その異世界音楽のBGMは運命
「この関係を終わりにする」
夜会の主役、侯爵家の嫡男バッフェスは、小規模オーケストラの調べをバックに、婚約者であり同格の侯爵家の令嬢ユージナに告げた。
大広間の床にモザイク状に敷き詰められたウッドタイルは来賓たちの足元を彩り、フレスコ画が施された天井を支える柱は、柱と柱の間に大きな窓を嵌め込まれていながらもなお、無数の燭台を携え、夜の暗さをものともせず大広間を明るく照らす蝋燭を美しくきらめかせている。
この夜会は、バッフェスの家が催しており、侯爵以下、双方の侯爵家に連なる貴族たちが招待状を受け取って参加していたが、そのなかに、浮いた存在がいた。
バッフェスの隣にいる男爵令嬢アエリスである。
夜会に招かれているのは侯爵家から子爵家までであり、子爵家に従属する男爵家や騎士たちはいない。
だが男爵家に生まれたはずのアエリスはそこにいる。
婚約関係にあるバッフェスとユージナの「関係の終了」であろう言葉が、追加で招かれたアエリスの両親も含む夜会の招待客の前で告げられた。
アエリスの脳内BGMは、ベートーヴェンの交響曲第五番『運命』第一楽章の出だしをくっつけ、「指揮は〇〇でお届けいたします」と雑なナレーションが入った。
これはアエリスの謎能力である。
アエリスは頭の中にそういうなにか異世界の音楽が勝手に流れる仕様で育ってきた。そしてアエリスはバッフェスと出会ったときにも自分とバッフェスのふたりを結びつける音楽を聴いた。アエリスの頭の中で流れていただけなので、バッフェスには聞こえていないが、アエリスは確かに聞いたのである。
それは、モーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』ケルビーノのアリア「恋とはどんなものかしら」であった。
だが残念なことに、アエリスの頭の中で流れる異世界の楽曲は人生のBGMであり、その場で流れるだけなので、『フィガロの結婚』がどのような物語なのかをアエリスが全編通しで見たり聞いたりしたことはないし、その「ケルビーノのアリア」の「ケルビーノ」がなにかも知らない。ケルビーノがどのような結末を迎えるのかということも知らない。
そしてとりあえず今、アエリスのなかで、アエリスの隣にいるバッフェスから関係の終わりを告げられたユージナを前にしたアエリスの脳内BGMには、『運命』の第一楽章が選ばれたのである。
ユージナはバッフェスを見つめ、それから優雅に頭を下げた。
「あなたが選んだ運命を尊重いたします」
やっっったわー!!
アエリスのBGMは勝利の歓喜に変わり、第二楽章に突入した。
輝くようなエフェクトを背景に、爵位を継承して侯爵となったバッフェスが美しく着飾った侯爵夫人アエリスに手を差し伸べるシーンがゆったりとした第二楽章と共にアエリスの将来を祝福する。
侯爵家の大広間を彩る天井のフレスコ画から、神話の神々や天使たちが抜け出してきてアエリスに喜びを伝える世界で、ひとり寂しく独身のまま行かず後家となって着飾ることもできずに影を背負って夜会に参加するユージナに、慈悲の手を差し伸べるアエリス。
ユージナとバッフェスの婚約を終了させるサインのために侯爵家の侍従たちが重々しく契約書とサイン用の机を運んできて、アエリスの脳内BGMは第三楽章に突入した。
両侯爵、つまりユージナとバッフェスの父親たちが婚約の終了を書き連ねた契約書にサインし、続いてユージナとバッフェスが、それぞれのサインを契約に書き込む。
男爵家の生まれである。
たったそれだけの理由で侯爵家のような上流の貴族との交流が持てないという現実は、アエリスには屈辱だった。
当然だが、アエリスには屈辱であったとしても、そもそも男爵家はアエリスの家だけではないし、侯爵と男爵の間には伯爵と子爵という爵位があるわけで、この夜会に招かれていない家の数々にも令嬢たちはいるのである。そういう令嬢たち、特に男爵家の令嬢たちはアエリスと同じ立場にあるが、アエリスにとって彼女たちは「モブ」なのでどうでもよいのだ。
バッフェスは国内有数の侯爵家の嫡男であり、国内屈指の美男子である。雑誌社認定で。
