1.規約違反
この国の中央には、形容できないほどの巨大樹、通称【中核】がある。
誰が、何のために、いつ植えたのかも分かっていない。
そんな巨大樹のメンテナンスをするのがこの俺、カイ・ベルグの仕事だ。
「平和だなぁ……」
独り言のように呟くが、実際この国【聖樹王国ルミナス】は、ここ300年間で一度も戦争が起きていない。
今日の夜ご飯は何にしようか。久しぶりに外食でもしてしまおうか?あるいは、最近寒くなってきたので鍋も良いかもしれない。
仕事中にそんなことを思っていた矢先、ふっ、と音が消える。なんの前触れもなく、突然に。
つい先程まで世間話をしていたはずの同僚であるリンカが、砂時計からこぼれる砂のように足元から崩れ落ちて消えた。
状況を理解するより先に、体が動く。「リナ!」と叫ぼうとするが、それは言葉にならずに虚空へと消えていく。
リナ──リナ・フローリス──は、俺の彼女の名だ。
声が出せず、音が聞こえない中で、俺の心臓だけが居場所を主張する。
──リナ。思考が追いつくより先に、彼女のいる医務室へと駆け出していた。
─────
どれだけ走っただろうか。平時であれば歩いても5分足らずでたどり着くはずの医務室は、今日に限って走っても走ってもたどり着かない感覚だった。
「っぐ……あ……」
焦っていたからか、中核のツタに足を奪われ、転ぶ。
そのツタに触れた瞬間、俺の網膜に真っ赤な文字列が投影され、喧騒感──『悲鳴』の混じった、かつての平和とは似ても似つかない不協和音──が戻ってきた。
激しい眩暈と同時に、そこにあるはずの医務室が血生臭いにおいと共に現れた。
「リナ!」
俺は医務室の扉を蹴破る。
その部屋の真ん中で立ち尽くすリナの右腕が、あの同僚と同じように音もなく砂に変わって崩れ落ちる。その欠けていく身体を見つめ、陶酔したように笑う男と目が合う。
リナの腕だったはずの砂が床に虚しく散らばる中、俺は怒りで視界を真っ赤に染めながら、腰の整備用ナイフへと手を伸ばした。
「……無礼だな。今の君の行為は《運営》であるこのゼノス様に対する重大な契約違反だ」
男の冷徹な声と共に、俺の右腕に焼けるような劇痛が走る。
俺が振り上げたナイフは、見えない壁に阻まれた挙句、因果を反転させた衝撃となって俺の右手の骨を粉々に砕いた。
「身の程を知れ。この世界の《規約》に、君のような平民が抗う余地などないのだよ」
男の嘲笑をよそに、俺は血まみれの左手で剥き出しになった【中核】の回路を、整備士の本能で掴み取った。
『警告。システムの不正アクセスを検知。……認証完了。管理者として現行規約の《削除》を実行します』
脳内に溢れる膨大なログが青く反転した瞬間、俺の右腕は光の粒子となって再構築され、ゼノスが浮かべていた血の契約書を無慈悲に握りつぶした。
「な……契約が、握りつぶされただと!?」
狼狽するゼノスの胸ぐらを掴み、俺は網膜に走る青い文字列を操作し、奴の存在そのものをバグとして定義し直した。
男が何かを叫ぼうとしたが、言葉になる前に全身が崩れ、塵となって空気中に溶けていった。
俺は消えた男には目もくれず、膝をついたままのリナへと駆け寄り、その肩を支える。
彼女の腕は元通りに修復されていたが、俺の掌に伝わるその体温は、今しがた起きたことが幻ではないことを告げていた。
「あれ?」
途端、世界が反転する。頭が重い。
「カイ!?目から血が!!」
視界が真っ赤に染まり、リナの悲鳴さえも遠ざかっていく。最後に見たのは、自分の手から床にこぼれ落ちる、ドロリとした鉄臭い液体だった。
「……あ」
力が抜けた俺の耳に、リナの声ではない、頭の芯を揺さぶるような低い重低音が響いた。
『ログイン。……管理者権限の使用により、肉体へのフィードバックを開始します』
無機質なその声を最後に、俺の意識は深く暗い、巨大な樹の根の底へと沈んでいった。
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