子供の続き
木陰から漏れる小さな夏の塊を音のないまま踏み潰して、誰もいない小さな教室へと向かう。クリーム色のカーテンからは深緑が覗き、埃っぽい匂いはここがどれだけ忘れ去られてきた場所かを物語っている。そんなふうに古ぼけた生徒指導室のドアを開けて、俺は錆びて甲高い声を上げるパイプ椅子へと腰をかけた。夏休みだからか、ほとんど生徒のいない学校は自分以外の音が無く、俺はほっと胸を撫で下ろす。加えて北海道は蝉が少ないからか夏は酷く静かで、その静けさが孕む透明な青が、今の孤独に根深く色を足している。けれど静寂も束の間、遠くからホイッスルの音と沢山の掛け声が聞こえてきて、唐突に自分だけが隔絶された空間に、群れをはぐれているような気になった。孤独の形が急に鋭くなって、心臓にぐさりと突き刺さる。その痛みを誤魔化すため、呻くパイプ椅子を体でバランスを取ってゆりかごみたく動かし、足をゆらゆらと宙で遊ばせた。ギシギシと金属の擦れる音が耳を占領して、その不快さが部屋いっぱいに満ちていく。一人でいるのは嫌いじゃない。そのはずなのに、あれだけ澄んでいた孤独の青が、今の空模様とは似ても似つかないほど穢れてしまったように思えて。どす黒い宇宙の色を淡い青に変えてしまう太陽が、とてつもなく憎たらしく感じた。
「はい、おはよう。」
「....おはようございます。」
不快ばかりが渦巻いた教室を換気でもするかのように、担任の佐々木先生がガラリと生徒指導室のドアを開ける。俺はそれと同時にパイプ椅子を遊ばせるのをやめて、大人しく目の前の冷たい机に両手を置いた。すると先生は小脇に挟んでいたファイルから数枚の紙を取り出し、机に並べてからそのうちの一枚をこちらへ差し出してくる。
「僕も部活見ないといけないし、ちょくちょく席外すけどさ。真面目に、反省文書いてね。」
差し出された真っ白な原稿用紙を見て、俺はそれをぐちゃぐちゃに握り潰してしまいたい衝動に駆られた。今すぐにシャーペンをかなぐり捨てて、それを先生の顔面に叩きつけて颯爽と教室を飛び出していく妄想を、何度も脳みそに映し出す。その度に胃の中へ熱い鉛が押し込まれていて、今にも逆流してきてしまいそうな錯覚が体の上半身を襲った。意味の無い自慰行為的な妄想を思い起こしてしまう自分が、情けなくて惨めで泣きそうになる。けれど、涙をここで零すことが最も幼稚で情けない。俺はぐっと机の下で自分の太ももをつねりながら、涙を固く瞳の中へ押し戻した。
「はい。本当に、すいませんでした。」
先生は軽くため息をついた後、「昼頃にまた来るから。」と言い残して部屋から出ていった。それから俺はすぐにシャーペンを握って、鉄格子のように網目が描かれている原稿用紙へ、言葉を収監していく。心を少しづつ削って、削りカスでできた言葉を紙に閉じ込めている間考えたのは、両親のことだった。普段仕事で忙しい両親は、俺が寝た後に帰宅するため平日に顔を合わせることはほとんど無く、土日は仕事の疲れか、大抵寝ていることが多い。だから両親とちゃんと会話するのは本当に久しぶりで、距離感が良く分からなくなっていた。校長室で低く頭を下げる両親の姿と、帰りの車中。印象に残っている両親はいつも、顔がない。申し訳なさと、頭蓋を圧迫する情けなさがより筆を走らせた。自分の背丈がどんどん小さくなっていくような、錯覚ではない実感が、確かに目の前に安置されている。数枚書きあげた後、俺はそれらをまとめて持ち上げ、太陽の光に透かしてみた。
「.....あぁ、こんなもんか。」
自分という存在は、数枚の紙程で収まる薄さでしかないと、はっきり感じた。太陽の光が文字を透かして、「ごめんなさい」の五文字が瞳に焼印のごとく押し付けられる。その時、ぐっと両の拳に力が入った。違う。違うんだと、抑えていた涙腺が叫び出す。俺は間違ってなどいないと、こんな紙ごときにはなんの価値もないんだと、いくらか削り出して尚残る魂が、内蔵を引っ掻き回した。俺はその場にうずくまって、それからもうその日はシャーペンを握ることは出来なかった。握ったせいで端がぐしゃぐしゃになったそれを机に戻し、俺は呼吸を整えながら時計に目線を移す。時刻は既に昼頃へと近づいており、いつ先生が戻ってきてもおかしくないタイミングだった。俺は目をゴシゴシと強く擦って、何とか泣き跡が隠れるように、精一杯澄ました表情を顔に貼り付ける。俺には、自分が正しいとは思えなかった。けれども、大人が自分と全く同じ生き物だというのも、何一つ信じられなかった。あれらは自分とは違う星から生まれ、そうしてまた全く違う人生を歩んできたんだと、そうに違いないと思った。でなければこんな、残酷な所に子供を一人ぼっちになんかさせるはずない。
「書き終わ.....ってないか。まあいいや、とりあえず、少し面談しようか。」
先生はこっちを一瞬見て、少し気まずそうにした後視線を机へと移した。泣いたのがバレたのか、俺はその気遣いが恥ずかしくて、ややくしゃくしゃの原稿用紙から視線が離せなくなる。先生はこちらのことなんて気にしないふりをあからさまにして、それから淡々と言葉を続けた。先生の言葉が一つも自分の心に染み入らないまま、ただただじっと視線を固定して耐え続ける。幼稚な意地だと、自分でも思う。けれど、そうする以外にやり方が分からなかった。納得できないことにはいと答え続けるのが大人だと言うなら、俺はずっと大人になんてなれそうにはなかった。そうしてしばらく時間が経って、午後一時を回った頃、先生は部活の面倒を見るために面談を切り上げて、今日はもう帰っていいと教室を出ていった。ざりざりとした猫の舌で心を舐め取られているような、嬉しさと少しの痛みが混じった気持ちで、俺は学校を後にする。ミッションスクール特有の昼下がりを告げる聖鐘を背後に、自分の影さえもが学校から逃れようと反対側に伸びていた。
帰路に着いている電車の中、泥のように粘っこい液状の憂鬱がガタガタと揺れる車内に満ちていく気がした。形の定まっていない、不可視のそれが鼻腔から胃へと進んでいき、心臓にまとわりつく。体がずしんと重くなった気がして、自然と頭が地面へ向けられて行った。視線が下がり、スラックスから飛び出た少し汚れたローファーと目が合う。どこかへ行くたび汚れていくこと、彼は辛くないのだろうか。当然、無機物は答えない。電車のドアが開いて、夏の空っぽな温度が車内を一瞬だけ切り抜ける。全部、がらんどうな気がした。空虚さに憂鬱だけが詰め込まれているように感じて、俺は思わず電車を飛び出す。不快感だけを中に入れたソーセージは俺を置いて、次の駅へと走り出した。俺はその反対側、ホームを抜け改札を通り、駅の外へと顔を出す。太陽はまだにこやかに、我が物顔で夏を歌っている。俺はやっぱりそれが好きになれなくて、日陰を縫うように進み、ちょうど頭上には電車が通っているためか、くり抜かれるようにして存在している細い通り道を歩き続けた。ここは人通りの多い場所からは少し離れており、こじんまりとした居酒屋がぽこぽこ立ち並んでいる。そのため昼間はほとんど無人と言っていいほどで、やっている店といえば古ぼけたゲームセンターがあるぐらいだ。無計画に帰路から外れてしまったからか、手持ち無沙汰になってしまった空白を埋めるため、俺はそのゲームセンターを目指すことに決めて直進。普段は誰もいない、時間の止まったみたいなその場所へ向かった。
「だあっ!クソ、クソ!クソゲー!!面白くね〜なこれ!!」
静かなはずの、ともすれば聖域とさえ呼んでいいほど静謐だった空間に、極大の異分子が紛れ込んでいる。半地下のゲームセンター。薄暗く、ゲームの青白い光だけが唯一の光源となっている幽かな深海に、もくもくと咥えタバコで煙を吐き出し、筐体をバンバンと叩く修道服を着た女性。おおよそシスターであろう存在が、あらゆる間違いを犯してそこに存在していた。俺はそれを見て、つい唖然としてゲームセンターの入口に立ち尽くす。それに気づいたのか、彼女はタバコを口元から指先へと移動させ、その瞳に深海とそれに沈んでいく夕陽のような朱を投影して口を開いた。