で、あるからして、バッフェスは異世界の音楽に祝福されるヒロインであるアエリスに跪いて愛を請うべきなのに、侯爵令嬢とはいえモブにすぎないユージナとの婚姻が決まっているという現実は、アエリスにとって試練だと思われた。
アエリスは、バッフェスとお近づきになろう作戦を展開した。
だがアエリスは異世界の音楽が脳内BGMに流れてくるだけの能力の持ち主であって、別にバッフェスとユージナのことを知っているわけではなく、シナリオのように未来を知っているわけではなかった。
つまりバッフェスに関する知識ゼロ、ユージナについても知識ゼロで、お友達になりましょうからの作戦だったというのにアエリスは、最初から自分は物語のヒロインであり、自分とバッフェスのあいだにいるユージナは自分がバッフェスと添い遂げるための障害と位置付けた。
BGMは第三楽章の終わりにきた。
「新しい契約書を」
バッフェスの父が声をあげ、アエリスは意識をBGMから現実に戻した。
アエリスの隣でバッフェスが美しい顔をほころばせている。
「あの、あの……もしかして……」
わかってるわ!
でもここで手放しで喜んだらユージナが可哀そうだもの!
アエリスはバッフェスに促されて前を見て、バッフェスの父と自分の父が契約書にサインしているのを見た。
ここでBGMは劇的な転換で第四楽章に突入した。
「アエリス、きみの番だよ。サインしてくれ」
にこやかに言われて、アエリスは真っ白な羽ペンを受け取り、震える手で、金色の粉を混ぜた夜色のインクで契約書に自分の名前を書き込む。
契約内容も読まずに。
男爵家に生まれて異世界の音楽に祝福され、地道な努力でバッフェスに近づいたアエリスの人生は報われたのである。
契約内容は読んでいないが。
(わたしが侯爵夫人になるのだわ!)
アエリスにとって、一場のドラマチックな、夢のような夜会であった。
しかし、これは現実なのだ。
とうとうアエリスは神様が自分に用意した運命をつかみ取ったのだ。
ユージナがバッフェスを見つめる。
「お疲れ様でございました」
バッフェスは切なげに頷く。
「今日で最後だ」
アエリスはバッフェスの腕に寄り添った。
慈悲深い、未来の侯爵夫人として。
「ユージナ様にもきっと運命の出会いがありますよ」
バッフェスはアエリスの言葉を無視する。
「これからも良い関係でいてほしい」
「そうですわね」
ユージナは疲れたように頷いた。
アエリスの脳内ユージナ用BGMがモーツァルトの『レクイエム』ラクリモサに変わる。
まるで、アエリスのなかで決定している暗黒の将来を象徴するかのように。
だがユージナの表情は、アエリスの期待とは違い将来を悲観するようなものではなかった。
(ん?)
アエリスの脳内BGMが一時停止した。
「バッフェス様のお気持ちとお優しさに祝福がありますように」
脳内BGMはレクイエムを早戻しして、マスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』間奏曲に変わる。
弦楽器の繊細な調べがほっそりとした、そう、ほっそりとした、ユージナの儚さに花を添える。
アエリスが隣のバッフェスを振り返ればバッフェスがユージナを見つめる目にも繊細な優しさが浮かんでいて、マーガレットの花びらがふたりの背景を彩ったようにすら錯覚した。
なにこれ。
アエリスはバッフェスとユージナのあいだに割り込んでみた。
脳内BGMはアエリスの「自分は華やかな音楽で祝福されるはずだ」という思惑を無視して、ビゼーの『カルメン』「闘牛士の歌」に変わった。
(この曲初めて聞いたけど、なんでユージナが儚げヒロイン風で私この強そうな曲なのかしら)
これではまるで、アエリスがユージナとの対決に臨む図である。
「アエリス」
バッフェスがアエリスの肩を抱き寄せた。
アエリスのなかで勝利の拍手が鳴り響く。
「バッフェス様!」
振り返り、アエリスはバッフェスの笑顔を見上げた。
出会い依頼久々の脳内BGM、モーツァルトの『フィガロの結婚』から「恋とはどんなものかしら」がかかった。
(これ! これよ! 私にピッタリのこの可愛らしい曲!)
