伍
「『介』の文字には、扶ける、人を引き合わせる、鎧を着ける――。他にも、堅い、ひとり、大きい――などの意味が込められておる」
介象は得意げに説きながら、余祭を先導するように山道を闊歩していた。
「一方、『象』の文字には、有り様、標、裏方――。この他に、則、道理、掟――などの意味が含まれておる」
「……何が言いたい?」
介象の後に続くように歩いていた余祭は、何処かその足取りが重い様子だった。
「介象という姓名は、天より与えられしもの。役割を授けられた者を指しておるのじゃ」
介象は歩を止めると、振り返って余祭に真摯な眼差しを向けて言った。
「この名を受け継げ、余祭」
「何故、俺が……?」
「宿命じゃ。得てして、儂とお主が出会ったのも宿命。時代は大きく動こうとしておる。天が求めておるのは儂ではない。新たな介象じゃ」
「……方術を教えてくれとは言ったが、弟子にして欲しいと頼んだ覚えはない」
「なっ――⁉」
介象は眼を円くすると、唾を撒き散らしながら銅鑼のような声音で荒げた。
「だ、誰のお陰で霊気の繰り方を学べたと思うておる⁉ 儂が教えてやらねば、渓嚢にさえ恐れを抱いておったくせにして‼」
介象は、余祭に向かって捲し立て続けた。
「儂がおらねば、干将と莫邪が妖剣であることも知らぬままだったのだぞ⁉ 妖しを僕にできたのも、儂の教えがあったからではないのか⁉ 儂の教えを受けたのならば、それは最早弟子ではないか⁉ 否、弟子であろうが‼」
「…………」
余祭は重い足取りを進めながら、介象の弁舌を聞いていた。聞いていたが、頭には入っていなかった。
無理もない。余祭は這う這うの体だった。全身が斬り傷だらけだった。武技に秀でる妖し、計蒙を僕にするのに、余祭も無傷では済まなかったのである。
大小の傷には、介象の方術により霊気が込められた包帯が巻かれていた。
呪縛帯――。
傷の痛みを消し、治す効果があった。渓川からくべた澄んだ水に念を唱えながら霊気を込める。その符水に包帯を浸し、乾かしてから幾つもの奇怪な文字を書き込んでいる。三日も巻いていれば、たちどころに癒えるという。
今や余祭は、木乃伊が漆黒の襤褸を纏ったようになっていた。
斬り傷の痛みは失せているとは言え、複数の手練者を一度に相手にした全身は、疲労が蓄積していたのである。
今の余祭にとって、介象の弁舌は億劫なものでしかなかった。
「……わかった。わかったから……少し静かにしていてくれ、介象」
口辺に微笑を刷いた余祭の面貌には、疲労が滲んでいた。
「…………⁉」
はっとした介象は、藜の杖の先で地を叩くと、にやりと笑った。
「蓄積した疲労に加え、呪縛帯の効果が更に体力を奪っておるのであろう。それにしてもようやった。遅れて更に二体現れたときは、流石の儂も肝を冷やしたがのう」
嵩山において、余祭は、武勇に優れた龍頭人身の妖し、計蒙の三体を己の僕とすることに成功していた。
「さて、今宵はゆっくり休める宿でも探すかのう」
介象が、疲労困憊の余祭に眼を細めて呟いた。
その刹那だった。
近くの鬱蒼とした藪が揺れたと思いきや、姿を現したのは熊のような人だった。
「――――⁉」
見れば、熊虎の軀幹を薄汚れた白い袍で包んでいる。鬼瓦のような相貌を戴き、その半分が黒々とした髭で覆われていた。豊かな黒髪は白巾で一束にし、小脇に年季の入った漆塗りの小箱を抱えている。
医の徒、賈良だった。
その賈良は、突如として眼前に現れたような余祭と介象には見向きもせず、一目散に駈け去ってしまったのである。
「な、何だ……?」
驚きの表情を晒した余祭は、駈け去る賈良の背を眼で追っていた。
「白袍に小箱……。風体から医の徒と察するが、こんなところに急患でもおったのかのう……?」
「医の徒……」
余祭は、小さくなる白袍の背に視線を向けたまま、独り言ちるように鸚鵡返した。
すると――。
また藪が揺れた。先ほどよりも大きい揺れだった。加えて、怒声のような荒々しい叫び声も聞こえてきた。
「待て‼ 逃げるな、賈良――‼」
「逃げても無駄だ‼ さっさと縄につけい‼」
どれも武具で身固めし、戟や剣を手にしている。
藪から続々と現れたのは、十人ほどの兵たちだった。どう見ても、先ほど駈け去った医の徒を追っているようだった。
「あの医の徒、賈良というか……。医の徒が捕吏に追われるとは、珍しいこともあるものよのう」
介象は、賈良を追って行った兵たちの背に興味の眼を向けた。
「人相は良くなかったが、悪事を働くようには見えなかった……」
駈け去る兵たちの背に、冴えた眼差しを据えた余祭が言った。