「ごめんな〜。タバコ、苦手なら消すけど。」
先程までの激情が、全くの嘘のように泡となって溶けていく。そこに俺は、大人の不透明を見た。にこやかに端が吊り上げられた口角の、綺麗に整頓された嘘。繋がることの無い、切り離されて断絶した数秒前と今に、生物としての不自然さが蠢いている。そんな風に矛盾を吸い込んで深海を泳ぎ、流れて消えていく煙のゆらめきに、俺は喉からぽつりと言葉を吐き出す。
「...いいですよ。別に、嫌いじゃないんで。」
「おぉ!サンキュー。今どき、喫煙可でレトロゲー置いてるゲーセンなんて見つかんなくてさ。ほんと助かるわ。」
そう言いながら、彼女は再度タバコを口で咥え、ガチャガチャと筐体をいじり始めた。修道服に身を包んでいながら、その体は工業地帯の煙突を想起させるように煙を押し流し続ける。どこかちぐはぐで、今はもう不自然を孕んだ嘘はない。陽の光が届くことの無い、全くの無音を保ち続ける海溝。そんな未踏の領域に、造花が一本差し込まれているような違和感が目の前にカタカタとボタンを押して存在している。そんな非日常を目の前に、俺は気がつけば足を少しづつ前に進めていた。焦がしたポップコーンみたいな匂いが鼻を掠めるぐらいまで進んだ頃、暗がりの中でようやく彼女の顔が精細に浮かぶ。おそらく二十代後半から、三十代前半ぐらいだろうか。紛れもなく大人の側に立っている彼女は全く同じ生き物なのに、やっぱりそう感じさせない、透き通っている存在感のような矛盾めいた雰囲気を孕んでいた。そんな空気に吸い寄せられるみたいに、俺は近くの椅子へと腰を下ろし、ただぼーっと何も無い一点を見つめる。視界の端に彼女をしっかりと捉えていながら、それを悟られぬように考え事に耽っている振りを精一杯続けた。
「中学生?ってか今時期、夏休みでしょ。なんで制服?」
「...部活、とか?」
「はっ!とかって、嘘下手?」
彼女は目線を液晶から動かさずに、鼻を鳴らして少し笑った。その後僅かにできた沈黙を、ゲームのボタンが鳴らされる音が埋めていく。その一粒一粒が、不規則な雨音のようで。ゆったりと心に冷たい宝石たちが注がれていく、そんな充足が自身の内側に広がるのを確かに感じた。水中にどぼんと投げ入れられて、下へ下へ沈んでいく時計。それぐらいゆったりとした時間の感覚が、心を支配していく。時間はいつだって永遠で、俺には煩わしすぎるぐらい常に傍にあるものだと、いつも思っていた。毎日、同じ場所に向かって歩いていく。学生時代がいつまでも終わらないような錯覚が、学校には蹲っていた。けれど、ここはその重さとはまた違った、あえて足を止めているような時間の遅さがあって。
「暇なら一緒になんかやるか?ちなみにアタシのおすすめはそっちの格ゲー。」
「格ゲー...俺、やったことないですよ。」
「マジか!なら気持ちよーく、ボコボコにできるな。」
ニヒルに笑って、彼女は格闘ゲームの筐体の手前に座り、ひらひらとこちらを手招きしている。その姿を見て、突然口の中に砂糖をねじ込まれたかのような甘みが広がった。ただそれと同時に、強く佐々木先生のことも思い出す。日常的に机に伏し、寝たフリをしつつ聞き耳を立てながら腕の窓から人を覗く生活は、見なくていいものまで見つけ出してしまうほどに、研ぎ澄まされていた。そのせいで、軽薄な言葉に隠された小さな嘘が見えてしまう。なんて、温かくて優しい嘘なのだろう。先生が目を逸らしたあの時とは一線を画す、乳白色の気遣い。こんなに上手に嘘をつく彼女は、一体どれだけの嘘を重ねられて来たのか。俺には想像もつかない、どう足掻いても交わることの無い時間がそこには横たわっていた。そして同時に、自分はなんて現金なヤツなんだろうと思う。最初は彼女の不透明さを嫌っていたのに、それがたまたま自分への優しさへ向いた途端、肯定的な見方ばかりが扁桃体を駆け回る。これも、やっぱり矛盾だった。
翌日、俺は再び陽の光が溜まった生徒指導室で反省文と向き合っていた。昨日のように、閉じられた空間と遠くに流れていく整列された吹奏楽部の演奏が、孤独をまた掻き立てる。けれど不思議と、群れからはぐれた痛みは酷くない。それは多分、まだ俺の心が数十時間前の余韻の中。あの青い、深海のようなゲームセンターにあるからで。俺はシャーペンをくるくる回しつつ、格ゲーのあれこれについて考えていた。彼女とプレイした回数は全部で十回。その中で一分粘った試合が二回、三十秒も持たなかった試合が五回、あとの三回は二十秒もかからなかった。文字通りの瞬殺を全試合に渡って真正面から喰らい、何一つとして動きが理解できないまま敗北を喫し続けた。
「いや、普通初心者相手にあそこまでボコる?」
思わず口からそんな言葉が漏れ、それがきっかけとなって、僅かながら強ばっていた空気が張り裂ける。そうして鋭い針で刺された風船が破裂するみたいに、俺はパイプ椅子へだらんと全体重を預けた。夏休みはあと一ヶ月を切っていて、その刑期が終われば晴れて自由の身。いつも通りの繰り返しがまた来て、反省文だって有耶無耶になるのかもしれない。そう考えれば、無理に今筆をとる必要は全くなかった。体から何かが抜けていって、すっと身軽になったような気分がする。それがいい事なのか悪いことなのか、今の俺には判断がつかなかった。シャーペンを放棄して、ただじっと外の景色を眺める。何も変わることの無い、空っぽで明るい青空。虚ろで何も抱えていない雄大さを纏った空気が、肺を優しく撫で回した。
「おはよう。....進捗、どうかな。」
静かにドアを開けて、佐々木先生が入ってくる。それから先生は机に転がっているシャーペンを見て、軽く息を吐き出してから俺の正面へと座った。けれど俺はまだ、視線を窓から移せずにいる。なんだかイタズラしている現場を見つかった猫のように、何も感じていない素振りだけが身体の表面に固まった。
「今の時期さ、部活の大会もあるし、夏休みで授業がない分、他の仕事片付けなきゃでね。こうやって、時間取れるのもあんまり多くないんだ。」
「色々お疲れ様です。できるだけ早めに書き上げますから。」
「うーん、そういう事じゃないんだけど...。」
先生は困ったような顔を少しだけして、それから反省文を手に取り、途中まで書かれたくしゃくしゃのそれを軽く読んだ。所作の一つ一つが角張っていて、ひどく事務的だと思った。大人はみんな忙しさの中に存在しているし、先生もたくさんの物事を教えるので精一杯なのかもしれないと、何となく感じる。仕方ないと吐き出されていく言葉たちの一端に詰め込まれた、教育の育てるという部分。誰からも育てられずに、何となく勝手になっていくもの。それが大人なのだとすれば、なんて孤独な生き物なんだろう。そういう世界を見てきたからか、みんな大人を被るのが上手だった。クスクスと、笑い声が聞こえる。表立った攻撃も、証拠の残る害もない。巧みに隠し、本人にだけ僅かのみ理解できるよう出力された悪意は、モスキート音を思い起こさせる不快感を持って、俺の鼓膜をびりびり揺らした。それが、何より嫌だった。
「大丈夫です。本当に、申し訳ないと思ってますから。だから...だから、早く書きます。」
プツンと、糸電話の線を切ったみたいに会話を終わらせる。そうやって一度も先生と目線を合わせないまま、俺は今日の学校に拘束される時間を終えた。あんなに孤独な生き物と、話し合えることなんてあるんだろうか。星と星が触れ合うことが無いように、衝突事故でしか交われないみたいに、彼らはずっと一人で生きている。そんな事をぐるぐる考えながら、俺は気付けばまた昨日のように、ゲームセンターへと足を運んでいた。脈拍がなく、誰もいない深海。柔らかく濁った煙も、カタカタと喋るボタンも今日はお休み。ただただ静謐なだけの空間が、何故だか思ったよりも心地よくない事に気づく。昨日よりも煙たい心中が、どうしようもなく不思議だった。前日の残像を追うように、俺はもう人肌を忘れた椅子に座り、格ゲーの筐体へと向かう。対戦相手は人ではなく、この場所にぴったりな冷たいNPC。その動きをぼんやりと観察しながら、俺の脳みそはまた考え事を再開する。明確な輪郭がある訳ではない、海中に沈み、水底で溶けきらなかった夏の春雪のような、脆く淡い思考。いつからかずっと、モスキート音が鳴り止まない。カチカチとボタンを押して、単調なモーションを繰り返す。負け、負け、負け、負け、勝ち、負け、勝ち、勝ち、勝ち。没頭していくごとに、冬の名残が見えなくなっていく。耳鳴りはもう、しなくなっていた。