ところでアエリスは異世界の曲は聞いているが、異世界の言葉がわからないので、歌の意味がわからないし、先に言ったとおり物語のあらすじも知らない。
そう、知らないのである。
このケルビーノがアルマヴィーヴァ伯爵の小姓で、伯爵夫人ら女性陣に言い寄る不埒な小僧であるということを。
そして言い寄られる伯爵夫人こと侯爵令息バッフェスは伯爵夫人の立ち位置に甘んじることなく、さながらフィガロたらんと、自分とユージナのためにこの夜会を開くことを提案した。
ユージナもこの夜会の準備に手を貸した。
両侯爵家の婚約解消のサインに、男爵家との契約の締結。
ここまでの流れがスムーズだったのは、バッフェスが父のアドバイスを受けながら、ユージナの協力を受けながら、万端の準備を整えたからであり、それを知らないアエリスの脳内BGM機能がアエリスの世界用に勝手に『運命』を奏でただけなのだ。
バッフェスがアエリスと出会ったのは二年前のことだった。
アエリスがバッフェスの前でハンカチを落とし、バッフェスが拾うまでずっと、バッフェスのジャケットの裾を掴んでハンカチとバッフェスを交互に見つめるという狂気の沙汰が、ふたりの出会いであった。
アエリスの脳内では『フィガロの結婚』の「恋とはどんなものかしら」がBGMで流れていたが、もしこのときアエリスの脳内BGM機能がバッフェスの心境をBGMとして奏でてくれていたら、オルフの『カルミナ・ブラーナ』の出だしである。
そしてその心境を言葉にするなら「変な女に捕まった、だがここでこの女を突き飛ばしたら侯爵家の息子がどこかの令嬢に暴力を振るったと言われてしまう、それは避けたい」だった。
端的に言って恐怖である。
年端も行かない子供ならばまだしも、同じ年頃の女子が、「あっ」という掛け声に合わせてハンカチを自分の足元に投げてきて、何事かとそのハンカチを眺めているあいだにその女子が近寄ってきたかと思ったら、あろうことかハンカチを拾って渡そうとするユージナを視線で「おまえじゃねえよ」とばかりに睨みつけて牽制し、バッフェスを掴んで、上目遣いで、足元のハンカチとバッフェスの顔を見て「おまえが拾え」と言外に訴えて来るのだ。
そのバッフェスの、二度目のアエリスとの遭遇は教会での出会いであった。
その二度目、アエリスの脳内BGMがアエリスのために用意したのはバッハの『主よ人の望みよ喜びよ』であった。だがここで「バッフェスの心境を」という注文であれば、脳内BGM機能はパガニーニのカプリース第24番である。
さらにユージナと一緒に侯爵家ふたつの名を背負って行う慈善バザーには、なぜかアエリスが自前の机まで用意して、バッフェスとユージナの机の隣に並べ、自作の下手くそ……もとい大変趣のある、恐らくは自信作なのであろう刺繍を施したハンカチやコースターを並べたこともあった。
アエリスの脳内BGMは「可愛らしい華やかな自分」であり、モーツァルトの『後宮からの誘拐』序曲で彩られていたが、バッフェスの心境BGMを要求していたとしたら、そのBGMはドヴォルザークの『新世界より』第四楽章である。なおユージナの心境はアエリスとの遭遇を重ねるごとに諦めに向いて行き、流れるBGMはバッフェスと同じドヴォルザーク『新世界より』でも楽章は第二楽章の「家路」であった。
バッフェスにとってアエリスはまさに、侯爵家や伯爵家の子女とは違う世界、日ごろ親しんできた世界とは別の「新世界」から来た女であった。別にアエリス自身が異世界から来たわけではないし、差別的な意味で使いたいとは思わないのだが「常識が違う新世界から来た女」である。バッフェスは、思い付きで侯爵家の馬小屋で馬を世話している下男に訊いた。
世の中ではアエリスのような女は普通なのか、と。
