『悪戯するなら、朝まで共犯』
『朝まで、あなたとハロウィン』
ギシ、と重い蝶番が鳴った。
部屋の隅に置かれた古いチェストを開けると、埃っぽいラベンダーの匂いに、砂糖と火薬の匂いが混ざって鼻をくすぐった。奥にしまい込んでいた黒いマントを引っぱり出す。縁には、昔あなたが縫い付けてくれた小さな銀糸の星が、まだ残っていた。
その上に、目をくり抜いたパンプキンのお面を重ねる。鏡に映る顔は、明日、政略結婚の花嫁になる王女ではない。今夜限りのワンダーランドへ出かける、魔女の泥棒猫だ。
私はジャック・オ・ランタンに火を灯した。オレンジ色の光が、壁の上で揺れている。
この国では、ハロウィンの夜に死者が一晩だけ戻ってくると言われている。墓から出てくる者もいれば、昔の家や、愛した人の記憶に引き寄せられて現れる者もいる。戻っていられるのは、夜明けまで。それを過ぎれば、二度とこの世には帰れない。
あなたが王宮と貴族たちの陰謀に巻き込まれ、殺されてから三年。私はその言い伝えを信じて、今夜を待っていた。
明日、私は隣国の王太子と結婚する。王宮で続く権力争いを終わらせ、隣国との和平を結ぶための政略結婚だ。婚約を断れば、国境で再び戦が始まる。父も、国を守るために決めたのだと言った。
私も、逃げるつもりはない。
ただ、花嫁になる前に、もう一度だけあなたに会いたかった。
「今夜だけ。朝になったら、ちゃんと戻るから」
誰に言うでもなくつぶやき、私はマントの襟を立てた。
狙うのは、町外れに住む菓子職人一家が隠している、とびきり甘いキャンディだ。彼らは毎年ハロウィンの夜、屋敷のあちこちにお菓子を隠す。見つけた人だけが、閉鎖された砂糖工場で開かれる夜通しのパーティーに参加できる。
その家の隠し場所を探すのは、あなたと私が子どものころから続けてきた遊びだった。
「道順は、左、右、それから右」
古い紙片をポケットに入れ、屋敷を抜け出す。街はすでに静まり返っていた。窓辺にはカボチャのランタンが並び、通りの向こうからは、子どもたちが最後の「トリック・オア・トリート」を叫ぶ声が聞こえる。やがてその声も遠ざかり、家々の灯りがひとつずつ消えた。
普通の子どもたちが、温かなベッドに帰ったころ。ここからが、私たちの時間だった。
路地裏へ入る。石畳は冷たく、夜の霧が足もとに流れていた。道は何度も分かれ、建物の影が行く手を隠す。目印のジャック・オ・ランタンも、古びた街灯の薄明かりも、少し進めば見失ってしまう。
左へ曲がる。次は右。その次も右。
「この道で合ってる……はず」
子どものころ、あなたはいつも迷わず道を選んだ。私は地図を持っているのに、同じ噴水の前を何度も通った。あなたはそのたびに笑い、私の手を引いた。
いまは、隣にあなたはいない。
道を間違えれば、夜明けまでに屋敷へたどり着けないかもしれない。ハロウィンの夜は、時間がいつもより早く過ぎる。時計の針はチック、タックと進み、焦りを煽るように遠くで鐘が鳴った。
最後の分かれ道を越えると、錆びた街灯の下に、菓子職人一家の屋敷が見えた。あのころと変わらない、重い木の扉。窓の向こうは真っ暗なのに、隙間からバターと煮詰めたキャラメルの匂いが漏れている。
私は扉の前に立ち、冷たいノッカーを二度鳴らした。
コン、コン。
返事はない。
屋敷の人たちは、もう工場のパーティーへ出かけたのだろう。それでも、お菓子の匂いは濃くなるばかりだった。
「まさか、家族だけで先に食べてるんじゃないでしょうね」
お面の下で、私は目を細めた。ぼんやりしている暇はない。夜明けまでに、あなたに会わなくては。
「時間切れ。勝手に入らせてもらうわ」
針金を錠前に差し込み、かちりと鍵を外す。私は扉を押し開け、屋敷の中へ滑り込んだ。
リビングのテーブルには、銀のトレイが置かれていた。キャンディもチョコレートも、ほとんど残っていない。その前に、黒いマントを羽織った人影が立っていた。
海賊のお面の下から、鈍い光がのぞく。腕には、抱えきれないほどのお菓子。