気付けばもうすっかり日は落ちていて、俺はゲームセンターを出たあと、フラフラ歩きながらまだ家には帰れずにいた。いつも親の帰りは非常に遅く、加えて俺は部屋からあまり出ないこともあって、家の中でさえ顔を合わせることは少ない。だから帰るのが多少遅れても何も問題は無いし、それより今はとにかく思考を麻痺させる何かが必要だった。追いつかれてはいけない。しっぽを掴まれれば、その時点で何か大きなものに呑み込まれてしまいそうな、そんな確信があった。歩けば歩くほど、脳みそは同じように回り始める。目的地のない散歩ほど、今の俺にとって危険なものは無い。どこでもいい、動きを止めていられる場所。そんな安息地を求めて、俺はアーケード街を通り、その中にあるほんの小さな映画館に入った。上映している映画は全て昔のもので、目新しいアニメ映画や、流行りの恋愛映画などは一切上映されていない。ただ、ちょうど今上映している映画が一つあって、俺は逃げ込むように、そのスクリーンへと足を運んだ。あのゲームセンターとはまた別の世界である、仄明るい暗がり。深海と言うよりも、まだ月の光が届く場所のような。辺りを見回すと席はガラガラで、観客は俺の他にあと一人しかいなかった。その一人は席の一番後ろの真ん中に座り、静かに流れている広告を見ている。こんな小さな映画館にも客はいるのかとふと思いながら、暗がりと距離のせいでシルエットしか確認できないその客へ思いを馳せ、俺は席の中心に座って上映を待つ。頭を乗せていない座席は光を浴びながら、赤をふわりと咲かせている。その光景がなんだか魚の来訪を期待している、朱色の珊瑚礁のようにも見えた。ここは閉じられた空間で、俺以外にはもう一人の観客しかない。なんだか急に、自分がベタにでもなったかのような錯覚を覚える。群れに入ることも、多くの魚がいる水槽にも馴染めない、孤独な闘魚。俺は一体、何と戦っているんだろう。何と戦えばいいんだろう。そんな思考とイメージを攫っていくみたいに、スクリーンから優しげで柔らかい音楽が漏れ出した。白黒と明暗を繰り返す画面と、散文的で刹那的なテキスト群。誰かの独白のように打ち出されたそれらは、泡のようにぽつりぽつりと浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。そうしてパッと、一気に画面が緑色に染まった。腰ほどまである草原と、そこに立って一人、イヤフォンで音楽を聴いている青年。おそらく俺と同じぐらいの年齢であろう彼は学生服に身を包み、どこまでも続く草原を、ぼうっと眺めていた。そこにある透き通って、身体を掻き分けて進んでいく痛みの共感が、俺の網膜を通して入ってくるのが分かる。映画は二時間以上に渡って続き、その内容は子供たちが誰も彼も一人の孤独を抱え続ける群像劇だった。人肌ぐらいの柔らかさをした音楽と、小さな頃の日向みたいな記憶の暖色を抱えた色彩で構成されていたはずなのに、その映画はどこまでも俺にとってグロテスクなものに見えた。言語野が焼け野原になってしまったような、そんな不安感と、どこかそれすらも肯定されているような安心感。ちぐはぐで不成立な感情が、これ以上ないぐらいに心臓へとのしかかる。この映画には、たしかに自分がいた。そんな明瞭な錯覚が、俺の人生をあやふやにしていく。エンドロールが流れている間、俺は涙も持っていかれてしまうほどの矛盾の濁流に押し流され、席を立つことが出来なかった。体が自分の物では無くなったみたいに、言うことを聞かず硬直する。しっぽを掴まれた。もう、逃げることはできないのだ。肺に水が染み込むような不可避の鈍痛が、全身を巡る。不定形になった肉体が、今すぐにでも弾け飛んでしまいそうで呼吸さえままならない。
「よっ、奇遇!てか、こんな時間に外出なんて、親が許してもアタシが許さないぜい。」
ぽんと、唐突に肩を叩かれ、俺の体はようやく自分の形を思い出したように、自然な呼吸を再開した。そうしてそれと同時に、俺は振り返って俺以外にもう一人いた観客の正体を確かめる。そこには修道服に身を包んだ、ゲームセンターの彼女がにへらと口角を上げて存在していた。
「.......ぐう。」
そんな彼女に対して口より先に、お腹の方が返事を返す。俺はそれが何よりも恥ずかしくて、顔を真っ赤にしながら、何とかここから幼稚さを払拭できる言葉を探した。けれどどこにもそんな言葉は見つからなくて、俺は半ば開き直るように彼女へと向かい直る。
「シスターが夜遅くに、こんな映画なんて見ていいんですか。」
「シスターだって映画くらい見ていいだろ!それにな、この映画、アタシがちょうどキミぐらいの時に上映されててさ。...思い出の作品なんだよ。」
彼女は本当に、本当に少しだけ、透明に微笑んだ。その事が俺にとっては何よりも意外で、星がその光を携えたまま、海中に沈みかけていた自分にめがけて落ちてきたような。澱みなく、純粋に沸き起る感情。これの正体が、何なのかを激しく俺は知りたくなった。
「てかお腹、空いてんでしょ。こんな遅くにキミみたいなのをほっとくほど、アタシも不良シスターじゃないし。ほれ、奢ってやるからついてきな。」
「え、いやいやいや。帰ります。帰りますから。」
「キミみたいな顔したヤツをよーく、アタシは知ってるからね。どうせ、素直にまっすぐ家に帰らんでしょうが。」
図星だった。家に帰ること、この気持ちを整理しないまま、顔のないあの家に留まることが、今の俺にはできそうになかった。肉体の触れ合いはなく、けれど手を引かれるように、体が自然に立ち上がる。上映が終わり、薄いオレンジで包まれた密室から、彼女だけを頼りに半分眠りかかった街へと足を進ませていく。所々に点在するシャッターと、ぽつぽつ浮かぶネオン。そのどれもが、まだ自分とは違う宇宙に浮かぶ光に見えて、グッと心が締め付けられる。そんな中、彼女はたった一つ淡い月明かりみたいな白を放っている場所へと俺を案内した。
「キミ、深夜のファミレスはいいよ。静かで、無関心で、満月みたいに時間がぽっかり抜け落ちたみたいだ。」
「静かな時間が好きなんですか。なんかもっと、騒がしい人だと思ってました。」
「よく言われるよそれ。とりあえず座んなさいな。時間だけは沢山あるんだよ。特にキミには。」
彼女は固くも柔らかくもないソファー席に座って、メニューを机に広げ、それをこちら側へ向けて差し出した。ツルツルとした机は少し冷たく、沢山の写真が載せられたメニュー表は俺の目を流れ滑る。俺は脳みそを別のところに移動させながら、適当にハンバーグを指さして、「これにします。」と呟いた。彼女はそれからメニュー表を見て数秒悩み、その後店員さんを呼んで注文をする。気を利かせたのか、ドリンクバーもセットで付けてくれたので、俺はぼうっと席を立ち、ドリンクバーへと向かう。コーラのボタンを押して、飲み物がグラスに注がれるまでの数秒、ふと窓から外の夜を覗いた。雲の向こうにあるやけに月が黄色く見えて、それが今、自分が白の中にいるからだと気づくのに、そう時間はかからなかった。時計の針は、確かに眠っている。けれど現在、劇的な何かが起こっているような緊張感が、グラスにどぼどぼ落とされていくのを感じた。ぱちぱち弾ける炭酸の泡音が、やけに耳にへばりつく。この時になって、ようやく俺は彼女の言っている、静けさについて共有できた気がした。コーラがいっぱいに注がれたグラスを持って、俺は彼女のいる席へと戻る。机には既に、深い紫を宿したワイングラスと、その本体である緑の瓶が鎮座していた。
「ほれ、乾杯!」