下男は自分が奉公する家の坊ちゃんから聞かされたアエリスの異常さにドン引きして否定した。
平民でも、そんなのは普通いない、と。
これまた「新世界より」の第四楽章が流れるシーンである。
バッフェスの家の使用人たちは休みのたびに知人たちに、誰もが「うちの坊ちゃん顔がいいから変な女に付きまとわれて」という、悩みとも自慢ともつかない話を拡散した。
さらにバッフェスは、アエリスが実家の男爵家を嫌い、華やかな舞踏会に憧れて母方の叔母である子爵夫人のもとに居候していることも調べた。
子爵家の令嬢エーリカは、エーリカの母の姉にあたる人の娘だという理由で男爵令嬢であることは承知の上でそれでも従姉のアエリスの面子を立てていたが、アエリスは世界のヒロインとして当然のことと受け止めていた。
エーリカの婚約者である伯爵家子息のライヴェルは、アエリスがエーリカとの歓談に必ず割り込んでくるという被害に遭っていた。可愛らしさを装ってイタズラな妖精風に登場する(と、自分では設定している)アエリスの自分用脳内BGMはシュトラウス兄弟の『ピッチカート・ポルカ』だったが、ライヴェルの心境BGMはムソルグスキー『禿山の一夜』の出だしだった。ライヴェルが忍耐力を総動員してエーリカの前で口に出さずに堪えた言葉は「来やがったなこのクソキモ令嬢」である。
バッフェスは、アエリスを育てた男爵家について調べ、小さな農村の領主で、その農村の村長夫妻のような位置付けの、気さくな夫婦であると知った。
男爵夫妻はなぜこんな狂気を孕んだ娘が生まれ育ったのかまったくわからないような朴訥とした人柄であることも知った。
バッフェスは顔がいいが、ユージナとバッフェスは別にお互い顔で婚約を決めたわけではなく、単に、ふたつの侯爵家が姻戚関係を結ぶと王宮において政治の天秤の釣り合いを取る中立派の力が強固になるという理由で婚約の契約が結ばれた関係であった。
幼いころから、この子が将来の伴侶だと聞かされていれば、どちらも性格はおっとりしているので、自然にお互い丁度良い距離感で育った。
そんなバッフェスが幼い頃に抱いた将来の夢は「田舎の農夫」であり、男爵夫妻はまさかのバッフェスの理想そのものであった。ユージナのほうはそんなバッフェスの「農家のオジサンごっこ」に付き合うのが常であったし、ふたりが慈善バザーに並べていた物もバッフェスとユージナが田舎の農家のオジサンたちと一緒に育てた農作物や、それぞれの侯爵家に連なる領地の家々から持ち寄られた特産品であった。
可哀そうだが、アエリスだけが華やかな脳内BGMと共に自作の刺繍を並べていたのである。
バッフェスは、気付いた。
ユージナをアエリスの敵意から守り、なおかつアエリスの従妹エーリカとその婚約者ライヴェルを自家の味方に付ける手段がひとつある。
さてここでユージナ。
バッフェスの前にアエリスがハンカチを投げ出したときのユージナの心境BGMが流れるとしたらチャイコフスキー『くるみ割り人形』の「金平糖の踊り」であった。
バッフェスの前に妙なご令嬢たちが登場することにはすでに慣れている。
だが親切心でハンカチを拾おうとしたのに睨まれたのは初めてだった。
それからもアエリスは来た。懲りることなく来た。
ユージナが見た限り、バッフェスはアエリスと会話をしていない。
ただ、アエリスが付きまとっているだけだ。
だがそのたびにユージナはアエリスに睨まれ、まるでバッフェスがアエリスと昵懇であるかのように憐憫の言葉を受ける。
それが続くこと二年、ユージナのメンタルはアエリスを視界に入れることすら拒んでいたが、バッフェスがその関係を終わらせる案を、両家に提案してきた。
両家はアエリスの奇行を終了させるための一案として、その提案を受け入れた。
