だって、散々脅していたではありませんか。
「ほら、急がないと、時間がなくなる」
オルランド様に手を取られ、私は覚悟を決めました。
「これも、貴重な体験ですもの、頑張ります」
気合いを入れてそう言ったのに、何故かオルランド様には、笑われてしまったのでした。
ハシント様から教えていただいた放牧場は、直接フィゲーラス家が管理している土地だそうです。
屋敷の裏手にある森を抜けるとすぐ開けた場所に出るからと言われましたが、こうやって少し湿った細い道を歩くのは初めてでしたので、滑らないように気をつけなければいけません。
「慣れない靴だから、足が痛くなったらすぐに言え。それから、この辺りの土は水分を多く含んでいるから、足を取られやすい。気をつけろよ」
普段よりもゆっくりとした歩調のオルランド様の腕に縋るようにして歩いている私は、なんとか大丈夫ですと答えました。
オルランド様が、私の頼りない足元に気を遣ってくださるので、転びそうになっても、本当に平気だったのです。
ですが、もう少し足を鍛えた方がいいのでしょうか。
はっきりと口にはしていませんが、オルランド様と行ってみたいところはたくさんあるのです。それは、町の中だけでなく、カレスティア家の領地にありながら、まだ私が一度も訪れたことのない、森の中や湖も含まれています。
護衛の方とではなく、オルランド様と一緒に行って、たくさんのことを教えてもらえたら、きっと楽しいでしょう。
その時に、すぐに息が切れてしまったりするのは、嫌ですから。
せめて、オルランド様に迷惑をかけない程度にはならなければ。
「アディ? 何難しい顔をしているんだ? やっぱり足が痛いのか? 休憩してもいいんだぞ」
……オルランド様。それは心配しすぎです。
「少し、緊張しているだけです」
「本当に?」
「本当です。それより早くコチュが見たいです」
「それならばいいんだが、絶対に無理するなよ」
まだ疑わしそうな顔のオルランド様に、私は思わず吹き出してしまったのでした。
それほど歩くこともなく抜けた森の向こうには、広い草原が広がっていました。
深緑に染まった草の中、まるで毛玉のような白い生き物が草を食べています。
「まあ、本当にコロコロして丸いのですね」
コチュは、図鑑やオルランド様のお話で想像していたよりも小さく、そして丸かったのです。
「今は、ちょうど毛刈りの前だからな。余計にコロコロしているんだ」
何もしていないのに近寄ってきた白い塊に手をのばすと、オルランド様はかき回すようにその毛に触れました。
「丁寧に世話されているようだな。悪くない。どうだ、触ってみるか?」
オルランド様と私を取り囲むように集まってきた白い塊は驚くほどの数です。
人懐っこいと言ってしまうには、警戒心がなさすぎな気がするのですが。
「どうした?」
「あ、あの。驚いてしまって」
何もしていないのに、こんなに集まってくるものなのでしょうか。
「大丈夫、囓ったりしない」
「そんな心配はしていません」
言ってしまったあと、ふと不安になります。生き物ですから歯もあります。
人懐っこいとはいえ、いきなり触ったら、たまに囓ったりするのでしょうか。
「本当に囓りませんよね」
念のため聞いてみます。
「悪い悪い。冗談だ。ほら、大丈夫だから手を出して」
オルランド様に即され、私は手袋をはずすと、おそるおそる手をのばしました。
逃げようとしないコチュの頭を、そっと撫でてみます。
思ったよりもふんわりとした毛は、かなり長く、押してみるとへこんでしまいました。
実際の体は、さらに小さいのでしょう。
毛を取ってしまったらどうなるのか気になりましたが、残念ながらそれを見る機会は今はなさそうです。
「外側は放牧中にどうしても汚れるが、奥の方は綺麗だろ? 草や土、ゴミなんかも絡まっていない。きちんと世話されている証拠だ」
説明しながら、オルランド様は、コチュの毛をかき分けて中身を見せてくださいました。
「本当ですわ」
やや茶色の混じった表面とは違い、中は白いのです。とはいっても、これだけ見れば、ただの長い動物の毛。
これが、あの毛織物になってしまうかと思うと、本当に不思議なのです。
「コルレアの毛織物は、とても手間のかかると伺いましたが、本物のコチュを見ると納得します」
一年かけて毛をのばして、それを刈って、糸にする。
私が知らないたくさんの行程があり、多くの人が関わって、最終的にはハシント様から頂いたような素晴らしい品物になるのでしょう。
「すごいです」
「アディは素直だな」