差し出されたガラス製のグラスにこちらのプラスチックが触れ、カチンと心地のいい音を鳴らす。今にも割れてしまいそうな繊細な彼女のそれは、自らの脆さなど意に介していないかのようにキラリと白い光を跳ね返した。彼女はそれから一気にワインを体へ流し込んで、再びそのグラスへ液体を注ぐ。その後を追うように、俺もコーラで口の乾きを癒した。いつまでも口の中に残る甘さと、茶色い縁の深い黒。俺は想像もできない、彼女のワインの味を想う。そうして乾杯のあとの一瞬の静寂。この空間だけが、夜から見放された光の中にある。俺はそこでまた、満月みたいだと表現する彼女のことが少し分かった。脳みその中で、自分勝手に繋がっていく理解の線。それが海に浮かぶ白波程の確かさしか持たないことを、俺は理解している。けれど、どうしてもそのか細い色彩を手放したくないと思ってしまう。だからなのか、果てまた単に気まぐれだったのか。気づかないうちに手に握っていたものを落とすみたいに、口から言葉が漏れる。
「...大人って、なんでしょうか。」
その瞬間にバチンと目が合って、電気が弾ける音が鳴ったかと思わず錯覚した。彼女は俺から目を逸らすことなく数秒思案した後、うーんと唸ってワイングラスを手に取る。そうして瞳を閉じ、ワイングラスを持っている手とは反対の手を取り出して、指を二本上げてピースの形を取った。
「チープなのと、それから...何て言ったらいいんだろな。とにかく、二つぐらいの答えを、アタシは持ってるよ。」
「俺からしたら、大人はみんな違う生き物で...。なんか、その、生き物じゃない感じがして。それが、ものすごく怖いし、でも...。でも、あなたは違う気がするっていうか...。」
自分の中では整理されている言葉のはずなのに、外に出した途端、形があやふやになっていく。自分の気持ちも、伝えたいことも上手に伝えることができないまま、俺は言葉を続ける。
「みんな嘘ばっかで、いや俺も嘘はつくけど...。なんか、嘘の温度が違うって感じで。納得いかないことが多いし、何も信じれないし...。」
「ほんほん、なるほどね。」
「だから、二つとも、知りたいです。」
十分の一でも、俺の気持ちは伝わっただろうか。ぐしゃぐしゃに書きなぐった文をしたためた紙を、全力の力で丸めて相手に投げつけたような、そんな息切れが遅れて俺を襲う。じんわりと手のひらに汗が滲むのを感じ、体がぶわっと熱くなった。けれどそんな俺とは対照的に、彼女は涼しげに足を組んで泰然と佇んでいる。
「ショーペンハウアーってわかる?授業とかでやった?」
「...いや、全然知らないです。」
「そっかぁ。まあ有名な哲学者なんだけどね、その人が言うには、『我々は他者と同じようになるために、きびしい自己放棄によって自身の4分の3を捨てねばならない』ってさ。」
彼女は口にワインを付けて、哲学者の台詞を老人っぽく、ない髭を触る演技までして、ひょうきんに語った。難しい話になるのかと思って思わず身構えてしまったのが肩透かしみたいに、俺はふっと体を和ませる。やっぱり、とんでもなく優しい人なんだなと、また思った。
「要するに、色々考えんのやーめた!ってこと。疲れて疲れて、今まで悩んでたこととか考える暇が無くなってきて。そんで考え事を捨てんの。それが自己放棄で、それが大人かな。ちなみに、こっちがチープな方。」
「それは...成長なんですか。ただ逃げてるだけで、なんか大人になるって感じじゃないです。」
「んー。まあ、そう言われればそうなのかな。キミは、大人は成熟してなるものだと思うのかい?」
「少なくとも、成長の先にあるのが大人じゃないですか。俺からしたら、その哲学者が言ってるのは、成長じゃなくて...老いです。俺は、とにかく違うと思います。」
「手厳しー!でも、若さってそういう...。そうだね、うん。いい。」
曖昧に、ただ力強く彼女は俺を肯定した。頭を優しく撫でられたかと感じるくすぐったさが、背筋を駆け昇る。そのくすぐったさが背中を押して、前のめりになって倒れるように体が急ぐ。すぐそこにずっと探していた何かがある実感が、確かに感じられる。ゆらゆらと揺れる月を、ずっと深海から眺めていた。けれど今になって、ようやく水面から顔が出られて、クッキリとした月が見えるような、絶対的な確信。
「じゃあそれがチープな方だっていうなら、二つ目。チープじゃない方の答えって、なんですか。」
「あー。いや、なんだろうなー。ええっと...うん。やっぱナシ!アタシの思う大人と、キミの思う大人。この二つは別であるべきだよ。」
「それは...。でもそんな急に。」
「急なのはそうだけど、なんか楽しようとしてないかい?キミ。それに、他人から貰った言葉で生きていいのか?」
唐突に、さっきまで撫でられていた頭を押さえつけられたような。水面を目指して浮上していた体が、再び海中に沈んでいくのを感じる。でも、彼女の言葉に引っかかったのも事実だ。きっとどこかに明確な回答が存在して、それがどこかに行けば、誰かに会えば貰えるものだと思っていた。けれど、彼女はそうじゃないと言う。そうあるべきではないと。
「4分の3、捨てたくないんだろう?誰かの言葉で生きてアイデンティティを預けるなんて、それこそ自己放棄だろうに。」
グサリと、何かが刺さった音がした。だがその痛みを知覚しそうになるほんの数瞬前に、無関心の空間は切り裂かれる。
「お待たせ致しました。ハンバーグのお客様。」
「......あ、俺です。」
意識が彼女に集中しすぎていて、少し反応が遅れてしまった。俺は手を上げて、ほかほかと湯気の上がるハンバーグを自分の方へと迎え入れる。すると彼女はふっと息をつき、「冷めないうちに食べちゃえよ。深夜のハイカロリーよりキマる食べ物ってないぜ?」と笑った。俺はナイフを手に取って、ソースのついたハンバーグを何度も咀嚼して嚥下する。消化するには、まだ時間がかかりそうだった。たった数秒だけ刃の入った空間は、引けた水が重力に従うみたいに、また元の無関心さを戻す。けれど、一度傷の付いたものには得てして跡が残ってしまうもの。先程までのどこか暗闇を突き進んでいくかのごとき勢いは掻き消え、この場は彼女の言う本来のファミレスへと戻った。時間が滞留し、眠る世界から逃げ出した月の欠片が一つ、二つ。彼女はワインを飲み続けながら、ふんわりと優しい空気を常に纏わせている。その姿を見て、やっぱり二つ目の答えが気になってしまう。しかし彼女の言うように、それはきっと近道をしようとしているだけだ。彼女の持つ、他の何とも違う。けれど自分と近いところにあるのかもしれない何か。そのヒントを、少しでも拾い上げたかった。
「あの、あなたはなんでシスターをやってるんですか?」
「ん?おいおい、シスターっぽくないからって、シツレーだぞうキミ。」
「いや、そういう訳じゃなくって!ただ単純に...珍しいなって。」
「珍しい?キミにとっても、アタシって珍しいもんかな?」
少し引っかかるような言い回しだったが、彼女の顔の赤さを見て、そういうこともあるかと俺は少し納得した。いくらか酔っているのか、柔らかな雰囲気にぽわぽわとしたあどけなさが加えられ、彼女はより一層彩度を上げていく。
「なんでって、そりゃあ...。アタシは...。人助けが、したかった。」
口元に含んだハンバーグの中に硬い筋を見つけて、途端に歯切れが悪くなる。俺はそれが歯に挟まって、それを何とかこそげ落とそうと必死で舌を動かした。柔らかな彼女の彩度が、急に下がっていく。そんな感覚と共に、俺は歯に挟まった肉塊を飲み込んだ。「嘘は付いてない。けど、本当のことも言われてない。」胃の中に、確かな重みが落ちてくる。
「そう...。そうですか。立派なんですね。」
「...違うな。本当に立派なのはキミの方さ。アタシはもう、ちょっと...疲れた。」
彼女は片手で顔を覆うように両の目を抑えて、それからまたすぐにパッと手を離して俺の方を見て笑った。最初に彼女と出会った時の、あの笑顔だった。なんて、悲しげな不透明。
「もう三十路も手前なの!ド深夜にアルコールはキッついよ。ほら、食べ終わったっぽいし、夜更かしも体に毒。...そろそろ帰ろっか。」