バッフェスとユージナが最初に準備したのは契約書用の紙であった。
両家の顧問弁護士たちは契約書に必要な体裁と、その用紙やインクについて未来の侯爵夫妻に教え、ふたりは言われたとおりの様式を整えた。
本来ならばこの国のいわば慣習法として契約書の紙には両家の紋章が透かしで入るべきところ、ふたりが作戦用に準備した契約書は陽光に透かすと「dummy」を意味する言葉が浮き上がる。
そのダミーの契約書用紙に書いたダミーの契約書を持って、バッフェスと父はアエリスの両親を訪ねた。
この男爵領の特産品を侯爵家でも御用達として引き受ける。その代わり、貴家の令嬢の奇行に釘を刺す芝居に加担して欲しいという依頼のためであった。
アエリスの両親は、侯爵家の親子を前にして、下げた頭を上げられなかった。
爵位の差のせいではなく、娘の奇行で迷惑をかけていることへの申し訳なさと恥ずかしさと、そんな事態なのに侯爵家御用達として特産品を引き受けてくれるという申し出のためである。
もっとも男爵のほうも、特産品には自信があるので、そこについて「ろくな物がないのに申し訳ない」という気持ちは微塵もなかったし、バッフェスもユージナと一緒に旅行と称して男爵領を回って侯爵家で御用達にしたいものをきちんと選んで親たちを説得したという自信があった。
バッフェスとその父である侯爵はダミーの契約書に書いた侯爵家と男爵家の契約事項として正式な契約書に書き直させ、夜会当日に両家当主がサインするという約束を交わした。
こうしてバッフェスの奔走の末、まるで、仮面舞踏会のような夜会の幕は開いた。
すべての契約書にサインが成され、バッフェスはアエリスを振り返る。
アエリスは契約内容を読んでいない。
いくつもあった契約書のなかで、真実「契約書」として効力を持つのは、バッフェスの父とアエリスの父がサインした侯爵家と男爵家の取引契約、そして、アエリスの父とアエリスがサインしたものの二件だけである。
バッフェスはアエリスが己の人生を祝福する『運命』を脳内BGMで流していることも知らずに、ユージナを見つめた。
「お疲れ様でございました」
「これで終わるよ」
アエリスはユージナのBGMとして『運命』を聞いていたが、その実、『運命』はバッフェスの宣言と、契約書へのサインという一連の流れに添えられたアエリスの『運命』に相応しいBGMだったのである。
バッフェスがアエリスの目を見て微笑する。
アエリスも満足げに、バッフェスの目を見つめて笑顔を浮かべた。
「バッフェス様! 嬉しい!」
アエリスは心の中で「侯爵夫人になれるなんて!」と、付け加える。
「ありがとう、僕も夢のようだよ。二年も我慢したんだ」
「まあ!」
アエリスの脳内BGMがオーケストラでオペラを奏で始めた。
モーツァルト『フィガロの結婚』から「もう飛ぶまいぞこの蝶々」
アエリスにとっての救いは、歌詞の意味がわからないことである。
華麗なオーケストラに、耳に心地よい男性の歌声。
「ふふ」
アエリスがその華やかな音楽に明るい未来を思い描いて笑ったところで、バッフェスはアエリスの肩を軽く押した。
「これできみとの縁が切れる」
「えっ?」
バッフェスはアエリスの髪に飾られた、バッフェスの瞳と同じ色の花飾りをむしり取って捨てる。
「僕がきみと仲が良いだって? きみの交友関係は顔のいい男子の間を往復するだけじゃないかい? 子爵家のエーリカ嬢の婚約者ライヴェル殿にも付きまとったらしいじゃないか。それだけじゃない、伯爵家にも顔を出していたって?」
「え」
アエリスは花飾りの次に髪をまとめていたリボンを解かれバッフェスに棄てられた。
「この夜会で僕の髪に合わせたリボンを付けていいのはユージナだけだ」
「そんな」
バッフェスはアエリスが肩に飾っていたショールを外して放り投げる。
