陸
「儂は介象。こっちは余祭じゃ」
護衛役の余祭と介象を伴ってさえもなお、賈良は人目を忍んで山道を選んだ。
次第に陽も沈み掛かり、辺りが闇に包まれ始めた頃だった。
介象は懐中から一枚の木札を取り出すと、ふっと息を吹きかけた。
すると――。
二足歩行である。姿は狸のようだが、尾が三つある。顔に輝く大きな隻眼が一行の足許を照らした。
その木札が転じたのは、妖しの讙だった。
「――――⁉」
突如として現れた得体の知れないものに、賈良は眼を円くして言葉を失った。
「讙という妖しじゃ。従順な上に耳鼻も利く。追っ手が近付けば知らせてくれる筈じゃ」
「ほう。このような妖しもおるのか」
余祭は感心すると、笑みを浮かべ讙の頭を撫でた。気持ち良さそうにした讙が余祭の笑みを照らしている。余祭も幾分か妖しというものに慣れてきたようだった。
一方、驚きを隠せずにいたのは賈良だった。
「な、何とも、方士とは奇怪なことをする……」
一行は、讙の明かりを頼りに歩き出した。
「何故追われている? 話してくれぬか。力になれるやもしれん」
「…………」
歩を進めながら言った余祭に、賈良は隣を歩く奇怪な生き物の讙を見遣った。
二人の方士とは、ひょんなことから連れ立つことになった。事の次第を話せば、これまでの禍が転ずるような、賈良にはそんな気がした。
「……元凶は寇謙昭。陳国の大夫だ」
賈良は静かにこれまでの全てを語り出した。
木立の隙間からは綺羅とした星々が覗いている。
時折、讙が放つ明かりに照らされ、山中に潜む動物の眼が光って見えた。
斜面を登るような山道が続いている。
「欲じゃ。人が創りし制度、階級、文化――。全てが人の欲を生み出す源となってしまった。性善の者でさえ、欲が人を性悪に変えておる。これが当代の浮世の業。じゃが、欲に飲まれし者を野放しにしては、禍が禍を呼び、やがて禍は妖しをも呼ぶ」
賈良より事の成り行きを聞いた介象は、眉宇を顰めた。
一方、途端に慌て出したのは、余祭だった。
「その廉武という童子は、お主の住まいにひとりで隠れているというのか――?」
「いや、俺が育てておる孤児、娘の賈粛と一緒だ。歳は廉武と同じ頃だろう」
「何と――⁉ 童が二人きりでは心細かろう。追っ手が迫っては危険極まりない」
余祭は歩を止めた。懐中から木札を一枚取り出すと、ふっと息を吹きかけた。
すると――。
見る見るうちに形を変えたその木札は、忽ち巫女の容姿の若く美しい手弱女、巫支祁に転じた。
「巫支祁よ、此処より離れた竹林の草庵に、廉武と賈粛という童子が二人でいる。追っ手が迫っておるやもしれぬ。行って誰にも見つからぬよう匿い、手助けしてやってくれ」
讙の隻眼が二人を照らしている。
真摯な眼差しで命ずる余祭に、巫支祁は頬を紅潮させてこくりと頷いた。
余祭の行為を見遣った介象は、眼を細めると口辺に微笑を刷いた。
「巫支祁だけでは心許ない。草庵を探すだけでも苦労しよう」
介象も懐中から木札を一枚取り出した。
息をふっと吹きかけると、それは額に一角を生やし、五本の尾を持った白い豹のような妖しへと変貌した。
「孟極――。別名、天帝の猟犬。攻撃も秀でるが探索は随一。孟極よ、賈良の匂いを嗅ぎ、それを辿るがよい。巫支祁を負って共に草庵へ向かえ」
孟極は賈良の匂いを嗅いだ。巫支祁を背に乗せ駈け出した。それを讙の明かりが追っていたが、ふっと消えると暗闇しか見えなくなった。
「お、驚いたな……。方士とは、妖術を使うのか……?」
またしても眼を剥いた賈良に、介象は不気味な笑みを浮かべて応じた。
「妖術ではない。我等方士が繰るは、方術じゃ」
「これで二人の童子も安心であろう。淳于甫とやらの住まいは、まだ先か?」
「いや……」
尋ねた余祭に、賈良は坂の上を指差して続けた。
「……この坂を登り切ったところに淳于甫どのの住まいがある」
余祭と介象は、賈良の指差した方に眼を向けた。小さな灯りが見えた。
「さて、その淳于甫とやらは、何と言うであろうのう?」
「今でこそ隠居しているが、曾ては廉瑾さまにもお仕えしていた方。きっと、力になってくれる筈だ」
賈良は、期待の眼差しで小さな灯りを見遣った。
「よし。では、行こうか」