机には空っぽの瓶とワイングラス。それからまだ中に黒い液体が残る俺のグラスを残して、俺たちはファミレスを後にして駅へと向かった。ネオンはまだ活き活きとしていて、夜の中に一つ一つ浮かんでいる。そのどれもが、宇宙の端と端にあるような、とても遠い距離のものに感じた。彼女の背中はふらふらと、軽く夜を進んでいく。それに当てられてか、俺も映画館の時ほどの深刻さはもうない。それでも胃の中には確かに、澱のような何かが溜まっていて。そんな風に歩いていると、止まっていた時間の反動が来たのか、一瞬で駅のホームへと到着していた。彼女は人のほとんど居ないホームのベンチに座り込み、赤らめた顔でだらりと力なく目を閉じる。電車が来るまで、あと数分。俺は彼女の隣に座って、ただ静かに電車の到着を待った。今までは散々眠っていたはずの時計が、やけに真面目に仕事をこなす。俺はそれを恨めしく思いながら、一分を六十秒と正確に歌う秒針を見つめる。
「全部、当てつけなんだよ。」
「えっ?」
「学生時代に、おかあ...。母が新興宗教にハマってね。色々...。本当に、マジで色々あったなぁ。逃げるように東京に進学して、それで。」
彼女は目を瞑ったまま、寝言のように言葉を繋げた。俺はそれに対して何も言えないまま、ただただ衝撃に口を噤む。彼女が零した言葉の一欠片に、どれだけの思いが込められているのか。俺はもっと、彼女のことが知りたいと、そう思った。それなのに、時間は残酷に終わりを告げる。大きな電子音が鳴り響き、最終電車の到着を二人に知らせる。彼女は急に目を見開いて、それからまた、やっぱり笑った。
「ほら、時間だ。明日も学校なんだろ。キチンと行けよー、未成年。」
「......はい。」
言葉が出ない。ここに来て、初めて自分には資格がないと思った。彼女と対等に、語り合える資格。自分自身の、体から生み出された宝石とも呼ぶべき回答。それがないまま、ただ闇雲に彼女から言葉や意味を借り受けること。それがどんなに幼稚で、大人から最もかけ離れている行為か。俺は、どうしようもなく子供だった。
翌日、俺はとんでもない寝坊をした。劇的な夜更かしの、当然の代償。学校には急いで電話をして、お腹が痛いので休む旨を事務員の人に伝える。自分でも笑ってしまうぐらい、下手くそな嘘だなと思った。彼女のものとは似ても似つかない、不純物ばかりが混ざった虚構。不器用さが目一杯に詰め込まれた自分の体が、ずっしり重く感じる。時刻は昼前、学校に行くには遅すぎるし、またあのゲームセンターに行くには早すぎる、そんな絶妙な時間帯。そこまで考えて、はっと気づく。俺はあのゲームセンターに、彼女を目的に行っていたことに。客観的に思えば、今現在から向かったとして、ゲームセンターに行くのに早すぎる時間ではない。早すぎるというのは、彼女と偶然あの場所で鉢合わせるのに、早すぎるという意味だった。それに気づいてから、俺はぶわっと、内蔵の下の方から溶岩がせり上がってくる恥ずかしさを覚えた。あれだけ、彼女との対等を望んでおきながら、俺はまだ彼女を心の中で探している。深い水底に眠る貝が、その身に荒々しい砂塵を浴びて、それを少しづつ身に包み真珠にするように。俺は自身の問に、自身で決着をつける。その決意を再び固め直し、俺は服を着て街へと出かけた。彼女の居ない場所。できるだけ静かで、けれど無関心からは離れた空間。ふと足を運ぶのではなく、俺は出来るだけ自分の意思を動かしながら、小さく一歩を踏み出した。駅へ向かい、空いている電車に乗り、街で降りる。ただ、やっぱりどうしても彼女が思い起こされてしまう。それは多分、あのゲームセンターとファミレスが一つの同じ街にあるからで。ここ数日の強烈な記憶が、この街には紐づけられている。俺はきっと、これから先もゲームセンターやファミレスを見る度に、ほんのりと彼女のことを思い出すのだろう。そんな風に考えると、心が淡く温められる。とても優しい、居場所になるような思い出。でも、それは今必要なものじゃない。しばらくは、しまっておく。俺は自ら、貰った温かさを深海に沈みこませ、さらに遠くへ向かう電車へと乗り込む。都市部のそれとは異なり、海のすぐ側を通る電車だからか、潮風で窓がやや茶色く汚れていた。天気は曇りで、真夏を証明するあの太陽も今日はいない。外の景色がよく見えないまま、俺は呆然と右から左へ流されていく家々を眺める。たくさんの家が並んでいて、形も色もばらばら。その数だけ、その中に内包している人生があって、想像もできない色彩をした生活がある。ごく当たり前の、ただそこにある事実。それが時折、どうしても信じられなくなった。海沿いを走る電車は住宅街を抜け、星の置かれる森林を通り、そうして海までたどり着く。汚れた車窓からは遠くの海を見ることが叶わなかったけれど、それでも確かに、この電車は彼女のいない遠くへと連れてきてくれた。都会と言うには少し寂れているが、それでも人の少なくない、ガラスとオルゴールが有名な街。北海道の静かな夏とも相まって、涼やかで透明さを保った風景は、流線型の滑らかさをその口に頬張っていた。金属が金属を打つ音が響いて、ガラスがその音の光を反射する。とても脆くて、危うげな美しさ。人間関係はいつだって不可逆で、俺はもうつい先日まで心地よかった孤独が、実は一人のものでは無いと知って、今では些か物足りなくなった。心の中に彼女の形の空洞ができた気がして、一人ではその分の孤独を埋められなかった。随分と、自分が弱くなった気がする。バスへと乗り込み、繊細なガラスの街を更に抜け、陸地の果ての岬へと向かう。進む度に少なくなっていく民家と、増えていく波の音。海はほとんど見えないのに、その実物の痕跡だけが背後を強く彷徨っているような、そんな感覚が脊髄をなぞっていく。そうしてたどり着いた終着。下から上へ駆け上がっていく魚たちの群れ。強調された美麗な青色が映える、偽物の海。作られた光、虚構の生態系が横たわる水槽たち。人工の楽園とも呼ぶべき水族館へと、俺はとうとう到着した。入口でチケットを買って、やや暗い建物の中へと入っていく。水を潜り抜けて、俺の目の中で揺れる紫色の照明。それを和らげるように、翳っていく魚たちの輪郭。整列された美しさを持って、魚たちは機械的に作られた青をその身の銀で切り裂いていった。区切られた円柱の水槽を、永遠に泳ぎ続ける回遊魚の群れ。孤独とは無縁の、鋭い光を孕んだ無数の目と俺は対面する。そうして、思わず水槽のガラスにそっと指先を触れさせ、薄く透けて反射する自分の顔を見た。
「全部、言い訳か。」
誰にも聞こえないように、ぼそりと呟く。他の誰かに気づかれたくなかった、誰にも見せまいと自分にすら隠してきた、水色の心。本当は、あの群れに入っていけるような形になりたかった。孤独が嫌いだった。寂しいから。寂しくないように本を読んで、映画を見て、音楽を聴いて、没頭した。真っ暗な視界からでも聞こえてくる楽器の音や、バットが球を打って響く快音。遠目に見る学生服の群れと、楽しげな笑顔たち。そのどれもに嫉妬し、そうして捨てた。俺はそれを選ばなかったのだと、長い長い言い訳を積み重ね続けて。彼女と出会って弱くなったのではない。初めから、ずっと弱かった。それを見ないように、隠してきたのだった。銀色の最後尾、少し遅れて零れた銀が、よろよろと魚群に追いつくため懸命に泳ぐ。必死に必死に、背鰭や胸鰭を目一杯使って全力で。その魚が、俺の正面にやってくる。彼は俺の方を見ようともしないで、円柱の中を進んでいく。何処にも行けやしないのに、ただただ追いつく為だけに。光はまだ紫色のまま、俺の瞳を貫き続ける。俺は魚群の水槽を離れて、影の無くなった光の中をまた、少し進んだ。そうして、満月みたいに丸くくり抜かれた円形の水槽に、ぐらりと視線を奪われる。乳白色の柔らかさをドレスのようにひらひら纏って、頭に華の大輪を咲かせる海月たち。彼らは光を浴びたダイヤモンドのように体の縁をキラキラと様々な色に光らせて、小さな丸の中にぎゅうぎゅうと詰め込まれていた。