隕石ひとつ
私は毎朝、自分の頭上を通り過ぎるあの球体を気にしていた。
あの球体は、つまり、市立科学館の天井からつり下がっているその巨大な球は、いつでも来館者を見下ろしている。午前の明るい展示室の中で科学館正面玄関の高い天井を誇示するように吊るされている。外観は木製のブロックを積みあげて浮かせたような様子で、その中でプラネタリウムが鑑賞できると理解することはできない。
私はそれが、空から近づく隕石にみえるな、と思いながら通勤していた。
私が市立科学館を突っ切る最短通勤ルートを選択していた頃、今から1年前の春の一週間ほどの話をする。
毎朝9時40分、科学館の裏口から入り、市民広場を通り、同じ角度でその下を通り抜ける。
落下の速度が少し速まっている気がする日もある。
もちろん展示物は動かないし、衝突の予定などない。それでも胸の奥で、あり得ない予感だけが微かに熱を帯び、ネクタイの結び目が緩んでないか、つまむ指先にまで伝わってくる。
誰も見上げない天井の隕石は、私にだけ向かって黙って軌道を修正している――そんな妄想を、正面玄関から脱出する直前まで手放せない。
正面玄関の空間は5階までの吹き抜けで、見上げた視界の中央に球体がある。
直径23メートルの巨大な構造物の下を毎日通り過ぎている。
さて、その日も同じ時刻に通路へ入った。
市民広場から科学館正面玄関に続く通路の途中、視線を上げる。いつも通り、球体は同じ位置にある。通路から見るのは好きな角度ではない。もっと真上から落ちてくる気配を暗示して、自分を騙しながら見るのが好きだ。
通路の入口に、白い紙が一枚貼られていた。
「本日の上映は終了しました」と。
午前の光の中では、その文面は妙に軽く、印刷の黒が浮いて見える。終了という言葉だけが、まだ始まっていない時間から切り離されて、そこに置かれているようだった。言い過ぎたな。
歩幅を緩める。止まるほどではないが、いつもの速度では通り過ぎない程度に。
なるほど、その白い紙はプラネタリウムの上映予定の紙の上に貼られている。
意味はわかったが、さて疑問が残る。
午前中に上映が終わるはずはない。考えるべきは昨日の終了のことか。しかし、私がこんな紙を見たのは初めてのことだ。いつもは毎朝はがされているのだろう。
そこで私は閃いた、というジェスチャーを想像した。
点検のため、今日は終日上映がないのではないか。そのため、毎日の「本日上映終了」の紙で代用している、という想像だ。
私は腑に落ちる結論を得て上映予定の前を通り過ぎる。
「しかしすると、これは。」またも私の想像は広がる。
隕石の点検ということになる。
落ちてこないように吊るし直す。
位置を戻す。
定期点検がなければ落ちてくることもあるということかもしれない。
隕石の点検工である石野点検氏(、想像の中の私のことだ。)は隕石の上に立った。立つところを想像した。
まず、館長に挨拶する。
いいや、違うな。
挨拶させてくれ、と市立科学館事務所受付に行くと、館長の代理にあたります、と言って老成した管財課課長神崎氏が出てくる。
それと若い人もついてくる。
「新人にも同行させますが、お願いします」
「新人の高橋です!」ぺこりと頭を下げる高橋氏。
チンっとエレベーターが開く。隕石上部まで直通の、業務用っぽい無機質な扉がぎこちなく開く。
ここから見る天井は低い。
「隕石の展示が壊れたら、どうやって修理するんですか」高橋が聞く。
私の想像の中では三人は宇宙服を着ていた。
白くてブカブカ、オーバーサイズのつなぎと大きなヘルメット。
私は彼らを見分けられるようにヘルメットに色分けを施した。
石野、神崎、高橋で、赤、青、緑だ。
想像の中で見失うはずがないのだけど、とにかく私はそうした。
「どうやって」石野がフン、と鼻をならす音が二人の無線機に伝わる。「状態によるよ。離れていっている状態ではないよな、それだと厄介だ。」
「本当ですか? 落ちてくるよりましに思えますけど」
「これだから素人はダメだな。やってみろ、どうやって直す気だ。」
「そりゃ、浮かんでいるバルーンみたいに、おもりを増やせばいいじゃないですか」
石野が勝ち誇ったような顔をして否定する。
「直径23メートルの石が上昇しているんだぞ、同じ大きさの石を用意したって動く方向は変わらない」
「じゃあどうするんですか。」
「ロケットと同じだ。ブースターだけでいい。あれを上側からほんの少し噴射する」
高橋は続きを待った。落ちてくるときより厄介、というには、単純なように思われるからだ。「それだけですか」何も説明が続かないので聞いた。
「それだけだ。コンマミリ秒だけな。短いぞ。ちょっとでも長くちゃだめだ。ちょうどぴったり釣り合うように、緻密な計算を必要とする」
神崎はその答えを知っていたが、話を打ち切るために納得したふりをした。「なるほど、勉強になりましたなあ」
「ああ、そうとも。さあ精密計測が終わったようだ。やはり近づいているな、前回からプラス6ptだ」
精密計測機のディテールはうまく想像できない。測量士が路上で構えている機械くらいの大きさで、重力とか落下速度を計測してくれると良いだろう。
天体望遠鏡とフォルムが似ているのも何か縁を感じられる。
「プラス、というのが、近づいているという意味だ。6ptは少し多いな」石野は計測器を覗き込みながら独り言を言った。「一回りして原因も探そう」
そうして、石野は隕石の上に立った。
ここからみる天井は低い。
反対に地面を覗き込みたくはない。地上は遠く離れている。
もちろん本当の地上と宇宙の関係には遠く及ばないが小さな人間の体にとってほとんど差はない。
石野は隕石の上をぐるっと一回り歩き回って天井と隕石を繋いでいる一本の太い鋼鉄に計器を当てている。
神崎は石野の方を見ながら高橋に問いかけた。「次回は6ヶ月後です。次は一人で対応出来ますね」
高橋は、出来るとも出来ないとも言わずにただ否定しないで、自信なさげに曖昧に答えただろう。
私はそのまま、球体の下に入る。
見上げる。
落下の気配は、変わっていない。




