弐
余祭と介象、そして、これから二人が向かおうとしていた嵩山は、陳国にあった。
これより少し前のこと――。
当時の陳の君主は哀公、四十も幾つか過ぎた頃だったが、生来から病弱な体質だった。
己の体質を知っていた君主の哀公は、二人の大夫(小領主)を重用した。
ひとりは、廉瑾という者だった。
「どれ、儂にも鍬を貸してくれい」
「れ、廉瑾さま、田畑を耕すは農民の仕事。鍬など、廉瑾さまのような御方が扱う代物ではございませぬ」
「何を言うておる。皆でわいわいやるのが愉しいのではないか。その方が捗るであろうよ」
農耕に勤しむ民の前にふらと姿を現しては、農民と共に田畑を耕す気さくな一面の持ち主でもあった。額の汗を泥に塗れた朝服でぞんざいに拭う廉瑾の笑顔は、民草から好かれた。
その性質は、若かりし頃から清廉潔白、公明正大であり、知命の頃を迎えた廉瑾は、益々君主の哀公と民からの信が厚かった。
もうひとりは、寇謙昭という者だった。
「期日までに納めよ。然もなくば、罪人の咎で牢へ放り込む」
「こ、寇謙昭さま、幾らなんでも、僅か十日で三百本もの槍をお納めするのは、土台無理な話でございます」
「何を言うておる。何時、隣国が侵攻してくるかわからぬのだぞ。儂がこの国を護ると言っておるのだ。新たに囲った私兵三百の得物、直ちに拵え納めよ」
「で、ですが……」
煌びやかな朝服を纏った寇謙昭は、平伏した鍛冶師を見下げた。
「儂に逆らう者は、容赦せぬぞ」
武装した私兵を従え、鍛冶師たちが働く工房にずいと姿を現しては、無理難題を押し付ける高飛車な姿勢が鼻につく。
麾下の兵たちは肩で風を切って街道を闊歩し、傘の付いた馬車に摚っと身を置く寇謙昭の仏頂面に、民草は災禍を免れるべく路上に平伏した。
その性質は、若かりし頃から剛毅果断、専断偏頗であり、知命の頃も半ばに達した寇謙昭は、民と病弱な哀公からさえも畏怖されていた。
そのような折――。
いよいよ病が篤くなった哀公は、裁可を下した。
廉瑾を卿に奉じるというのである。
卿とは、主君である君主の権威の範囲内で、一定の領域を支配することを許された最上位の臣下、言わば貴族であり、大領主のことである。
これに烈火の如く怒りを顕わにしたのは、寇謙昭だった。
「廉瑾如きを卿にだと――⁉ 卿に奉ずるならば、儂の方が先であろうが‼」
司寇(刑罰や警察を司る)の官にも就いていた寇謙昭は、廉瑾を逆恨み、刺客として幾人もの細作を放った。
放たれた細作は成果を上げるどころか、どれも生きて還らなかった。
これが、更に寇謙昭に火を付けた。
「我が子飼いの細作を返り討ちにするとは、余程の手練者を手許に置いているな……。司寇の座にない者が、それほどの手練者を有しておるとは、謀反の気配がある。……廉瑾の奴は、謀反を企んでおるに相違ない!」
寇謙昭は、国内に轟くよう虚言を嘯くと、哀公の命と偽り兵を動かし、廉瑾の住む集落に夜襲をするや、集落を焼き払い、一族郎党の約三百人を虐殺したのである。
これにより廉瑾は討たれ、廉氏の所領は哀公の許可なく寇謙昭が我が物としていた。
哀公が病床に在るのをいいことに、暴挙に出た寇謙昭を止められる者は誰もいなかった。
宮中の文武百官だけではない。民草でさえも災禍から免れるように寇謙昭の卑劣な行為に口を噤んだ。
誰の許可もなく、佩剣のまま玉座に腰を下ろしている。
その横には、見惚れるほどに勇壮な大兵が、豪奢な重鎧を纏い、槍を引っ提げ、用心棒のように佇立していた。寇謙昭の子飼いの将軍、鮑敍だった。
哀公が病臥し、廉瑾を亡き者にした今、寇謙昭はまるで君主のように振舞っていた。
その寇謙昭が在った玉座の階下に、額を床に擦り付けるように平伏している者がいた。
「廉瑾めは、陳国に叛いた逆賊である。その子息も然り。自害せい、廉晃」
太々しい面持ちで頬杖を突いた寇謙昭が、眼下に冷めた視線を向けながら低い声音で告げた。
「……我が父、廉瑾が、陳国に叛く筈がございません」
顔を上げた廉晃は、玉座の寇謙昭を凝と瞶めた。