「でも、本当のことですから」
今日は、コチュを見ることができてよかったと思います。
「ところでアディ」
オルランド様がコチュから手を離すと、私の顔をのぞき込みました。
「伯爵に聞いたんだが、この先に、おもしろい場所があるそうだ。せっかくだから、行ってみよう」
「はい」
子供のように手をひかれ、私は歩きだしました。
まっすぐではなく蛇行したり斜めに歩いたりするのは、ぬかるみやコチュの糞がありそうなところを避けるためなのかもしれません。たまに漂ってくるのは、確かに、鼻を押さえたくなるような匂いでしたから。
そして、歩く私たちの後ろを、ちょこちょことコチュがついてくるのです。
その可愛らしさに、結局何度も振り返ってしまい、なかなか目的地にはつけそうもありません。
他にも、コチュが好む草や、咲いている花について教えてもらうために、時々立ち止まることもありました。
そうやって、ゆっくりと二人、歩いていたときです。
「アディ、ちょっと待つんだ」
オルランド様に止められて、私は首を傾げました。
何か匂います。
先ほどまでほのかに漂っていたものより、明らかに強い匂いです。
「その水が流れているあたりに、糞がある」
見れば、確かに小さな糞のようなものが、たくさん落ちているのです。
「これは、その。コチュの……?」
なんともいえない匂いが漂う泥水に、私は思わず一歩後ろに下がってしまいました。
「今までの匂いが可愛らしいものと思えるくらいの匂いなのですが」
「そうだな。どうやら、泥水に、コチュの糞が混じって溶けかかっているせいで、匂いが強くなっているようだ」
「まあ……」
オルランド様なら、軽く飛び越えられそうですが、私では無理です。
せっかくここまで来たのに、引き返すか遠回りするしかないのでしょうか。
ですが、小さな川のように長く伸びた水の流れに、切れ目が見当たらないのです。
「ああ、もう。面倒だな」
そんな声とともに、腰に手が伸びてきたかと思うと、小さな子供でも抱くように私はオルランド様に抱え上げられてしまいました。
その不安定さに、慌てて、私はオルランド様の首にしがみつくように手を回してしまいます。
「オルランド様!」
抗議の声をあげたのに、下ろしてもらえません。
「アディ、嫌なら蹴っ飛ばしてもいいぞ」
笑いながらそんなことを言うのは、とても卑怯です。
「そんなことをすれば、落ちてしまうではありませんか!」
落ちたら泥まみれです。
せっかく貸してもらった服が汚れてしまいます。コチュの糞の匂いもついてしまうでしょう。
それに。それにです。
「だ、誰かに見られたら、こ、困ります」
「見てない、見てない」
「笑いながら、答えないでください」
正直に言えば、恥ずかしいのです。
恐らく、今こうやって私が抱き抱えられているからといって、誰も咎めたりしないでしょう。王都でしたら、周りの目もありますが、こちらの方の気質なのか、身内しかいない状況の中、正式な婚約者として認められている二人にうるさく小言を言う人間がいないのです。
これは予想外のことで、母でさえ何も言いませんでした。
日が落ちてから、二人きりはいけないと口にしただけで、皆、見て見ぬ振りをしているようなのです。
私以外にも、まだ婚約者同士の間柄の人もいたのですが、同じように二人きりで歩いているのを見ましたし。
そのあたりのことをヘッセニアに言うと、こういうところで妙なことをすると、返ってその方が目立つのよ、と自信満々に言われてしまったのですが……。何か違うと思うのは、私だけなのでしょうか。
確かに、普段見慣れない人が、普段見慣れないことをしていれば目立つのは当たり前で、余計な噂をたてられたくない人間は、自然と気を付けるでしょう。
婚姻の儀式の前ということで羽目をはずす人は少ないですし、例え二人きりになっても、オルランド様は何もしないと信じているのです。
でも、今の状況は『何もしない』部類に入るのでしょうか。
「しっかり捕まっていろよ」
「え?」
問い返そうとした言葉は、勢いを付けて水の流れを跳び越えたオルランド様の行動に、喉の奥へと消えてしまったのでした。
水の流れる場所を越えるのは、コチュも怖いのでしょうか。
泥の上を越えた私達についてくるコチュは、いませんでした。
「あの、下ろしてください」
遠ざかっていくコチュの群れを目の端に映しながら、私はいまだにオルランド様の腕の中です。
「夕暮れになるまでに帰るなら、急がないといけないだろう」
「それはそうなのですが」
