第9話 イノシシ大相撲
誰だ。
そう思った瞬間だった。
森の奥、
水辺の影が──動いた。
ざり、と湿った地面を踏みしめる音。
低い枝が揺れ、
苔むした岩の向こうから、
黒い塊がせり出してくる。
最初は、岩かと思った。
……違う。
生き物だ。
巨大な影が、ゆっくりと姿を現す。
「……でか」
思わず呟いた。
現れたのは、イノシシ。
いや、イノシシ“みたいな”何か。
肩の高さだけでオレより高い。
黒褐色の体毛の下に、岩みたいな筋肉。
横に張り出した白い牙は、人の腕ぐらいの太さがある。
普通に考えて、勝てるサイズじゃない。
こっちにきたりしないよな?......ねえ、ミラさん?
ミラが息を飲む。
「あれは……」
そこで、言葉が止まった。
あれは?......て何だよ、ミラ!
あのイノシシ、様子がおかしいよ。
鼻息荒いし、こっち来そうなんだが?
次の瞬間。
スマホが、甲高い電子音を鳴らした。
《ヴァナヘイム領域:対象を捕捉》
《未登録存在:確認》
《適応プログラム起動》
《トレーニングモード:強制開始》
「は?」
オレは間抜けな声を出した。
いや待て。
トレーニングモード?
誰が?
オレ?
まさかあのイノシシのこと?
「いやいやいや……聞いてない!」
《目的:生存および適応》
《難易度:対象に応じて自動調整》
オレは思わずスマホに突っ込む。
「いやそこは反応しないんかい!」
目の前のイノシシが低く唸った。
ゴォ……と、地鳴りみたいな呼吸音。
そして──
バキバキ、と嫌な音が響いた。
イノシシの体が持ち上がる。
四本脚だった巨体が直立し、
前脚が歪み、“腕”の形に変わる。
牙は横に展開し、刃物みたいな角度で固定された。
……変形した。
完全に。
いや、ファンタジーじゃん。
ここにきて、
めちゃくちゃファンタジーになってんじゃん!
「は?」
オレは一歩、後ずさる。
ミラが叫んだ。
「翔くん、避けて!」
いや、ミラ、言うの遅いって!
地面を砕きながら、イノシシが突進してきた。
速い。
デカいくせに、意味が分からない速さ。
「うわあああああっ!?」
反射的に横へ跳ぶ。
さっきまで立っていた場所の岩盤が粉砕された。
破片が雨みたいに降る。
心臓が跳ね上がる。
これ──
完全に訓練のレベルじゃない。
スマホがまた震えた。
《ヴァナヘイム シンクロ率:上昇》
18% → 21%
「今それどころじゃない!」
叫びながら立ち上がる。
森の鼓動。
水の気配。
ヴァナヘイムのざわめき。
そしてアプリの通知。
《環境バフ》
《ヴァナヘイム共鳴:中》
「共鳴、中って......それバフになってなくない?」
《相手の先制攻撃によるデバフ》
《状態異常:体勢崩し》
回避率 -20%
命中補正 -15%
《状態異常:呼吸阻害》
スタミナ回復速度 -30%
《状態異常:軽度恐怖》
反応速度 -10%
いや、バフとデバフのバランス考えろ!
恐怖は軽度って、誰が決めた!?
《適応中》
《デバフは一時的です》
「じゃなきゃ、困るわ!」
仕方なく、オレは拳を握った。
「北欧の自然ヴァナヘイム......
歓迎の仕方、随分、乱暴じゃない?」
イノシシが再び構え、
赤い瞳が上からオレを捉えた。
いや、イノシシが構えるってなんだよ!?
森の音が完全に止んだ。
「見せてみろ。自然に選ばれし者よ」
しゃっ、喋った!
イノシシが喋った!
「神域に入る資格を測る」
地面に爪が食い込む。
一瞬の静寂。
そして──突進。
「だから速いって!」
体をくねらせて、かろうじて避けた。
のに、イノシシのぶっとい腕が飛んできた。
オレの脇腹にぶっ刺さる。
「グフッ!」
スーパーボールみたいに、オレの体が地面で跳ねた。
効いた。
息が吸えん。
脇腹折れた、絶対。
──でも。
自然と緑のオーラがオレを包み込む。
背後で木が軋み、水面が波打つ気配が伝わってくる。
ワイルドブラッドの本領。
《ワイルドブラッド反応値:上昇》
《ステータス上昇》
攻撃↑
防御↑
敏捷↑
イノシシは振り向き、すぐに構える。
また来る。
......わかった。
そっちがその気ならやってやるよ
「翔くん、オーラがさらに大きく......」
《ワイルドブラッド反応値:更に上昇》
《ステータス更に上昇》
攻撃↑
防御↑
敏捷↑
イノシシの赤い瞳が光る。
「ほう。それがワイルドブラッドの力、か」
イノシシの赤い瞳が細くなった。
「なるほど……フレイヤ様が目を留めた理由が、分かる」
……フレイヤ?
「フレイヤって、誰......?」
イノシシは答えず、再び地面を蹴った。
「え、ちょ、待て。会話っ、出来ねえのか、あんた!?」
今度は正面。
真正面から。
避ける余裕は、ない。
「クソ……!」
受け止めてやらあ!
衝撃。
──ズドン!
全身が押し潰される感覚。
足が地面を削りながら後退する。
「ぐっ、とんでもねえ力だ......」
でも──踏ん張れた。
「なんで?」
背中にオレの体を支える圧を感じる。
ヴァナヘイムが、オレの背中を押してる。
イノシシが呟いた。
「はっけよい。だろう?」
これは──
相撲か!




