第32話 通称ヴォルヴァ会
明け方だった。
音が、先に来た。
遠くで鳴るサイレン。
夢の続きみたいに遠くて、
現実みたいに近い。
オレは目を開けた。
ホテルの部屋は、
息をしてないみたいに静かだった。
「……ん」
喉が乾いていた。
嫌な予感とか、
胸騒ぎとか、
そういう曖昧な言葉じゃ足りない。
もっと原始的な何か。
皮膚の裏が、ざわついている。
自然が騒ぐ時の感覚。
──起きろ。
そう言われた気がした。
「……翔くん?」
隣のベッドで、
ミラが寝ぼけた声を出した。
「どうしたの……まだ暗いよ……」
答えなかった。
足が、勝手に窓へ向かっていた。
カーテンを掴む。
一瞬、ためらった。
理由は分かってた。
開けたら、何かが終わる気がしたからだ。
それでも──
引いた。
シャッ。
夜明け前の街が、現れた。
灰色の空。
眠っている街。
動き始めたばかりの道路。
そして。
最初に見えたのは、煙だった。
真っ直ぐ上に伸びてる。
視線を下げる。
見覚えがあった。
煙の根元。
そこに──
炎。
「……ミラ」
自分の声じゃないみたいだった。
オレは叫んだ。
「ミラ!」
ミラが起き上がる。
眠そうな目で窓を見る。
次の瞬間。
その瞳が、開いた。
「……え」
静かな街の一角だけが。
燃えてた。
屋根が崩れる。
火の粉が舞う。
赤い光が、
まだ朝になりきってない空を染めていく。
「……あれ」
ミラの声が、
喉の奥で止まった。
指が震えてる。
窓の向こうを指している。
「……私の家」
ミラは、動かなかった。
窓の前で、立ったまま。
瞬きもしない。
炎の赤だけが、
その瞳に揺れている。
「……行くぞ」
声をかけた。
でも返事はない。
「ミラ」
肩に手を置いた。
冷たい。
びくり、と体が震えた。
ようやく、
ミラは息を吸った。
「……うん」
オレ達は走った。
エレベーターを待たなかった。
階段を駆け下りる。
足音だけが響く。
ホテルの廊下は静かで、
外の世界だけが騒がしかった。
回転扉を抜けた瞬間、
空気が変わった。
焦げた木の匂い。
遠くで誰かが叫んでる。
サイレンの音が、さっきより近い。
信号を無視して、
横断歩道を抜け、石畳を蹴った。
近づくほど分かる。
炎は、現実だった。
燃えている音がやけに大きく聞こえた。
「……」
ミラが止まった。
家まで、あと十歩。
それ以上、進めなかった。
消防隊が規制線を張っている。
「……」
ミラは何も言わなかった。
ただ、立っていた。
燃えている家を、見ていた。
ほんの一瞬、ミラの口から言葉が漏れた。
「……やだ」
オレの首筋がぞわりと逆立つ。
誰の仕業か。
わからない。
でも──
胸の奥で、何かが切れた。
「殺す……」
地面が、ミシッと鳴った。
──躊躇いなく、まじで殺る。
視界が一瞬緑に揺れ、頭が空白になる。
オレは炎を背に、駆け出した。
体が勝手に……
一歩踏み出した瞬間だった。
オレの腕を大きな手が掴んだ。
力……強い。
「……エリクさん」
ミラの父エリクは、大きなため息を吐いた。
「ふぅ……間に合ったぁ」
間に合った?
「翔くん、怒りは後だ。着いてくるんだ」
エリクの声を聞いてミラが振り返った。
「パパ!」
エリクの胸に飛び込むミラ。
「ごめん……パパ。ごめんなさい」
ミラ。
それはお前のセリフじゃ……。
エリクは、優しくミラの肩を抱いた。
「大丈夫だ。それよりも、行こう」
エリクは、崩れる家に背を向け、歩き出した。
どこへ?
ストックホルム中央駅。
電車を待った。
行き先はわからない。
ようやくミラが口を開いた。
「パパ。ママは?」
エリクはニッコリ笑った。
「先に行ってる。心配ない」
「どこへ行くの?」
エリクは立ち上がった。
「電車が来た。中で話そう」
電車は街を離れ、郊外へ向かった。
窓の景色が、草原に変わる。
「エリクさん……」
オレが話そうとすると、エリクが笑った。
「いやあ、見事に燃えてたなぁ!やられたぁ!ガハハハハ!」
オレとミラは顔を見合わせた。
「今から、屋敷に行く。心配ないさ」
「屋敷?」
それ以上、エリクは何も言わなかった。
電車は、減速していた。
窓の外はもう街じゃなかった。
建物は消え、代わりに草原が広がっている。
遠くに低い森。
電柱すら、まばら。
アナウンスが流れた。
次は── Bålsta。
ブレーキの音が長く伸びて、電車が止まる。
ドアが開いた。
冷たい空気が流れ込んできた。
「……降りようか」
エリクが言った。
ホームに出る。
人影は、ほとんどなかった。
看板には駅名が書いてある。
けど、読めない。
というか読む気が起きなかった。
ここがどこかなんて、どうでもよかった。
ミラが一歩前に出る。
「……静かだね」
「そうだな」
駅前の砂利道の向こう。
黒い車が一台、止まっていた。
ずっと前から待っていたみたいに。
運転席のドアが開く。
男が降りてきた。
背が高い。
無表情。
黒いコート。
こっちを見ている。
エリクが軽く手を上げた。
「待たせたな」
オレとミラは顔を見合わせた。
「……知り合い?」
小声で聞く。
エリクは笑った。
「同僚だ」
エンジンが静かに唸る。
ドアが閉まる。
車が動き出す。
窓の外の景色が流れる。
草原。
林。
また草原。
建物が一つもない。
どれぐらい走ったのか分からない。
時間の感覚が薄れていく。
その時。
ミラが、息を呑んだ。
「……翔くん」
視線の先を見る。
丘の向こう。
──あった。
そこにあった屋敷。
「……は?」
思わず声が漏れた。
デカい。
いや、デカいってレベルじゃない。
「パパ、ここは?」
「ウーデスヴェクターレ評議会の屋敷さ」
ウーデスヴェクターレ?
「パパそれって……」
「ああ。通称ヴォルヴァ会、オレ達の仲間さ」
ヴォルヴァ会……。
北欧には、ヴォルヴァの組織があるのか?
それにここ……。
屋敷どころか城じゃねーか……。
白い外壁。
黒い屋根。
左右に広がる翼棟。
中央塔。
門だけで家一軒分ある。
ミラがオレの横で呟いた。
「スコークロステル城。ここが、ヴォルヴァ会の屋敷……?」
田舎すぎる景色の中で、そこだけ別世界だった。
車が門の前で止まる。
門が──
ひとりでに開いた。
軋み音すらしない。
静かに。
ゆっくり。
オレ達を歓迎するみたいに。
エリクが言った。
「着いたぞ」
オレは、城を見上げた。
「ヴォルヴァ会。ヴォルヴァの組織……か」
スウェーデンの歴史を背負う建造物。
少なくとも──
ミラの身は、もう安全だと思った。