齢二十八の廉晃は、廉瑾の長子であり、駙馬都尉(君主が乗る馬車の副え馬を司る)の官に就いていた。任官により、城郭近くの邸に仮住んでいたことから、廉氏の集落に起きた災禍から免れていた。
「黙れ、罪人」
頬杖のままの寇謙昭は、木で鼻を括ったような態度で応じていた。
「何かの間違いです。父の廉瑾は、懸命に陳へ尽くして――」
「黙れと言っておろうが‼」
寇謙昭の呶号が、宮中に迸った。
居合わせた文武百官は、忽ち肝を冷やしその身を顫わせた。
「…………」
廉晃は項垂れ臍を噛んだ。再度、屹っと首を立てると懇願したのである。
「ならば、寇謙昭さまのお望みどおり、私も父の後を追いましょう。ですが……」
「ほう」
色めき立った寇謙昭は、頬杖を解くとその身を乗り出した。
「……我が妻と子には、手を出さぬと約束していただきたい‼」
力を宿した瞳で、廉晃は寇謙昭を射抜いた。
「潔いな。流石は廉瑾の息子よ。約束しよう、廉晃」
微笑を刷いた寇謙昭は、穏やかな声音でそう言うと、廉晃の眼前に短刀を放り投げた。
「さっさとやれ。宮中を汚すのは免じてやる」
廉晃は、臆することなく眼前の短刀を手に取った。それを逆刃に持ち変えると、勢いよく腹へ突き立てた。
「ヒッ!」
居並んだ幾人かの官は、奇声を上げると眼を覆った。
「……寇謙昭よ……決して、決して違うでないぞ……グッ……‼」
蟀谷には青筋が走っている。血走った眼差しで玉座の寇謙昭を睨み据えた廉晃は、一息に短刀で横一線に腹を引き裂いた。裂け口から別の生き物のような血と臓物が溢れ出すと、廉晃は木偶のように事切れた。
「鮑敍」
「はっ」
廉晃の呆気ない最後を見届けた寇謙昭は、退屈そうに侍る将軍の鮑敍を呼ばわった。
「直ちに廉晃の妻と子を幽閉せよ」
「よろしいのですね?」
鮑敍の精悍な面貌に不気味な笑みが浮かんだ。
「儂が手を出す訳ではない。約束を違えることにはならん。幽閉さえすれば、妻子も後を追うであろう。これで目障りな廉氏一族は滅亡する」
「畏まった」
鮑敍は寇謙昭に拱手して踵を返すと、巨軀を揺らして急ぎ足で宮中を後にした。
廉晃の死に際を前に、居合わせた多くの官が鼻を啜り涕泣していた。明日は我が身である。寇謙昭の振舞に異を唱える者は誰もいなかった。
「哀公も虫の息。手を下さずとも自ずと消える。その子息はどれも幼く、政などできよう筈もない。陳国が儂のものになるのも間もなくだ」
独語した寇謙昭は、玉座でせせら笑った。
仰々しくも武具を纏った三百ほどの兵が、城郭近くの邸を囲っている。
その邸内では、槍を手にした猛々しい鮑敍に、細腰雪膚の淑女が童子を庇護しながら睨みを利かせている。
「人の邸に土足で踏み込むとは、どういう了見です?」
十歳ほどの男児を背に、淑女は毅然とした態度で質した。
淑女の背に隠れた男児も、顔を覗かせ鮑敍に冴えた眼差しを注いでいる。
廉晃の妻である公主と、その子息の廉武だった。
「逆賊の廉晃は、先ほど自害した」
「――――⁉」
公主と廉武は耳を疑うと、眼を剥き言葉を失った。今にも崩れ落ちそうな躰を奮い立たせて公主は言った。声にならないような声だった。
「……逆賊……? ……じ、自害ですって……?」
顔色ひとつ変えず、得物の槍を持ち替えた鮑敍は、威圧的な態度で語った。
「怨むのなら廉瑾を怨め。陳国に反旗を翻した廉瑾に連座して自害したのだ。廉氏一族郎党は、既に集落ごと焼き尽くしている。廉氏に縁のある者で、残るはお主とその子だけだ。捕縛して幽閉する。今此処で死にたくなくば、素直に召し捕られよ」
「……我が夫が……我が義父が……この国に反旗を翻すなど有り得ませぬ!」
溢れそうな涙を堪え、公主が声を荒げた。
「廉晃は文武百官の前で自害した。身に覚えがなくば、自害などせぬだろう」
「そ、そんな……」
公主は両手で顔を覆うと、膝から哭き崩れた。
「は、母上……」
息子の廉武が、心配そうな面持ちで母の公主を労わっている。
そんな様子にも構わず、冷酷にも鮑敍は左右の兵に号令した。
「引っ立てて連行しろ」
斯くして、公主と廉武は、囚われの身となってしまったのである。
廉瑾を初めとする廉氏の一族が、陳国に反旗を翻した咎で寇謙昭により誅殺され、連座で廉晃が自害したという話は、瞬く間に喧伝された。