「ユージナのために作らせたショールと同じ色のショールなんてどこで探したのさ?」
「これは……これは……だって慈善バザーでユージナが使ってたから……私も……」
バッフェスはアエリスと男爵がサインした契約書を、立ち合いのために夜会に招待していた顧問弁護士に向かって広げて見せた。
「隣国との小競り合いが続く地方への看護兵志願と、親の同意サインだ!」
「なんですって!?」
アエリスの悲鳴が上がるのとほぼ同時に、ライヴェルや他の数人がアエリスに看護兵の制服や携行品を手に出てきてアエリスに押し付ける。
その数人は誰も彼も、かつてアエリスにまとわりつかれたり、婚約者との時間を邪魔されたりした同年代男子だった。
アエリスの脳内BGM機能は「もう飛ぶまいぞこの蝶々」をずっと繰り返している。
「なんなのよ! 意味がわからないのよ! 私を祝福してくれてるんじゃないの!?」
初めて、脳内BGMに苦情を申し立てた結果、アエリスは異世界の歌に翻訳の歌詞が付いたのを見た。
もう飛ぶまいぞこの蝶々
夜も昼も飛び回る恋の迷惑者このナルシスト
羽付きの帽子もリボンも巻き毛ももうおしまい
ダンスの代わりに泥のなか行け!
ケルビーノよ勝利に向かって進んでいけ!
進め軍人たちの勝利へ!
「祝福してるさ! 薄給顧みず看護兵として天使のように勇名を馳せるきみをね! 慈悲深い天使!」
アエリスは「なんなのよ!」という悲鳴と共に、大広間から連れ出されてそのまま馬車で看護兵の徴募に連行されていった。
ところでバッフェスは、夜会でアエリスを地獄に落とすためのシナリオをふたつ用意していた。
ひとつは「バッフェスが侯爵家を出て農民になる」というシナリオ。
もし、アエリスが「侯爵夫人だ」という野心を口にしたら、こちらを言うつもりだった。
だがアエリスは「侯爵夫人だ」とは言わなかった。
だからバッフェスは「侯爵家を出る」というシナリオを捨てて、アエリスを突き放す展開にした。
バッフェスはユージナの隣でふてくされた。
「僕はさ、人生で一度、侯爵の跡継ぎであることを捨てて農民になるって宣言してみたかったんだ。その夢だけはあの子の件で叶いそうだったのに」
ユージナはバッフェスを慰める。
「残念でしたね」
「残念だった。農民になるって言ったら間違いなく嫌がっただろうね」
「雑誌社がきっと、ハンサムすぎる農民と特集するのでしょうね」
「そうかもしれない。でも、雑誌のインタビューだいたい僕が熱く語る話、なにひとつ書かないで、見出しに『ミステリアスな』って書くよね」
「しょうがないのではないかと思うの。だってあなたの能力、農作物の訴えを聴くことで、雑誌のインタビューを受けても今年の農作物の悲鳴を訴える内容しか言わないのだもの」
「農作物の声を聞ける農民なんて、農民オブザイヤーにノミネートしてもらえると思う」
「農作物の声を聞ける侯爵になったら、いつか侯爵オブザイヤーの勲章がもらえると思うのよ」
「その婚約者で、風の声がわかるきみは、侯爵夫人オブザイヤーになれるねきっと」
ふたりは言うが、そんな「●●オブザイヤー」は存在しない。
「……どんな賞なんだろう……侯爵オブザイヤー……」
「……そもそも農民オブザイヤーもわからないのよ……」
「そうだよね……」
バッフェスはため息を吐き、それから一呼吸置いて、ユージナの手を取る。
「いま、きみの目にはどんな僕が見えてますか?」
ユージナはバッフェスを前に目を俯き加減にした。
「雰囲気を作ろうとして、侯爵家の庭師さんと一緒に育てたバラの花びらを自分の手で巻き散らそうとしている婚約者」
アエリスがいなくなった夜会は、侯爵家が用意した2管編成のオーケストラの音色に包まれながら過ぎてゆく。