彼らの持つ柔らかさがそうさせたのか、それとも俺の脳が勝手に記憶を漁り始めたのか。白く、柔らかな揺蕩いの中に、彼女の輪郭を見つける。あの人はきっと、群れの中でもキチンと生きられる人なんだろうと、確信めいた思いを抱く。彼女は光を踏み潰さないまま、優しく抱えられる人だから。冷たくて凍ってしまった所でさえも、心の奥に包んでしまえる人だから。ゆらゆら揺れて、夜に進んでいく背中。今でも思い出すたび、その距離の遠さにはっと絡め取られてしまいそうになる。彼女の持つ独立した、彼女だけの視点で進む時間。彼女のことを知るには、どうしても埋めることの出来ない欠落。けれど確かに、受け取ったものはここにある。光は紫、赤、緑、黄色などの様々な顔を持って、俺の背後にピッタリとくっつく影を落とした。俺はそれを引き剥がせないまま、また歩き始める。そうして、照明が一つだけしかない一室へとたどり着いた。空間の中央、腰ほどまである台座にそっと置かれた、真四角のアクリル箱。水草もなく、全くの飾り気を感じさせないそれは、ともすれば実験用の水槽と言われても納得してしまうほどの静けさを持ってそこに置かれていた。その中にはぽつんと、一匹の魚が存在している。真っ白で、透けてしまうくらい薄いしっぽは半月状にふわりと広がり、その瞳は虚ろに外を眺めていた。光が散らばる薄暗がり、宝石の原石たちが少し顔を覗かせる鉱山窟ように明かりが埋め込まれている中に、ただぽつんと。華美な装飾を思わせる背鰭や胸鰭は小さな体を覆い隠し、鋭いその瞳だけがギョロりとこちらへ向けられ、視線が交差する。同じ水槽に入れば、戦い合うしかないから。傷つけるしか、そんなふうにでしか関わり方を知らないから。だから、一人を選んだ。誰もいない。誰も傷つけてこない。誰も触れられない。無菌で静かな温水室。でも本当に、それで良かったんだろうか。
「なあ。一人は、寂しくないか?」
瞬間、パチンと光が弾け、あれだけ顔の多彩だった影さえも霧散する。遠くの方から微かに楽しげな音が聞こえ、おそらく水族館のメインイベントが行われているのだろうことがわかった。どこか遠くへ光が集まって、この部屋はたった一つの照明だけが光源となる。その暗がりのせいか、果てまたただの錯覚か、水槽のアクリル板が視界から消え、本当に魚が宙に浮いているような、そんな光景が目の前に広がった。俺と魚を隔てる壁はもうない。ばさりと、魚は大きな鰭を動かして空を飛ぶ。光に向かい、小さな体を隠すのをやめて、真っ直ぐ空だけを目指す。月のように、水面に向かって照らされる照明。そんな小さな光を目標に、彼は月を目指した。
「そうだよな、一人ぼっちは...寂しいよな。」
そして引き裂かれるように、世界にはまた光が溢れる。遠くで鳴っていた音楽もいつの間にか止んでいて、影は再び沢山の顔を地面に貼り付け始めた。だから、あれはたった一瞬の、目が眩んでしまうような刹那の暗闇。けれどもう二度と戻れないものだったとしても、俺は確かにあの時、彼と同じ宇宙にいた。同じ世界にいて、同じ息を吸って、同じ生き物だった。これはただの素敵な勘違いかもしれない。切り捨てられるべき妄想で、ともすれば狂気の一端であるのかも分からない。だとしても、知っていたごく当たり前のことが、ようやく理解できた気がした。どれだけ周回遅れで、言葉にする程のものではない、ただそこに存在するだけの事実。誰かには誰かの世界があって、そこには他人との残酷なぐらい深い溝が横たわっている。それでも、それが絶対的な断絶な訳でもない。俺は、傷ついてでも誰かと関わり続けるべきだった。くるりと魚に背中を見せて、俺は来た道を一歩ずつ戻っていく。光がちらちら顔にあたって、眩しさを噛み締めながら様々な形の魚影を振り返った。水族館を出て、再びバスへと乗り込みガラスの街へ帰る。遠くを覗けば海が見えるはずの街を、やや足早に駆け抜けた。帰路についている途中、住宅街を歩いている所で、鼻先を夕食の匂いが掠める。嗅ぎなれないその匂いに、ざりざりとヤスリで心を削られるような、そんな痛みを覚えた。コンビニで買った温いおにぎりが、胃の中へ転がって落ちていく。そうしてふと、食べることはとても儀式的なことなんじゃないかと思う。食卓を囲み、食べるものを共有し、食べたものが体に溶けていく。そうして溶けたもので、自分の体が作り替えられる。そう思えば、やっぱり胸が痛む。小さくとも存在感を忘れさせないその痛みを抱えながら、ようやく俺は見知った街へと戻る。家に帰った頃には、すっかりもう日は沈んでしまっていて、俺はいつもみたいに自分の部屋の布団へと潜り込む。早めに寝てしまおう。そうして明日は、朝一番に起きよう。そう決意して、俺はすうっと布団に落ちていくみたいに眠りについた。
アラームが鳴ったのは、朝四時。太陽さえまだ寝ぼけている時間帯に、俺は学生服に袖を通し、音を立てずに自室からリビングへと移動する。リビングには付けっぱなしのテレビと、それからクッションのないソファー。そうしてその上に眠る、シャツを着たままで仕事帰りの父親。俺は万が一にも起こしてしまわないよう、抜き足差し足で父親に近づき、そっとその顔を覗く。記憶の中のものより、幾分か白髪が多い気がする。それに目の下のクマも酷い。顔のない家、実感のない家族。見ていなかったのは、俺の方だ。時間はいくらでもあったはずで、会話を図ろうと思えばいつだってできた。それでも、それを選択肢なかったのは俺の方だ。長い言い訳と、今まで被ってきた沢山の被害者面をいい加減終わりにしよう。反省文が書き終わったら、話したいことがいっぱいある。そう、言葉にしようとしてやっぱりやめた。表の理由は、起こすのが申し訳なかったから。そして裏の理由は、まだ少し恥ずかしかったから。俺はリビングを後にして、取れなくなった汚れの付いたローファーを履き、朝焼けへと身を乗り出していく。世界を明るく自分の色に染め上げていく太陽が、やっぱりまだ好きにはなれない。けれど、完全に嫌いというわけでもなくなった。俺はゆっくり歩きながら、欠伸をして寝ぼけ眼で起きていく青空に、にっと笑ってみる。今はまだ下手くそで、不透明な笑顔。いつかこの笑顔が上手になる日が来るのかもしれないと、そう思いながら学校へと向かった。朝早くの誰もいない学校で、一人生徒指導室の鉄パイプ椅子に腰掛ける。相変わらず甲高い声を上げるそれは、朝のまだ冷える空気を体に吸い込ませていて冷たい。俺の体重を支えてキシキシと呻きながら、椅子は俺の体温を伝播するように少しずつ温くなっていった。部活の掛け声が聞こえ始めて、それから吹奏楽部の楽器も目を覚ます。自分の中で世界が大きく変わったとして、それは本来そこに存在するだけの世界の変化と繋がることは一切ない。変わった自分の先にあるものは、変わることの無い世界だ。始まりの日と何も変わらずに、孤独が痛い。真正面からきちんと、痛みを感じる。
「...はい、おはよう。」
「おはようございます。先生。」
「あーっと、昨日休んでたけど、大丈夫?」
「一日寝たら、治りました。」
先生は眠そうな顔で、扉をガラリと開けて教室の中へ入ってくる。俺は不器用に笑って、そう嘘をついた。先生も多分、その嘘を見透かしている。けれどそこを追求してくることはない。それを優しさと捉えるか、果てまた放棄と見るのか。俺はほんのりと迷って、それから前者を選ぶことにした。優しさは想像力で、想像力は解釈の産物だと、今ではそんな風に思える。先生はそれからくしゃくしゃの反省文を取り出し、俺の方へと差し出した。俺はそれを受け取って、もう一度シャーペンを握る。そうして一文字、また一文字と言葉を格子状の原稿用紙に梱包していく。自分の心を削って、それを丁寧に個包装し、それからラッピング。もう一部を無くしてしまって、二度と完成することの無いパズルのピースを無理やり作り出すみたいな、そんな風に。
「...そっか、もう書けそう?」
「一応、頑張ってみます。それと、ちょっとだけ、話を聞いて貰えたりしますか?」