「ずいぶん遅かったね、魔女さん」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が痛いほど跳ねた。
私は、彼が持っていたカボチャのランタンを見た。火は灯っているのに、炎が揺れない。床には影が落ちていなかった。
「……あなたなの?」
彼はお面を外した。
三年前と同じ顔だった。少し長くなった髪も、目尻に浮かぶ笑いじわも、何か言いたそうに私を見る癖も。何ひとつ変わっていない。
「ただいま」
私は一歩も動けなかった。
王宮の石牢へ連れていかれた夜。あなたは反逆者の汚名を着せられ、貴族たちの前で裁かれた。私は真実を知っていたのに、証言する機会を奪われた。翌朝、あなたはもういなかった。
その後、私は何度もあなたの墓を訪れた。花を供え、名前を呼び、返事のない石に額を寄せた。
今、そのあなたが目の前に立っている。
「本当に……戻ってきたの?」
「今夜だけね。墓地を出たら、君のランタンが見えた。それで、昔の遊びを思い出したんだ。君なら、きっとここへ来ると思って」
「どうしてお菓子を抱えてるの?」
「夜の向こうへ行くにも、手土産くらい必要だろう?」
彼は悪びれずに笑った。
私はたまらず駆け寄り、彼の胸に飛び込んだ。身体は、冬の夜気より冷たかった。それでも、彼の腕は確かに私を抱きしめた。
「会いたかった」
「僕もだよ」
「ずっと、ずっと会いたかった」
「わかってる」
彼の頬に手を伸ばす。指先が触れた肌は冷たい。涙がこぼれると、彼は親指でそっと拭った。
「明日、結婚するの」
抱きしめた腕が、一瞬だけ強張った。
「隣国の王太子と。国を守るための政略結婚よ。断れば、また戦争になる。だから、私は行く」
「そうか」
「あなたを殺した者たちは、まだ王宮にいる。私はあの人たちの前で笑って、和平のために花嫁になる。きっと、簡単じゃない」
「君なら大丈夫だ」
「今夜くらい、そういうことは忘れさせて」
私は彼の胸を押し、涙を拭った。
「さあ、今日はあなたと二人で朝までパーティー。二人だけのハネムーンよ。終わったら、私は政略結婚に戻る。だから今は、あなたとの時間を楽しませて」
彼は少し驚き、それから、昔と同じ顔で笑った。
「それなら、まずはお菓子を分けよう。君は甘いものが好きだったよね」
「好きよ。あなたと食べるのがね」
私は銀のトレイからキャンディをいくつか取った。黒いマントのポケットにしまい、真っ赤なチェリーキャンディをひとつ、彼の手に渡す。
彼がそれを受け取ると、ランタンの火が強くなった。カボチャの目の奥で、橙色の光が明るく揺れる。
「急いだほうがいい。工場のパーティーが始まる」
「あなたも来るの?」
「君と一緒に行くために戻ってきたんだ」
屋敷を出ると、門の外に黒塗りの馬車が待っていた。御者の席には誰もいない。馬たちの鼻から白い息がこぼれている。
彼が手綱を取ると、馬車は音もなく走り出した。
窓の外には、見慣れた街並みが流れていく。家々のランタンは赤や橙に輝き、通りの角では仮装した人たちが笑い合っていた。遠くの墓地から、地鳴りのようなざわめきが聞こえる。死者たちも、今夜の祭りを待ちわびていたらしい。
「怖くないの?」
彼が尋ねる。
「何が?」
「死者の集まるパーティーだよ」
「あなたがいるもの」
「それは心強いな」
やがて、街外れの廃工場が見えてきた。昔、砂糖を作っていた建物だ。今夜だけは、古い煙突から甘い煙が立ち上っている。大きな扉の前には、人間や幽霊、魔女や海賊が列を作っていた。
入口に立つ仮面の門番が、私たちへ手を差し出す。
「合言葉は?」
彼は私を見た。昔から、こういうときは私に答えさせる。
「ハッピー・ハロウィン」
私が言うと、門番は不気味に笑って道を開けた。
工場の中は、別世界だった。天井からカボチャのランタンが吊るされ、床には紅い光が揺れている。テーブルには、目も眩むほどのパンプキンパイ。星屑を溶かしたようなシロップの海。チョコレートにキャンディ、砂糖をまぶした果物が、あちこちに山を作っていた。