無理もない。国中に事の次第が記された札が立てられていた。寇謙昭の評判を上げるための謀略、情報操作だった。
市井の噂では、廉氏に縁のある者で生き延びているのは、廉晃の妻と子だけだというが、幽閉されているようだった。
「……何てこった」
片手に年季の入った漆塗りの小箱を抱えている。
街道の立て札の前で愕然となったのは、蝟集した民草よりも一回りほど躰の大きな男だった。
見れば、熊のような軀幹を白い袍で包み、鬼瓦のような相貌の半分が黒々とした髭で覆われている。豊かな黒髪は白巾で一束にしていた。
この男、賈良という医の徒だった。
外見とは裏腹に、患者の脈を診て病を診断し、適切な薬剤を処方することに長けていた。それだけではない。身体の活力源とも言われる気の巡りを良くする鍼や灸にも秀でていた。
曾て――。
「何故、人は病になるのか……」
幼い頃に抱いた疑問は、賈良をその謎解きに没頭させた。
これまでに邑中の病に罹った者の名前、性別、職業、出身地、症状、病の発端、発病の仕組み、治療法、治療薬、全てを記録した。
薬剤の調合だけではなく、鍼や灸も聞き知り患者に試した。
しかし、である。
青年となった賈良の医術は、依然として病を治すには至らなかった。
加えて、風変わりな賈良に邑の者は不信感を募らせた。
無理もない。病を治そうと懸命に振る舞うが、患者は碌に治らなかった。仕舞には、父母も続けて病に倒れたが、援けてやることができなかった。
賈良は途方に暮れた。
ひとり、河原で沈む夕陽を眺め、己の不甲斐なさで胸中が満たされると、夕陽が滲んで映った折だった。
「諦めるでないぞ」
低いが温かな声音に、はっとした賈良は振り返った。
貴族のような風体の丈夫だった。
賈良に眼を向けることもなく、腕組みをしたまま堂と夕陽を眺めている。
その後方には文官が二人、傅いていた。
「賈良だな。お主の噂は聞いておる」
賈良は、白袍の袖でぞんざいに涕を拭うと、その丈夫を見遣った。
「各地からの風聞によれば、医には発展の余地が充分にある。祈祷に頼らず、人の手により人の病を治す。これが本筋と見た」
「…………」
邑人から忌み嫌われ始めていた賈良にとって、予想だにしていなかった言葉だった。
「此処から近くの竹林に、草庵を用意してある」
丈夫は、後方に侍った文官から小包を受け取ると、賈良を見据えてそれを差し出した。
「医に専心し、その道を極めてみるがよい、賈良」
真摯な瞳だった。顔に浮いた笑みは穏やかだった。
この丈夫こそ、廉瑾だった。
先見の明があった廉瑾は、国内でも屈指の医の虫に希望を見出した。
それからというもの、賈良は竹林の草庵を本拠とし、医に没頭した。他国に赴き、医に関わるあらゆる情報を集めては試行錯誤した。
時折、廉瑾も草庵を訪ねては、鍼と灸を求めた。
賈良の医の腕は、徐々に進化した。
これまでに記録していたものと処置に整合性が見え始めていた。次第に賈良の評判は上がり、陳国でも知る者ぞ知る医の徒となっていた。
廉瑾と出会ってから、二十年ほどの歳月が流れていた。
片手に抱えた漆塗りの小箱を持つ手が震えている。
廉瑾と出会った頃に恵与された小箱だった。中には医術に使う小さな道具や薬剤が陳列されている。
「廉瑾さまはおろか、廉晃どのまで……。このままでは、公主どのと廉武の身も気が気ではない」
賈良は、忽ち焦燥感に苛まれた。
父に似て、気さくで気持ちの良い男だった。
廉晃が宮仕えするようになってからは、草庵の管理や医術に必要な道具は、廉晃に差配して貰っていた。
加えて、廉晃の妻の公主も賈良が主治医だった。
公主は躰が丈夫な方ではない。廉武を生んでからというもの、頻繁に頭痛を患っていた。
その公主に頭痛薬を処方しようと邸へ向かう途次、賈良は民草が蝟集して見遣る立て札を眼にしたところだったのである。
賈良は、廉瑾と廉晃の父子に恩義を感じていた。その恩を一日たりとも忘れることはなかった。
所謂、賈良は義侠の徒でもあった。
「こうしてはおれぬ!」
踵を返した賈良は、弾かれたように駈け出した。