肆
「武に傾倒するが故、生と死の神、その近くを好む」
近くに祠があった。定期的に人の手が入り、綺麗にされているようだった。祠の周囲は開けているが、少し歩けば四方は木々に囲まれていた。
今や余祭と介象の姿は、嵩山の中腹に在った。
いつの間にか介象は、太い幹の木立の上で、頬杖を突いて枝に寝そべっていた。
開けたところには、ぽつんとした祠のほかに、余祭が佇んでいる。
「剣を抜けば現れる。勝負を挑まれたと早とちりしてな。それも何体現れるかわからぬが、どれも手練者じゃ。敗ければ命はないかもしれぬ」
「勝てば、何体でも僕となるのか、介象?」
「然り」
「……面白い!」
不敵に顔を歪めた余祭は、腰に佩びた三振りから、さっと一振りを抜いた。冴え冴えとした光を放った青鋼剣、眉間尺だった。
余祭は、眉間尺を眼前に構えた。
すると――。
一陣の風が吹いた。
「――――⁉」
余祭は息を飲んだ。
ぼうっと、眼前に姿を現したのは鎧を纏った三体だった。剣、戟、槍をそれぞれ手にしている。躰は人、頭は龍の妖しだった。
「ほう、三体か。武威に魅かれし妖し。時に血に飢え、飄風暴雨に紛れ人をも襲う龍頭人身の妖し、その名も計蒙」
木立の上で、頬杖で寝そべった介象が不気味に笑った。
旋風のような迅さだった。
三体の計蒙は一挙に余祭へ急襲した。次々と余祭に太刀風を浴びせる。
それは、舞うような剣技だった。
龍頭人身が繰り出す凶刃を薙ぎ、防ぎ、払い避けると、余祭は三体と交錯して擦り抜けた。
振り返った三体の龍頭人身は、驚愕した表情を余祭の背に向けた。
「少しは愉しめそうだな」
余祭は、徐に眉間尺を鞘へと納めた。代わって抜き放ったのは二振りだった。
二振りの剣は、陽光を妖しく反射した。
右に振り翳したのは、剣身に龜文が浮かんだ雄剣干将、左に掲げたのは漫理を浮かせた雌剣莫邪だった。
「ほう。三体の計蒙に干将と莫邪の二本で挑むか。妖しに妖剣とは乙なことじゃ」
木立の上の介象が、感心の声を上げていた。
三体の計蒙は遠吠えを上げると、次々と余祭へ斬り向かった。
余祭は計蒙たちと二合、三合、干将と莫邪の二剣で渡り合っている。眉間尺を手にしていたときとは、まるで別人の身の熟しだった。
五合、六合――。計蒙の腕は読めた。唸るほどの手練者だった。槍の穂先を躱しても、剣の計蒙が斬り込み、戟の一閃が余祭の耳元で風を起こした。どれも肌に粟が生じるほどの勢いだった。
余祭は、雄叫びを上げた。
それに怖じたように三体の計蒙が後ろに飛ぶようにして距離を取った。
全身を顫わせて、余祭は大きく息を吸った。
「これ! 霊気を繰るのを怠るでない! 斬ったら僕として念じるのを忘れるでないぞ!」
後ろから介象の檄が飛んだ。
「……これほどの手練者、そうはおらんぞ。霊気を繰る間もないほどだ」
呼吸を整えながら、余祭はぼやいた。
刹那――。
三体が旋風の如く寄せると斬りつけてきた。
応じたように、余祭も突っ込んだ。
鋭い槍を躱し、計蒙の腕を干将で斬り飛ばす。突き出された計蒙の剣は腰を捻って躱す。勢いが余って転がった余祭に戟の斬撃が降ってきた。それを転がりながら躱すと、戟の計蒙を莫邪で突き、その計蒙を盾にするようにして立ち上がった。
息が上がりつつあった。
余祭に斬られた槍と戟を手にした計蒙が、すうっと消えていく。残ったのは、剣の計蒙だけだった。