疲れ切ったジャック・オ・ランタンまで、棺桶から起き上がって踊っている。誰かが歌い、誰かが笑い、誰かが「トリック・オア・トリート」と叫ぶ。夜の間だけ、死者も生者も同じ床で踊れた。
彼は私の手を取った。
「踊ろう」
「踊れるの?」
「君となら」
音楽に合わせ、私たちは人の輪へ入った。彼の手は冷たい。それでも、私の腰を支える力も、指を絡める仕草も、昔のままだった。
一曲が終わると、私たちは人混みから抜け出した。工場の奥には、使われなくなった砂糖倉庫がある。小さな窓から月が見え、古い作業台には、誰かが置いたキャンディの皿があった。
「ここで二人きりになりたかったの?」
「ええ。今夜は、あなたを独り占めしたいの」
「お菓子と同じように?」
「そうよ。独り占めは重い罪なんでしょう?」
彼は笑った。私は赤いチェリーキャンディをひとつ口に入れ、舌の上で転がした。甘くて、少しだけ舌が痺れる。
あなたにも同じものを渡す。彼はキャンディを口に含み、目を閉じた。
「懐かしい味だ」
「昔、あなたが私の分まで食べた味ね」
「君がいつも、最後の一つをくれたんだ」
「今夜は最後の一つじゃないわ。朝まで、いくらでもあるもの」
私たちは、昔話をした。庭を駆け回ったこと。川辺で将来の話をしたこと。王宮の宴から抜け出し、厩舎で夜を明かしたこと。あなたが私にくれたチェストやマントのこと。
それから、あなたが戻ってこなかった三年間のことは、少しだけ話した。
「私は、あなたの無実を証明できなかった」
「君のせいじゃない」
「でも、私は生き残った。王宮で、あなたを殺した人たちと顔を合わせてきた」
「それなら、明日からも生きて。彼らに奪われたものを、君まで手放さないで」
彼の言葉に、私はうなずいた。明日、政略結婚をする。けれど、それは彼らに心まで差し出すことではない。和平を結び、王宮に残り、真実を探す。あなたが生きた証を、私が守る。
「約束する」
「よかった」
工場の外では、パーティーがますます賑やかになっていた。赤い目をしたお化けたちが踊り、ランタンの火が天井を走る。時計の針が進んでいるのに、夜だけがどこかへ伸びていくようだった。
私たちは手を取り、もう一度踊った。音楽が止まっても、足を止めなかった。笑って、歌って、甘いものを分け合った。世界の境目がぼやけ、あなたと私の間にあった三年の隔たりも、少しずつ薄れていった。
でも、夜明けは必ず来る。
東の窓が白み始めるころ、工場のランタンがひとつずつ消えた。踊っていた死者たちは、静かに出口へ向かっていく。彼の手が、私の手の中で透け始めていた。
「もう行かなくちゃ」
「わかってる」
「今夜、来てくれてありがとう」
「君が呼んでくれたからだよ」
「明日、私は結婚する。でも、あなたを忘れない」
「忘れなくていい。ただ、僕のために立ち止まらないで」
私は彼の胸に頬を寄せた。冷たい身体から、まだ彼の心臓の音が聞こえる気がした。
「今夜は、私たちだけのハネムーンだったわね」
「そうだね。最高の夜だった」
「朝が来なければいいのに」
「朝が来るから、今夜を大事にできるんだよ」
最後のランタンが消えた。彼の姿が、月明かりの中へ溶けていく。
私は手を伸ばした。指先が触れる。その手が、ゆっくり離れていった。
「またね」
「またハロウィンに」
彼は笑った。次の瞬間、そこにはもう誰もいなかった。
私の手には、赤いチェリーキャンディがひとつ残っていた。口に含むと、甘さの奥に、火薬のような刺激が広がる。
馬車が屋敷へ戻るころ、東の空はすっかり白んでいた。私はマントを脱ぎ、パンプキンのお面をチェストへしまった。明日には王宮へ戻り、花嫁になる。
けれど今夜、私はあなたと踊った。笑って、お菓子を分け合い、二人だけのハネムーンを過ごした。
それは、誰にも奪えない。
私は最後にもう一度、窓の外の空を見上げた。
ハロウィンの夜は終わった。だけど、あなたと過ごした時間は、これからも私の中に残り続ける。