私の歩調に合わせていたら、確かに、日が暮れるまでに戻れないでしょう。
だからといって、これはないと思うのです。
「重くはないのですか」
「どうかな」
はぐらかすように言われると、気になります。
「俺は気にならない、という答えはどうだ?」
「からかっているでしょう」
本気で答える気はないようです。そして、やはり下ろしてくださる気もないようなのです。
「目的地はもう少しだから、我慢してくれ」
そういえば、ハシント様から、おもしろい場所を聞いたと言っていました。
伯爵様自らお勧めされるくらいですから、きっとよいところなのでしょう。
「ついたぞ」
そう言われ、私はオルランド様の腕の中からようやく解放されます。
そして、そこにあったのは。
「花、ですか」
まるで先ほど見たコチュを小さくしたような丸い花が、視界いっぱいに広がっています。
きちんと手入れされた庭とは違い、同じ花だけで埋め尽くされた景色に、私は圧倒されてしまいました。
「これも、コチュという」
「先ほど見たコチュと同じ名前なのですか?」
「元々は、こちらの方が先なんだ。コチュという花に似ているから、あの生き物もいつのまにかコチュと呼ばれるようになった」
「本当に似ています。それに、いい匂いですわ」
こちらのコチュは、近づくと甘い匂いがします。
「乾燥させると、もっと匂いが強くなる」
「もしかすると、客室に飾ってあったのはこの花だったのでしょうか。乾燥して色も変わっていましたから、匂いを嗅ぐまでわかりませんでした」
指先でつつくと、丸い花がふわふわと揺れます。
密集した花びらは、よく見ると先の方が薄緑色をしていました。
「どちらのコチュも、可愛いのですね」
私が何度も花を揺らしていると、しゃがみこんだ私の横に、オルランド様も同じようにかがみ込みます。
「……アディ」
オルランド様の手が、花を揺らす私の手を掴みました。
そのまま引き寄せられ、私はとても間近にオルランド様の顔があることに動揺しました。
「オルランド様?」
「俺は……」
とても小さな、かすれた声が私の耳に届きました。
そして――その言葉に驚いた隙をつくように、オルランド様は私に口づけたのでした。
軽く触れあうだけのものとは違う口づけに、私はぼうっとなってしまいました。
現実は、こんなにも甘い――世の中の恋人同士と言われる方が、好んでする意味がわかったような、そうでないような……。
「アディ?」
のぞき込んできたオルランド様が、どこか不安そうな目を私に向けています。
「悪かった」
何故、謝るのでしょう。
どうして、そんな目をするのでしょう。
「そんな泣きそうな顔をしないでくれ」
「ち、違います」
嫌がってなどいませんし、泣きそうなのではなく、どうしてかオルランド様を見ていると、体が火照ってきてしまうのです。
「違うっていうのは、どういう意味だ?」
「恋人同士のようで、その……嬉しかったのです」
形だけで始まった間柄なので、普通の恋人達がするようなことはできないと、何故か思ってしまっていたのです。
世の中には、愛がなくても、嫌い合っていても、そういうことをする方がいるということは知っています。
オルランド様の思いがどこにあるのかはわかりませんが、今までずっと誠実に接して下さっていたからこそ、いい加減な気持ちではないのだろうと思うのです。
少しは心が近づけたということなのでしょうか。
私に恋人にするような口づけをしてもらえる程度には――。
「よかった」
オルランド様の手は、私の頬に添えられたままです。
「怒られるんじゃなかと思っていた」
「怒りません。嬉しかったと言ったでしょう」
「そうか。だったら、もっと触れてもいいんだな」
「……オルランド様」
再び引き寄せられての、どこか強引な口付けは、さきほどよりも長く激しいものでした。
二度目の口づけを許してしまった私は、きっとすぐに三度目も、四度目も許してしまうでしょう。
それは、一度目の時に、オルランド様の言葉を聞いてしまったから。
『あんたのことが、とても愛しいと、そう思ったんだ』
嬉しかったのです。
その言葉が持つ意味に、幸せを感じてしまったのです。
私も同じ気持ちです――二度目の口づけの後に私が告げると、オルランド様は、強く私を抱きしめてくださいました。
ありがとう。
確かに聞こえた言葉に、私はそっとオルランド様の背中に手を回します。
いつまでも、このぬくもりを失わないために。
そして、願うのです。
ずっと、幸せでいられますように。
二人の願いが叶いますように、と。




