第21話 愛と欲望の神フレイヤ
オレとミラは、その場から動けずにいた。
目の前にいるのは、
間違いなく、さっきまでパン屋にいた女性だ。
ミラが唇を震わせながら口を開いた。
「フレイヤ……様?」
エプロン。
少し小麦粉の跡が残った袖。
素朴で、どこにでもいそうな、町の人。
見た目は、変わってない。
服も、髪も、表情も。
なのに。
“同じ”だと、思えない。
パン屋の店主として見ていた時と、
今、目の前に立っているこの人の間に、
説明できないズレがある。
これが、フレイヤ?
「あなた達が、私に何を問いに来たか、言う必要はないわ」
戸惑うオレ達を見つめるフレイヤは、フッと目を閉じた。
パン屋の店主。
その足元に、ふわりと白いオーラが立ち上った。
服が脱げる。いや──
布が、ゆっくりと空気に溶けていく。
エプロンが消え、
素朴なワンピースが消え、
その代わりに、光に包まれた衣が現れる。
肩には鳥の羽根を集めて出来たようなマント。
胸元には金の装飾で縁取られた、緑の衣。
その下に覗く長い白い羽衣が、一瞬ふわりと風に靡いた。
「あなた達の感情は、ここに足を踏み入れた瞬間から、この大地に全部流れ込んでいるもの」
「オレ達が知りたいことを、知ってる?」
フレイヤはオレの頬に、そっと手を当てた。
油断。いや。
殺気も、思惑もないフレイヤの仕草に、
オレは一切反応出来なかった。
「ワイルドブラッド。神も羨む唯一無二。黄泉も妬む天涯孤独……あなたの噂は、神の島から流れてきていたわ」
フレイヤは視線をミラに移した。
「アリス・エル・ヴァンガード。彼女のことを聞きに来た。違う?」
ミラは静かに頷いた。
「はい。同じヴォルヴァとして……三年前、あなたが力を貸したヴォルヴァ、アリスがなぜ死んだのか、私は知りたい」
フレイヤは、オレの頬に触れていた手をすっと引き、背を向けた。
「あなたの名は?」
「ミラ・アスクリンド。私の守神は──」
フレイヤはミラの言葉を遮った。
「その気配……ヴァルハラの戦乙女、ヴァルキリーね
その声にはなぜか、懐かしさと、わずかな距離が混じっていた。
「あ、はい」
フレイヤはオレに向き直った。
「ワイルドブラッド、あなたは?」
「オレの名前は翔。アリス……なんとなくオレと似てる気がして、どうにも他人事とは思えなくてね」
「そう。わかったわ」
フレイヤはそう言うと、ゆっくりと息を吸った。
草原が、静まり返る。
風も、音も、消えた。
「アリス・エル・ヴァンガード。彼女を殺したのは、この私です」
「え!?」
オレとミラは顔を見合わせた。
フレイヤは右手を空に掲げて、言った。
「ここからは言葉が迷いになる。見せましょう」
そう言うと、パチンと指を鳴らした。
次の瞬間、オレ達の視界は、深い緑に満たされていた。
──森だ。
湿った土の匂い。
木漏れ日が、ゆっくりと揺れている。
ミラの声が、耳元で重なった。
──ここ……ナッカ自然保護区だね。
──ああ。
その中を、一頭の巨大なイノシシが歩いていた。
艶のある毛並み。
ただの獣じゃないと、一目でわかる存在感。
──ミラ、あのブタって?
──うん。翔くんと相撲をとった、ヒルディスティーニ様。
その背に、小さな女の子が乗っている。
まだ幼い。
髪を後ろで結び、楽しそうに揺られながら、
森の奥を見渡している。
あ……
オレは、息を飲んだ。
──アリスだ。
幼い頃の、アリス・エル・ヴァンガード。
オリビアと同じく、美しい銀色の長髪が揺れていた。
イノシシが足を止める。
少女は、軽やかに地面へ降りた。
「ありがとう、ヒルディスティーニ!」
そう言って、満面の笑みで手を振る。
「またねー!」
森の中へ、駆けていく小さな背中。
枝を跳ね、草を踏み、あっという間に見えなくなった。
その後ろ姿を見送ってから、
イノシシの背に、別の影が現れた。
──女神。
黄金と緑を纏った、美しい存在。
フレイヤだ。
「……あの子」
低く、落ち着いた声。
ヒルディスティーニが、静かに口を開いた。
「フレイヤ様。あの娘、あの歳で私の姿が見えるとは……自然と、すでに強く共鳴しています」
フレイヤは、しばらく黙って森を見つめていた。
「ええ……ヴォルヴァとしての才能が飛び抜けている」
そして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ヴァナヘイムと、ミッドガルドの均衡……」
「彼女になら、託せるかもしれない」
その声には、
期待と──ほんのわずかな迷いが混じっていた。
「しかし……」
映像が、ふっと途切れる。
フレイヤが、肩を揺らして大きく息を吐いた。
「ふう……ミッドガルドに馴染み過ぎたわ。ワイルドブラッド。いえ、翔、あなたの力を貸してくれない?」
「え? どういうことだ?」
フレイヤは、オレを真っ直ぐ見つめて答えた。
「さっき使おうとした神技。その力を貸して」
意外だった。
フィールドに歪みを生むワールドエラー。
目の前の神は、オレにそれを使えと言った。
「いいのか?」
フレイヤはニコリと笑った。
「大丈夫よ。すぐにヴァナヘイムを同期させるわ」
フレイヤが言った意味はわからなかった。
ミラの方を見る。
ミラは、こくんと静かに頷いた。
「わかった」
後悔すんなよ。
オレは、地面に両手をついた。
バルト海から吹き込むゴットランドの冷えた空気と違い、
大地からは温もりを感じた。
大地の鼓動が、オレの中で大きく脈打つ。
いくぜ……
《神技ワールドエラー使用》
《自然によるフィールド侵食開始》
手元の草が、ゾワリと動く。
見渡す限り草原だった景色が、深い森に描き換えられていく。
大木とツタが、オレ達を取り囲んでいく。
地面が大きく揺れる。
視界の端で、目を丸くするフレイヤの姿が見えた。
フレイヤは、唇を震わせ、小さく呟いた。
「これが……ワイルドブラッドの力……」
《ワールドエラー使用によりフィールドに歪みを確認》
《ワールドエラー使用により複数世界に干渉》
《世界干渉が危険推移に到達します》
オレは、叫んだ。
「フレイヤ!」
フレイヤは、目を閉じた。
「ありがとう」
フレイヤはそう言うと、
オレが創り出した“自然”に溶け込むように、姿を消した。
《ヴァナヘイムが歪みに干渉》
《ワールドエラー干渉:縮小》
《ワールドエラー、ヴァナヘイムと同期開始》
《同期率上昇》
大地の揺れが、少しずつ小さくなっていく。
「なんだ!?」
ミラが拳を握った。
「翔くんのワールドエラーが生み出した歪みを、ヴァナヘイムが侵食している!?」
《同期完了》
《歪みは安定しています》
オレは地面から手を離した。
オレが創り出したフィールドは、静かにその場で静止している。
「見せましょう。あなた達が知るべき過去を」
フィールドに、フレイヤの優しい声が響いた。
オレとミラは、肩を並べ、静かにその場に立った。