余祭は、賈良と介象を先導するようにして歩き出した。
傍らに侍る讙が、その足許を照らしていた。
住まいと言っても、小屋のようなものだった。
屋根のついた竃場の壁は三面しか囲っておらず、住居は竃場に隣接するように天日干しの煉瓦を積み上げ四面を囲っている。枢からは微かな灯りが漏れていた。
「讙よ、御苦労であった」
介象がそう言うと、隻眼の妖しの讙は、すうっとその姿が消え入った。木札に戻って地に落ちた。
介象がその木札を拾って懐中に仕舞いこむと、賈良が訪ないを入れた。
「夜分に申し訳ない。賈良だ。入れてくれまいか、淳于甫どの?」
訪ないから間もなくして枢は開かれた。
「――――⁉」
姿を現した淳于甫の姿に、賈良は絶句した。
無理もない。晒した上半身は、斬り傷だらけだった。囲炉裏の灯りを背にし、躰の前面が陰となっていてもわかるほどの生傷だった。細身だったが、骨が浮き出ている訳ではない。隠居してもなお、引き締まった躰付きだった。
白い頭髪は乱れ、八字髭と顎に垂らした一寸ほどの髯も白んでいる。冴え冴えとした眼光を放った淳于甫は、その面貌に微笑を刷いた。
「遅かれ早かれ勇士が訪ねて来るとは思っていたが、やはり賈良だったか」
淳于甫は、その眼光を賈良の後ろに侍る余祭と介象に向けて尋ねた。
「……この者らは?」
「旅の方士、余祭どのと介象どのだ。奇怪な術を使う。力になってくれるそうだ。それより手当だ、淳于甫どの。その傷はどうしたというのだ?」
「…………」
淳于甫は、余祭と介象を交互に見遣った。
「入れ。話はそれからだ」
三人を招き入れた淳于甫は、天井に吊るしてあった干し肉を幾つか取ると、囲炉裏の火にくべた。
「腹が減っているだろう。そこに酒もある。好きに飲んでくれ」
淳于甫は顎で部屋の隅にある甕を指すと、床几にゆっくり腰掛けた。
「これは有り難いのう」
介象は、すぐさま甕に飛びついた。
賈良は、床几に座った淳于甫の傷を見遣った。血は止まっているが、斬られてから日の浅い傷だった。
賈良は部屋を出ると、隣の竃場から桶に水を汲んで戻ってきた。
「少し沁みるが、我慢してくれ。この薬を塗って二日もすれば、たちどころに傷口は塞がる筈だ」
賈良は、小箱から貝殻に敷き詰められた塗り薬を取り出すと、水に濡らした手で薬を延ばし、淳于甫の傷口に塗り付けた。淳于甫の躰は熱を持っていた。忽ち清涼感のある強烈な匂いが室内に充満した。
囲炉裏の傍に胡座した余祭が、興味深げに賈良の手技を見遣っている。
そんなことは他所に、介象は甕から椀に酒を注ぎ入れると、ちびちびと飲んでいた。
「すまぬ。廉瑾さまをお救いすることはできなんだ……」
痛みに堪えるように渋面を作った淳于甫が語り出した。
「先日、配下だった者が報を齎した。寇謙昭が廉瑾さまの許に細作を放った――と。それも相当な数ということだった。儂は、加勢に向かった……」
「…………」
賈良と余祭は聞き入っていた。介象だけが、酒を愉しんでいた。
「廉瑾さまを急襲した細作は、凡そ三十。それに対抗したのは、廉瑾さまの傍に仕える細作五人と儂だった。暗闘の末、全て仕留めはしたが、儂らも三人失った。そこへ寇謙昭は、矢継ぎ早に廉氏の集落へ軍勢で猛攻を仕掛けてきた……」
「廉瑾さまを救いに向かったと……?」
手を止めた賈良の問いに、淳于甫は寂しそうに微笑んだ。
「廉瑾さまをお守りしようと傍に駈けつけた。紅蓮の炎が踊る中、一族を守ろうと襲来する寇謙昭の兵に、剣一本で立ち向かっておった」
「淳于甫か? 隠居した者がこんなところで何をしておる?」
廉瑾は、次々と来襲する寇謙昭の兵を斬り捨てながら声を荒げた。
全身を黒の装束で包んでいる。短刀を逆刃に持った手負いの淳于甫は、蝟集する寇謙昭の兵等に太刀風を浴びせながら廉瑾の許へ身を寄せた。
「廉瑾さま! 儂が盾になりまする。早くこの集落から脱出を!」
差し迫ったような淳于甫の言に、窮地の廉瑾は呵々と大笑した。向かって来る兵に廉瑾の一閃が唸った。
「一族を見捨てて遁げるようでは、寇謙昭より劣る所業だぞ、淳于甫!」
淳于甫は、廉瑾の前に出て、寄せる兵団に数多の短刀の閃光を走らせた。
「貴方さまが死んでは、寇謙昭の思う壺です! 此処は生き永らえ、反撃の狼煙を!」