そう切り出して、俺は自分の話をした。同級生にやられて嫌だったこと、苦しかったこと、辛かったこと。全てを吐き出すのは大人に泣きつく子供っぽくて嫌だったけれど、でも少しだけは話してみた。耳の奥深くで未だ響くモスキート音が、氷が溶けるみたいにゆっくり消えていく気がする。今自分が正解を選べてるのかなんて、これっぽっちも分からない。それでも、ただ続けていくしかないんだと思った。俺の話が終わって、先生はその内容を軽くノートに写しており、それを手に取ってから立ち上がり、俺に目線を落とした。
「僕も忙しいけど、できるだけのことは...やってみるから。」
「色々、迷惑かけちゃってごめんなさい。」
先生も不器用だったんだなと、そう感じる。そうしてその不器用さには見覚えがあって、俺は思わずため息を噛み殺し、それからふーと息を吐いた。安堵と、それからプライドの残骸、それにちょっとの期待を混ぜたような吐息が、外に吐き出される。大人はちゃんと、俺の延長線上にある。子供の続きが、大人なんだ。先生はそれから、ノートを持って生徒指導室を後にした。それから先生は帰ってくることなく、俺は反省文を半分まで書き終えて学校を後にする。そうして向かうのは、やっぱりゲームセンター。ちょうどこの時間、この場所に行けば彼女に会える。そんな確信があった。そうして、彼女に会って伝えたいことがあったから。駅のホームを抜けて、地上へと駆け上がる。ぜえはあと酸素を求め喘ぎながら、舗装されたコンクリートを全力で踏み抜き、赤色の信号機を恨めしく思う。一分か二分そこらが永遠にまで引き伸ばされ、脳内を彼女の言葉がリフレインする。『時間だけは沢山あるんだよ。特にキミには。』分かってる。分かってるさ。でも、どうしても心臓が止まってくれない。身体中の血液が巡るのを止められない。寒色で青色基調の、静かだけが売りだった世界に、突然血が通い始めたんだ。止まっていた、俺が止めてしまっていた時間を、再び動かしてくれたのは、間違いなく彼女だったから。信号が緑に染まる。ガリリと、ローファーがアスファルトで傷つけられ、摩擦で足の親指が熱を持つ。それだけじゃない、全身が燃えるように、星が産まれる瞬間みたいに熱い。汗粒と瞳がギラギラ太陽を反射して、静かな街を飛び抜ける。そうして前のめりに転がるかのごとく、俺は静謐なゲームセンターへとたどり着いた。汗でびしょびしょに濡れた学生服はみっともなく、走った風を受けて髪はボサボサ。本当に、他に形容する言葉が見当たらないぐらい、ここに立っているのは俺だった。ぐっと、ゲームセンターの扉に手をかけてドアノブを捻る。扉が開いた瞬間、ふんわりとタバコの匂いがして。
「...うおっ!ビックリしたあ。どした、そんな汗びっちゃびちゃでー。走ってきたの?」
「....はい!」
「元気いいなあ。いいね、眩しいよそういうの。」
よろよろと、俺は彼女の向かいにある格ゲーの筐体の手前へと座り込む。彼女は相変わらず口にタバコを咥えながら、大きく煙を吐き出した。気を使ってか、吐き出す方向は俺の真反対。聞きたいこと、伝えたいこと。山ほどあるはずなのに、どうしても本人を前にすると形に出来なくなる。こんな時まで、恥ずかしさを息切れのせいにしてしまう自分が、情けなくて仕方ない。今まで出来なかったことが、急にできるようになる訳ではないことを、鋭利に突きつけられる。出来るの積み重ねが、あまりに足りないこと。俺はまだ、スタートラインに周回遅れで立てただけなんだ。水から引き上げられた魚みたいに、言葉が奪われる。せっかく、彼女のおかげでここまで来れたのに。思考が詰まり、俺は切れた呼吸を整えるのに必死になる。
「へいへい疲労困憊ボーイ。そこに座ったってことは、ゴングを鳴らすって事だぜ?」
「...へっ?あ、ちょっと待っ」
「戦場に待ったは通用しないんだよ!ほら、先手必勝!」
彼女は強引に俺が座っている筐体にもコインを投入して、唐突に試合を開始した。俺はそれに対し、半ば反射で対応する。右ストレート、左フック、ジャブ、小パン、小パン、小パン、小パン。最初に戦った時は何が起きたか全く分からなかったが、今ではおおよその動きが把握出来るようになっていた。防戦一方ではあるものの、即死ではない。そんな戦いを数分続けて、結果はドロー。前回の結果から考えれば、中々上々の成績と言えるだろう。
「マジか、実はコソ練とかした?」
「実は、ちょっとだけ。」
ぽかんと口を開けて驚く彼女を見て、純粋に心が温かくなる。この数分、今まであった色々なことが真っ白になって、ぎゅっと詰め込まれたような気がした。貰った優しさとか抱え込んだ葛藤とか、誰かの過去と自分の過去とか、あまりに沢山のものを引っ掻き回して、その分だけ傷跡が横たわる。誇ることの出来ない、そんな醜い傷跡たちを隠すように、俺たちは笑顔を作るんだ。きっと、彼女もそうだから。
「あの...。えっと、実は...。いやそんな堅苦しい話じゃなくて、もっとラフな...。うーん...。あ、ありがとうございました...?」
「急になんじゃそら。ま、感謝されて悪い気はしないけどさ。」
軽く笑う彼女の姿が、青白い光に照らされる。ぽうっと辺りに浮かぶゲームの白光が、深海に降るマリンスノウみたいに仄明るい。言いたいことを上手に伝えるのは、とても難しい。けれど、きっと十分の一は伝えられたはずだ。今できる精一杯の、不器用な言葉。俺はそれから、しばらく彼女とゲームを続けた。そうして何度も引き分けと勝ったり負けたりを繰り返し、日が暮れるとお互い帰路に着く。少しずつ、劇的だった色彩が日常に戻り始める。そんな風に思える、北海道の短い夏が終わりそうな、そんな涼しい夜の帰り道だった。
生徒指導が始まって五日目、あれだけ途方もない作業かと思われていた反省文もとうとう完成し、俺は一人それを抱えて生徒指導室にて先生の到着を待っていた。夏休みはまだ数日残っていて、反省文を書き終えたらまた別の指導が残っているのだろうか。俺はそんなことをぼんやり考えながら、ドアの唸る声を聞いた。
「ラスボス登場!ってところかな。どうだい、流石にキミでもビビるだろ?」
ガラリとドアを開けて、見慣れた空間に異物としての彼女が出現する。出来の悪い不整合な夢を見ているような、そんな感覚が一瞬脳みそを支配するが、それでも不思議と納得感があった。ファミレスで感じた小さな違和感。その違和感がパチッと弾け、綺麗なハマナスが芽を脱ぎ捨て咲いたような。彼女は言葉の裏に、俺の情報を知っていたという事実をずっと隠していた。それは何よりも大人の裏切りで、そして大人の労りでもあった。そうして今の俺には、それを糾弾する程の内蔵に沈殿した澱は、もう無くなっている。
「えーなにその反応。もしかして、バレてた?」
「まあ、なんとなくは。だってファミレスで、『キミでも珍しいんだ?』って言ってたじゃないですか。」
「うっわマジ?てか!だとして、そんな酔っ払いの一言流しといてくれよー。せっかくあっためてた秘密なのにさ。キミ探偵向いてるよ、ホームズくん。」
「ならもう少し、お酒は自制してください。ワトソンさん。」
軽口の応酬。随分と身軽に、自然体になれたものだと自分でもびっくりするほど思う。彼女はいつもみたいに俺の正面へと座り、俺と同じパイプ椅子に背を預けて、俺と向き合った。軋む金属音はない。ホイッスルも、楽器の歌声も、生徒たちの掛け声もない。本当に何も無い、まっさらな空間。確かな静寂が、ゆったりとそこに留まる。多分、これが最後の静止した時間なのだなと、俺は直感で理解した。
「最初から、キミのことはなんとなーく知ってたよ。制服見れば分かるもん。だってアタシ、ここのOBだし。」
「え、じゃあ今からでも先輩って呼んだ方が良かったり...します?」
「最っ悪!十も離れてる年下にそうやって呼ばれるの、なんか変な癖だと思われそうだし辞めて。」
彼女はうげーと大袈裟に体を動かして、それからピシッと背筋を正した。すらりと伸びた綺麗な姿勢に、こっちまで心の襟を正される。そんな独特な空気感が、お互いの視線を交錯させた。彼女の瞳の中には俺がいて、俺の瞳の中には彼女がいる。星と星が、互いの引力で惹き付けられるような、そんな無言の重力を感じた。
