第34話 振り出しの朝
夜。
屋敷は、眠っていた。
廊下のランプだけが淡く灯り、石壁に揺れる影を落としている。
「……」
目が覚めた。
理由は分からない。
夢を見たわけでもない。
物音がしたわけでもない。
でも──
体の奥が、警告していた。
喉が乾いていることに気付く。
「……トイレ」
小さく呟き、ベッドから降りた。
隣でミラは眠っていた。
その向こうには、いびきをかくエリク、そして静かに背を向けて眠るリンネア。
ミラの安心しきった顔。
さっきまで泣いてたのに。
「……」
少しだけ安心する。
部屋の扉を開けた。
廊下は冷えていた。
昼間あんなに暖かかったのに、夜は別物だった。
石造りの建物は、夜になると呼吸を止める。
裸足の足裏に、床の冷たさが伝わる。
トイレって、どこだっけ?
曲がり角に差しかかった時だった。
声が聞こえた。
男の声。
「——危険だ」
もう一人。
「分かっておる」
……議長の声だ。
オレは動かなかった。
聞くつもりはなかった。
でも体が動かなかった。
「ワイルドブラッドを屋敷に置くのは賛成できん」
「だが必要だ」
必要?
「奴は災厄を呼ぶ。既に兆候は出ている」
「だからこそだ」
沈黙の中、衣擦れの音。
「分かっておろう、ヴァルドレン議長。あれは自然そのものだ。敵にも味方にもなる」
議長が答える。
「違う」
短い。
「敵にも味方にもならぬ」
静かに言った。
「ワイルドブラッドは世界だ」
空気が変わる。
「世界が動けば神も死霊も止められぬ。ならば我らが手綱を握る」
「制御できると思っているのか」
「できぬ」
即答だった。
「遠ざければ制御不能になる。近くに置けば観測できる」
観測……。
オレは、目を細めた。
「……つまり監視か」
「違う」
議長の声が少しだけ低くなる。
「共存だ」
一瞬の沈黙の後、一際低い男の声。
「あれがいる限り、この屋敷も安全でなくなる」
オレの心臓が一回だけ強く鳴った。
「神も、死霊も——必ずここに辿り着く」
「……」
「我々ヴォルヴァ会が世界の均衡を壊す。それは断じて許されぬ」
静寂。
——誰も、息をしていなかった。
……いや。
息をしていないのは、オレだけだったのかもしれない。
もう聞く必要はなかった。
理由も。答えも。
全部、分かった。
オレは、音を立てずに来た道を戻った。
ミラは眠っている。
「……」
少しだけ考えた。
ほんの数秒。
でも答えは出てた。
「……安全圏、ね」
小さく呟く。
笑った。
音は出なかった。
翌朝。
窓の外は霧。
ミラはまだ寝ていた。
寝癖。
口半開き。
「……」
起こさない。
オレは静かに立ち上がる。
荷物を持つ。
カバンの中のドワーフの置物がぶつかり音を立てた。
……重い。
ドアに手をかける。
「翔くん?……どこ行くの?」
バレた……。
オレは頭を下げてため息を吐いた。
「ふう……ミラ。おはよう」
後ろから聞こえるミラの声。
ちょっと怒ってた。
「ねえ。どこへ行くのって聞いてるの」
オレは頭を掻きながら振り返った。
エリクとリンネアが静かに目を開けた。
「……オレがいると、この場所も危険になる。これ以上、みんなに迷惑をかけられない」
ミラは寝癖のついた頭を掻き上げた。
瞳が揺れていた。
「無理。……翔くん言ったじゃん──」
頭を掻くオレに歩み寄る。
「見ているだけの終わりより、抗った先の未来を見たいって!私も同じ!そう決めたの!だから私も行く!いいよね、パパ!ママ!」
エリクとリンネアは何も言わなかった。
「ミラ、ごめん。ダメだ。この国にオレは一人で来た。だから一人で──」
ミラはオレの言葉を遮った。
「嫌だって言ってんの!ねえ、パパなんとか言ってよ!ママ!」
エリクは何も言わずミラの肩を抱いた。
これ以上話しても無駄。
そう思った。
オレはミラに背を向けた。
ミラの視線が背中に刺さる。
「ごめん、ミラ。ここにいればお前は安全。オレも、もう決めたんだ」
ドアに手をかけた。
「エリクさん。リンネアさん。本当にありがとうございました。そして、ご迷惑をおかけしました」
オレは一人屋敷の外に出た。
外の空気は冷たかった。
でも嫌じゃない。
むしろ落ち着く。
自然の匂いがした。
草。
土。
水。
「……やっぱ、こっちが“自然”だな」
背後で声がした、気がした。
──翔くん。
でも振り返らなかった。
ミラがどんな顔してるのか、想像出来る。
霧の向こう。世界はまだ静かだった。
オレは駅に向かって歩いた。
改札を抜ける瞬間、視線を感じて振り返った。
黒いスーツの男。
「ヴォルヴァ会の人……」
その男は、静かにオレに頭を下げた。
小一時間電車に揺られ、戻ってきたストックホルム中央駅。
人は多い。
でも静か。
いつものストックホルムがオレを出迎えた。
「……さて、どうすっかな」
振り出しに戻ったあてのない旅行。
一瞬空を見上げて、視線を落としたその時──
目の前に黒い人影が立っていた。
駅を行き交う人々の中。
不自然なほど動かない人影。
「……オリビア」
街の音が遠くなった。
オレは無意識に拳を握った。
「……お前」
オレが呟くと、オリビアの目が、わずかに揺れた。