互いに跳び退さると、すぐさま立ち向かった。
眼の前には剣――。
余祭は、左から振り下ろされる斬撃を莫邪で受けながら、干将の一閃を計蒙の首元へ走らせた。
龍の首が血飛沫を上げ、宙を舞った。
それが地に落ちると、頽れた胴と共に薄くなって消えていた。
余祭は大きく息を吸った。息は苦しかった。いくら吸っても足りないほどだった。
肩で息をするような余祭に、木立の枝に寝そべった介象はやれやれ貌を晒した。
「斬ったのなら、己の僕となるよう念じよと言うたであろうに……」
余祭の呼吸が整うのも束の間だった。
一陣の風が吹いた。
余祭は息を飲んだ。
ぼうっと、再び余祭の眼前に姿を現したのは、鎧を纏った三体の計蒙だった。剣、戟、槍をそれぞれ手にしている。斬られた瘡は、跡形もない。
「こりゃあ、厄介な相手だったな……」
余祭は腰を落とすと、干将と莫邪を低く構えた。
「武技の鍛錬、霊気の研磨、念唱の機微――。奴にとっての方士への第一歩は、これくらいが丁度よかろうて」
木立の上の介象は、頬杖を突いて寝そべったまま、退屈そうに欠伸した。
辺りには、剣戟の音が木霊している。
余祭の雄叫びが、また聞こえていた。
大きな邸だった。
自邸でその一報を耳にした寇謙昭は、忽ち面を朱にして声を荒げた。
「どういうことだ――⁉」
幽閉していた公主と廉武が姿を眩ませたという。
城中の暴室に閉じ込め、番兵を二人配していたが、どういう訳か、その番兵が二人とも眠りこけている間に逃げ出したようだった。
寇謙昭は報を齎した兵を睨みつけると、怒気を孕んだ声音で命じた。
「こうしてはおれぬ。宮中へ戻る。馬車を用意せい!」
萎縮して駈け去った兵卒に続き、寇謙昭は肩で風を切って外に向かった。
一方――。
「粛! おい、粛や! 帰ったぞ!」
草庵に賈良の慌ただしい声が響いた。
「お帰り、おっ父……?」
聡明そうな瞳をしている。
草庵の奥から姿を現したのは、十歳ほどの女児だった。賈良と同じような白袍を纏い、長い髪は白巾で一束にしている。名は賈粛といった。
賈良と賈粛は親子のように見えたが、本当の親子ではなかった。
賈良が医術の研鑽に諸国を放浪していた折、戦乱で親を亡くし、行き場を失った赤子の孤児を引き取っていた。
その赤子に粛と名付け、己の子のように育んだ。今では、本当の親子のように絆は深かった。
その賈粛が、円らな瞳を見張った。
無理もない。巨軀の賈良の後ろから怖ず怖ずと出てきたのは、同じ年頃の男児だったのである。
「その子は……?」
可愛らしい笑みを携え、首を傾げた賈粛に、父の賈良は捲し立てるように言った。
「こいつは、廉武という。俺の恩人の子息だ。すまないが、粛、急いで廉武に女児の袍を着せてやってくれ」
「え?」
「急げ! もし誰かが来て尋ねられても、男児はいないと言え! いいな?」
そう言うと賈良は、踵を返してそそくさと草庵から出て行った。
「え? え? 何? おっ父? どういうこと?」
「廉武を匿え! 守ってやってくれ!」
言い置いた賈良は、再び何処かへ出て行ってしまった。何だか至急の用件があるようだった。
「…………」
草庵には、童の廉武と賈粛が取り残されたようになった。
賈粛は廉武を見遣った。
眼が充血し、悔しげな面持ちで俯いている。しこたま泣いた後のようだった。何か訳ありであることは、幼い賈粛でも容易に察せられた。