「アタシね、実はコンプラ研修で東京からこっちに戻されたんだ。ちょっとやらかしちゃってさ。だから、あんまキミのことは強く言えないし、言う気もないよ。」
「五日間だけだけど。」と、彼女は最後にこれが蛇足であるかのように付け加えた。つまり、今日で彼女は東京に帰るということ。それは学生であり、まだ未成年の俺にとって、別れの挨拶に等しかった。俺はそれを飲み込む覚悟をする時間を作るため、ほんの少しだけ遠回りを願って話を広げる。
「...コンプラ研修って、何したんですか。」
「ちっちゃい女の子。四、五歳ぐらいかな。ちょっとお家が危うい感じで、お姉さん助けてって、道端で縋られて。つい、アタシもあの時子供産めてたら、今こんぐらいだったのかなって思っちゃって。つい、やり過ぎちゃった。」
「でも...それはいい事じゃないですか。シスターとしては、きっと正しいことでしょう?」
「んー、優しいねキミは。まあでも、ぶっちゃけアタシもアタシの為にあの子を救おうとしてたし、結果も...決していいもんじゃなかったよ。だから、やっぱり神様っているんだねえ。」
同じ不良なのだと言うような表現をしたくせに、彼女の理由はどこまで行っても人助けだった。彼女は懐から聖書を取り出して、それから黒くて分厚いその本を机の上にぽんと置く。きっと、俺との対話もコンプラ研修の一環で、彼女はこれを事務的にこなすことも出来たはずだ。疲れたと、そう零すぐらいにくたびれているのなら、そうするのが自然なはずなのに。でも、彼女はそれを選ばなかった。回りくどい対話と、それから話さなくていい事まで、きちんと話してくれた。なら、ここで一歩、俺も勇気を出すべきだ。
「二つ目、教えてくれませんか。」
「...キミ、自分の答えは出たのかな。」
「はい。」
最初は答えが知りたくて、仕方がなかった。けれど、自分で回答を考え始めてそうして拙くとも小さな宝石を生み出せた今。何より、彼女の強い言葉が怖かった。彼女の言葉には、経験に基づいた重みがあって、それに引っ張られてしまうこと。何より、それに引っ張られて、彼女に失望されてしまうことが、他のどんなことよりも怖かった。ただ、ここでその傷つくことからも逃げたら、俺の宝石はすぐに腐り落ちてしまうという確信があって。傷ついても進む。傷ついて、傷ついて、傷跡がかさぶたになったその先に、より良い終着があると信じているから。
「祈りってさ、ポジティブな降参だと思わない?」
彼女はよく笑う。だから、これも笑顔なのだと一瞬思って、でも違うとそう感じた。目の奥の、どこまでも真っ直ぐに広がる暗闇。疲労か、それとも絶望か。彼女の根底には、掬っても掬っても取り除き切れないほど、丁寧に敷き詰められた澱が大量に沈殿していた。口角が上げられ、笑顔ではない表情が透き通って、その先にある黒だけが鮮やかに映る。
「アタシ自身、どうしようもなくなった時。縋るものが、神様以外に居なくなった時。そういう時に頭を低くして、目を瞑って両手を合わせるでしょ?それ以外に、もうなんにも出来ないから。」
彼女は机に置かれた聖書に軽く手をかけ、言葉を続けた。そうしてそれを指先で優しくなぞって、柔らかな表情を崩さないまま太陽を浴びる。彼女の横顔に本物の光がグロテスクに刺さって、俺はただ息を呑む。なんて健やかで、光に踏み潰された白色矮星。
「誰かに祈る時、いつも思うんだよ。それは放棄と何が違って、諦めることと、どれだけの隔たりがあるんだろうって。」
古びた部屋に舞う埃っぽい空気が、チリチリ燃えカスのように太陽の光を反射する。包まれているのか、彼女自身がそれを包んでいるのか、不確かながら溢れる夏の残滓が、ある種の神秘性を帯びてそこに滞留した。
「ただちょっとだけ寄り道をしただけで、実は一つ目とあんま変わんないんだ。前向きに手放していくこと。それがアタシにとっての二つ目。随分、勿体付けちゃってごめんね。」
「でも、声掛けてくれたじゃないですか。」
「んー?あぁ、いや。それは本当に、気まぐれみたいなものだったんだよ。綺麗な動機も、高尚な思想も、あったわけじゃなかったさ。」
「そんな...悲しいこと言わないでくださいよ。俺は、俺は間違いなく、あなたの人助けで変われた一人なのに。」
光は変わらずに、彼女の足元へ影を落とし続けた。影は揺らめくこともせず、淡々と静かに座っている。
「キミは、どこかへ行くたびに傷つくこと。辛くないかい?」
いつか通った、始まりの憂鬱。どこかへ行くたび、何かをするたびに傷ついていく事に、摩耗していくだけのマラソンゲーム。ああと、この問いを聞いて嬉しくなった。彼女もやっぱり、自分と同じ道を辿ってきた一人だった。
「辛いです。苦しくて、嫌だなって思います。でも、傷つかない方が、もっと痛くて寂しいんです。だから、辛くても歩きます。」
風がぶわっと、外を通り抜ける。木々が体を大きく揺らして、木陰が部屋を遮った。彼女の顔を貫く陽光はもう無く、影さえ刹那の帰郷を果たす。彼女からしたら、もうすっかり忘れてしまったであろう原点が、きっとここにはあったんだろう。俺にとっては、本当に一歩手前の出来事。
「......ああ。そう、だね。いい応えだ。」
彼女はまた、透明に笑った。そうして聖書を再び懐へとしまい込み、パイプ椅子から立ち上がる。軋む金属音が、どこか寂しそうに唸り声を上げた。けれど、彼女はドアに手をかける。そうしてピタリと一瞬止まって、最後に俺の方を向いた。
「そういえば、なんで反省文書いてんの?その理由だけ、アタシ聞かされてなかったんだよね。」
「影でコソコソ悪口言われるのが性に合わなくて、同級生...殴...った。」
「っ!はは!元気だ!確かに、イエス様だって気に入らないことがあればブチ切れたりするし、そっちの方が人間らしいよ。あー!そっかそっか。」
吹き出して涙を軽く指先で拭ったあと、彼女は背を向けて教室を出ていった。俺はその背中を見て、少し動けなくなってしまう。震える肩と、キシキシ呻き続ける金属音の声をしばらくの間聞いて、それから窓をガラリと開けて上靴のまま外へ飛び出していく。そうして大声で、思いっきり叫んだ。
「また!会えますか!」
校門の前でちょうど荷物を持って帰路についていた彼女を見つけ、俺はそんな背中目掛けて一直線に声を張る。彼女は振り返りもせず、ただ荷物を持っていない方の手を上げふらふらと振りながら、微かに聞こえてくる聖鐘の音に掻き消えないぐらいの声量で呟いた。
「またね、だよ。数年後、期待してるぜ?」
表情はおろか、顔の輪郭さえまともに見えやしない。それでもきっと、彼女は笑っていたのだろう。いつもみたいに、あの透明な笑顔で。
夏休みが終わる。聞こえてくる本物の波の音を全身で感じながら、俺は完成した反省文を手に海を眺めていた。反省文を書き終えて提出した後、先生が「これは自分用に取っておくといいよ。」と言って原本を差し出してくれた。俺はそれを夏休みの間、どうしようかとずっと抱えながら過ごしてきた。けれど、今日でその短かった休みも終わる。だから、ここで一度区切りを付けようと思い立った訳だ。潮風がベタつき、思いのほか海は茶色く澱んでいる。想像していたよりもずっと綺麗では無い、本物の海がそこにはあった。俺はその砂浜で、丁寧に丁寧に反省文を折って紙飛行機を作る。そうして完成した反省文を太陽に透かして、羽の部分から見える「ごめんなさい」の五文字。俺はそれを、やっぱり自分の欠片のように思う。けれど、深刻にはなりすぎていない。呼吸は自然に、動きは流暢に、俺は丁寧に作った紙飛行機を力いっぱい丸めて、ぐちゃぐちゃの紙くずを作り上げる。そうしてそれを、思いっきり海の方目掛けて投げ飛ばした。軽やかに中指を立てるように、涼やかに透けて笑うように。ここから、続けていこう。俺は海を背に、いつもの帰路へと戻っていく。長い長い道のりの、まだ折り返しにもなっていない旅路で、少しずつ荷物を増やして行きながら。