「同感じゃ。流石は王たる資格を持っておった者。眼は確かじゃな。援けてみるか? 医の徒、賈良とやらを」
不敵に顔を歪めた介象が、余祭を見遣った。
刹那――。
余祭は旋風の如く兵たちを追った。双眸は烱々としていた。蓄積した疲労を微塵も感じさせなかった。軽々と跳躍すると、木々の枝という枝を飛ぶように飛び渡り、瞬く間に兵たちの前へ躍り出た。
「――――⁉」
突如として、空から降ってきたような黒い大きな獣に、捕吏の兵たちは仰け反って怯んだ。
俄かに追っ手の声と足音が止んだと思った賈良は、徐に振り返ると、その足は止まり思わず声が漏れ出ていた。
「な、何だ、ありゃあ……?」
よく見れば、それは漆黒の襤褸を纏った偉丈夫だった。
「医の徒ひとりに武器を掲げ、この人数で追い立てるとは穏やかではないな」
余祭は、冷ややかな眼光で捕吏たちを見渡した。
「そ、そこを退け! 我らは罪人を追っておるのだ。邪魔立てするとあらば斬る!」
捕吏の長のような兵が、一歩踏み出し得物を構えて虚勢を張った。
それに続いたように、残りの兵らも武器を手に身構えた。
「おい! 医の徒、賈良に問う! 此奴等はお主を罪人と言っておるが、真か?」
仁王立った余祭は、後方を一瞥すると大音声で問い質した。
漆塗りの小箱を小脇に抱えたまま、肩で息をしたような賈良は、眉間の皺を深くすると鬼のような形相で言い返した。
「罪人となろうが地に落ちようが、俺にはどうしてもやらにゃいけんことがある‼ こんなところで捕まる訳にはいかねえ‼」
「では、今から儂等を用心棒として雇うのはどうかえ? 安くしとくぞ?」
不気味な笑みを浮かべ、銅鑼のような声音の介象が賈良に持ち掛けた。いつの間にか、介象の姿は賈良の隣にあった。
「……な、何だ、あんたらは?」
狼狽した賈良に、介象は更に不気味な笑みを濃くして言った。
「我等は旅の方士、余祭と介象なり――」
「方士――?」
息を荒げたままの賈良は、首を傾げると訝しんだ。
「雇うのか? 雇わんのか? さっさと返答せい」
興を失ったような介象は、真顔になると右の小指で鼻を穿りながら質した。
突然として現れた漆黒の襤褸を纏った二人は、得体が知れなかった。方士というのも胡散臭かった。
しかし、このまま逃げても捕まるのは時間の問題だった。どうせ捕まるのならば、淳于甫と会って話をしてからだった。
賈良は、藁にも縋る思いで返答した。
「――雇う‼」
「おい、我が弟子よ。存分に蹴散らしてよいぞな」
介象は口許に手を添えると、前方にある余祭の背に声を張った。
「弟子になるとは、言っておらんがな……」
ぼやいた余祭は、腰に佩びた三振りの一本を抜いた。冴え冴えとした光を帯びた青鋼剣の眉間尺だった。
剣身をまじまじと見遣った余祭は、再びぼやいた。
「何時ぞやを思い出すな、眉間尺よ」
眉間尺が陽光を照り返している。余祭の言葉に応じているようだった。
「ぬ、抜いたな⁉ 斬れ! 此奴を斬り捨てろ!」
捕吏の長が声を荒げて命じると、十人ほどの兵は一斉に余祭へ襲い掛かった。
刹那――。
余祭の姿が、ふっと消えたようになった。眼前にいる筈の余祭はもういなかった。
「――――⁉」
兵たちは余祭を探すように右往左往していると、その姿は背後にあった。どういう訳か、既に眉間尺は鞘に収まっている。
恐れを振り払うかのように、兵たちは武器を振り被ると丸腰の余祭に再び猛進した。
すると――。
兵たちの戟や剣は、どれも一斉に折れてしまったのである。否、よく見れば斬られている。戟は柄が真っ二つに斬られ、剣も柄の根元から綺麗に斬られていた。
「ヒッ――‼」
「ば、化け物だ――‼」
忽ち眼を剥いて戦慄した兵たちは、使い物にならなくなった武器を放り投げると、我先にと遁走してしまった。
「――――⁉」
眼前の出来事に、賈良も呆然と立ち尽くしていた。
はっと我に返った賈良は、懐中から銭を取り出すと、ぞんざいに介象の手に渡した。
「これで足りるであろう」
手渡すと、歩を速めて先を急いだ。
介象は、手渡された銭に眼を落しながら銅鑼のような声音を張った。
「生憎、釣りは持っておらんでなあ。この額では、まだお主の護衛役を続けねばならぬが、どうするかね、賈良よ?」
ぴたと、賈良の歩が止まった。
「何処か宛てがあるようだな。我らを供にすれば、必ずや送り届けるが」
歩を寄せた余祭が、賈良の背に微笑を向けた。
賈良は振り返った。面目なさそうな面持ちで余祭と介象を交互に見遣ると、拱手して言った。
「……忝い」
そういうことに相成った。