廉瑾は休息するように剣を下ろすと、寂しそうに言った。
「寇謙昭か……。奴は、欲に飲まれた。例え、我が一族が寇謙昭に滅されようとも、必ずやその曲直正邪を見ている者がおる」
淳于甫は、短刀を走らせながら後方を一瞥すると声を張った。
「誰が見ていると申される……?」
阿鼻叫喚が響き渡り、大炎が燃え盛る中、廉瑾は涼やかな微笑を刷いて言った。
「……天だ」
「――――⁉」
すると、雄叫びを上げた廉瑾が剣を振り翳して淳于甫の前に出ると、寇謙昭の兵の群れに躍り込んだ。
「淳于甫よ、最後の指示だ‼ お前は生き延びよ‼ 生きて、儂の人生が正誤のいずれであったか見定めてくれ‼」
「れ、廉瑾さま――」
「早く往け‼ お前と出会えて愉しかったぞ、淳于甫――‼」
蝟集する兵の群れに囲まれた廉瑾は、その姿が見えなくなった。
淳于甫は歯を食い縛ると、後ろ髪引かれる思いを断ち切るようにして踵を返した。
集落の屋根と屋根を跳躍するようにして、手負いの淳于甫は闇に姿を消した。
「……笑いたくば笑え。援けに向かった筈の儂が、廉瑾さまに援けられたのだ」
「……くっ!」
薬を塗り終えた淳于甫の傷口に、包帯を巻き付けていた賈良の面貌が苦悶に歪んだ。
「…………」
余祭は、囲炉裏の炎を見詰めたまま、黙って話を聞いていた。
「好い好い。その廉瑾とかいう者、なかなかの壮士だったようじゃのう」
ちびりと酒を口に含んだ介象は、上機嫌だった。
「そして……廉晃どのは連座で自害を迫られ、公主どのも死なせてしまった」
「何だと――⁉」
渋面を晒して口惜しげに言った賈良に、淳于甫は声を荒げた。
賈良は、淳于甫の躰に再び包帯を巻き付けながら、廉晃と公主、そして、廉武のことを語り出した。
その間に――。
余祭に身を寄せた介象は、酒臭い息で耳打ちした。
「まだまだひよっことは言え、方士の能力は特殊じゃ。くれぐれも浮世に介入し過ぎるでないぞよ。此奴等の運命を狂わせることになる」
「…………」
余祭は、俯くようにして囲炉裏の炎を見遣った。香ばしい匂いがしてきた干し肉を無造作に手に取ると、千切って口に放り入れた。
「何か算段はあるのか、賈良……?」
囲炉裏の炎を見詰める淳于甫の瞳が、燃えているように映って見えた。
包帯を巻き終えた賈良は、どっかりと床に腰を下ろした。焼けた干し肉を手に取ると、一息に口の中に入れ熱そうに頬張った。それを飲み込むと、胡座した膝に肩肘張って両手を置いた。
「賈粛を廉武と偽る」
「――――⁉」
眼を剥いて賈良を見遣った淳于甫を見据え、賈良は意を決したように続けた。
「廉武に成り代わった賈粛と俺が死罪となろう。代わりに淳于甫どの……」
「…………」
「……本物の廉武を預かってはくれまいか?」
「…………」
淳于甫は、口籠った。
余祭は、残りの干し肉を口に放り込むと、介象の干し肉を取ってやった。咀嚼しながら、黙って二人の遣り取りに注目した。
介象は徐に懐中から一枚の木札を取り出すと、ふっと一息吹きかけた。
すると、その木札は大きな蛤のような妖し、車螯に変じた。何を思ったか、酒で満たされた椀の中に車螯を投じていた。
「賈良よ……」
淳于甫が口を開いた。冴えた眼差しで賈良を見詰めている。
「……廉武を護り育てるのと死ぬのとでは、どちらが容易いか?」
淳于甫の問いに、賈良は鼻で笑って応じた。
「それは死ぬ方が容易いでしょう。廉武を護り育てる方が難しいに決まっております」
「儂は老いておる。廉武が成人するまで育てられるかどうかもわからん……」
「そ、それは……」
賈良は、言い淀んだ。
それを眼にした淳于甫は、口辺に微笑を刷いて続けた。
「若い方が難しい方を引き受けい。老人には楽をさせよ。儂が容易い方を引き受けよう。廉瑾さまからの命はお主に託すぞ、賈良」
「じ、淳于甫どの……」
「ならば一計がある。此処まで話を聞いて手を拱いているようでは、俺が俺でなくなる。余計な世話だろうが、一肌脱がせて貰おう」
賈良と淳于甫が声の主に顔を向けた。
眉間に深い皺を寄せ、憤りを隠しきれず鼻息を荒くした余祭だった。
隣に座した介象が、余祭に酔眼を向けていた。それは、冷ややかな視線だった。
余祭は、案じた一計を語気強く語り出した。