「おいで」
賈粛は、廉武の手を取った。
「大丈夫。心配しないで。おっ父が守れと言ったんですもの。必ずあなたを守り通すわ、廉武。お腹は空いてない?」
にことした笑みを浮かべながら、賈粛は草庵の奥に廉武を誘った。
急ぎ足の賈良は、懐中から一本の簪を取り出すと、悲痛な面持ちでそれに眼を落した。
思慮もなしに、躰が勝手に動いていた。
公主と廉武を幽閉から救い出せたのは良かった。
しかし、その公主は賈良に廉武を託し自害してしまった。亡骸は、川辺の近くの大きな木立、その根元に凭れ掛かるようにそっと安置した。別れを惜しむ廉武を急がせ、竹林の草庵まで駈けに駈けた。
考えてみれば、一介の医の徒が、ひとりで抱えきれるような事態ではなかった。
大夫の廉瑾、その一族が皆殺しの憂き目に遭い、息子の廉晃と嫁の公主まで自決してしまった。廉氏の生き残りは、廉晃と公主の一粒種、廉武だけになってしまったのである。
草庵に廉武の身を隠した賈良は、誰かに事の次第を伝え、今後の対応を相談したいと思い始めていた。
ただし、その相手も信の置ける者でなければならない。
思案を巡らせた賈良の脳裏に浮かんだその相手は、唯ひとりだけだった。
淳于甫――。
曾て、哀公の父である先代の君主、成公に仕え、その後、廉瑾に仕えていた細作だった。賈良も任務で怪我を負った淳于甫を幾度となく診ていた。誠実な人柄から、廉瑾とも深い仲であることが頷けた。
その淳于甫は、既に還暦を迎え、田舎に戻り隠居生活を送っていた。
公主と廉武の失踪が露見し、賈良に追っ手が迫っているかもしれなかった。
馬で淳于甫の許に向かっては目立ち過ぎる。徒歩で向かってもそれほど遠くない距離に淳于甫の田舎はあった。
「人目を忍び、迂回して淳于甫どのの田舎を目指すしかないな」
独語した賈良は、公主の簪を懐中に仕舞い込むと先を急いだ。自ずとその足は早まった。
宮中に戻った寇謙昭は、配下の者を使って情報を集めさせた。
当然のように玉座に在った寇謙昭の許には、続々と報が齎された。
淑女を背負い、急患だと声を上げながら宮廷から出ていった医の徒がいたという。その医の徒には、男児が従っていたとの報もあった。
暴室の番兵は薬で眠らされ、その隙に公主と廉武を連れ去っている。
その医の徒は、厳つい面貌の半分が黒々とした髭で覆われていたらしい。
寇謙昭には心当たりがあった。
「医の徒でこの人相……。薬を使ってこのような芸当ができる者は、陳国に唯ひとりしかおらぬ……」
寇謙昭は歯軋りすると、玉座から腰を上げ大音声を放った。
「鮑敍よ‼ 直ちに追っ手を放ち、姿を晦ませた公主と廉武を探し出せ‼ 三日以内に見つからねば、国内に住まう十歳前後の男児を全て抹殺する‼」
居並んだ文武百官が、身を顫わせ戦慄している。
「公主と廉武を逃がしたのは、医の徒、賈良に違いない‼ 賈良を見つけて此処に連れて来い‼ 暴室の警護をしていた番兵は即刻首を刎ねよ‼」
「お待ちください、寇謙昭さま」
戦慄するばかりの文武百官の人垣から、ずいっとその身を前に運び、拱手して述べた者がいた。
寇謙昭は、その声の主にぎろっと環眼を向けた。
燕頷虎髭で頭に紅幘を戴き、鎧を纏った勇壮な武者だった。
「顔岐か……。何だ?」
詰まらなそうに言った寇謙昭は、どっと玉座に腰を下ろすと、頬杖を突いて顔岐の言葉を待った。
「三日以内に公主と廉武が見つからねば、十歳前後の男児を皆殺しにするというのは、やり過ぎではござらぬか? 暴室の番兵もです。落ち度はあったやもしれませぬが、斬首では刑が重すぎまする」
顔岐は、怖じることなく爛とした双眸を寇謙昭に向け抗弁した。
国内の十歳前後の男児に何ら罪はない。廉武でさえ何ら罪を犯した訳ではなかった。加えて、暴室の番を務めていた兵卒は、顔岐の部下でもあったのである。
「黙れ、顔岐」
「…………」
頬杖のままの寇謙昭は、顔岐に冷ややかな視線を向けて続けた。
「儂に意見するとはいい度胸だ。少しくらい哀公さまに眼を掛けられておるからといって調子に乗るな。貴様は既に我が配下に編入されておる。さっさと公主と廉武、賈良を探してこい」
「…………」
拱手したままの顔岐は、玉座の寇謙昭を睥睨した。
寇謙昭はそれを意にも介さず玉座を立つと、宮廷を後にした。
依然として顔岐は、玉座を睨んだままだった。胸中にある寇謙昭への憎悪が、膨らんでいくのがわかった。
将軍の鮑敍は、兵を総動員すると追っ手として四方に放った。
国中に放たれた兵たちは、猟犬の如く三人の足取りを追った。
明くる日――。
意外なことに、他愛もなく発見されたのは公主だった。
城郭から北の原野の先に流れる大河の畔だった。
公主はそこにいた。川辺の木立の幹に身を擡げさせたような恰好で、眠っているようだった。その首元には鋭利な釘のようなもので刺された痕があった。
既に公主は、この世の者ではなかった。
その急報に、鮑敍と顔岐も騎馬で現場に馳せ寄せた。
「間違いない。公主だ」
遺骸の顔に冷たい視線を投げた鮑敍は、吐き捨てるように言った。
すると、ひとりの兵卒が鮑敍に慌ただしく身を寄せると、拱手して告げた。
「鮑敍さま、廉武の方は近隣にも遺骸どころか姿がありませぬ」
「まあ良い。どちらにしろ手間は省けた。残るは小僧の廉武と賈良。一緒にいる筈だ。まだ遠くへは行っておるまい。此処より北を隈なく探せ。山中もだ」
「はっ」
鮑敍の精悍な面貌に不気味な笑みが浮くと、後方に侍った顔岐を振り向いて続けた。
「部下を掌握しきれぬ不甲斐なさが招いた結果だ。この遺骸は貴様が処理しろ、下級将軍の顔岐」
鮑敍は言い置くと、手勢の兵を引き連れ廉武の探索に引き返した。
暴室の番を務めていた二人の兵は、既に斬首されていた。
静かに公主の遺骸を見下ろした顔岐は、胸中に怨嗟が蜷局を巻くのを覚えた。
君主が病床に伏せる今の陳国は、力を持った佞臣により腐り始めている。その佞臣からの恨みを恐れ、糺す文武の官は皆無だった。
陳の諸官は、国事を廉瑾と寇謙昭の二大夫に頼り切っていた。その廉瑾が寇謙昭に討たれると、一挙に均衡は崩れ、文武諸官は寇謙昭に阿るばかりだった。
「……これで良い筈がないであろう」
静かな死に顔だった。
身を屈めた顔岐は、物言わぬ公主に憐れみの眼を向けた。
医の徒の賈良が、公主を手に掛ける筈がなかった。
病弱な公主は、己が足手纏いになるのを嫌い自害したようだった。我が子を賈良に託し、世を去ったことになる。
連座で既に自害した夫の廉晃も、後事を公主と廉武に託していたことだろう。
顔岐は、やるせなかった。鎌首を擡げ掛けた怨嗟の蜷局は、静かに解けていた。怒りのような蟠りだけが胸中にあった。
顔岐は、自らの手で公主を丁重に埋葬した。