9話
「お、お帰りなさいませ奥様……!」
「旦那様はどちらに!? 戻っているわよね?」
馬車で帰宅したフィファナは苛立ちを隠しもせず、カツカツとヒールの音を鳴らしながら邸の玄関から帰宅する。
出迎えにやって来た使用人の男性が慌てたようにフィファナの後を追う。
だが──。
「騒々しい女だな。今何時だと思っているんだ。淑やかさの欠片もない。淑やか、と言う言葉をお前は知らないのか」
「──、旦那様!」
嫌味ったらしい言葉の数々にフィファナは苛立ちが募るが、何度か深呼吸をして何とか昂った気持ちを落ち着かせようと努力する。
深呼吸をして気持ちを落ち着かせたフィファナは大階段の上部に立っていたヨードに鋭い視線を向けた。
「言付けもなく、帰宅してしまうとは思いませんでした。それに、あのような場所に私を置いて、何かあればタナストン伯爵家の家名にも泥を塗る可能性があったのです……! 軽率な行動はお控え下さい……!」
「なに……? お前如きの身に何かあったとて、伯爵家は何の傷もつかん! 自惚れるのも大概にしろ……っ! それに売女であるお前を妻にしたことで、既に我が伯爵家は恥を晒しているんだぞ!? これ以上お前が伯爵家に対して物を言うな!」
「だ、旦那様──っ」
紳士としてあるまじき物言いに、使用人も流石にヨードに向かって声をかけるが、ヨードは使用人を強く睨み付け、言葉を封じる。
「そもそもっ、その根拠のない噂はどこから聞いたのですか。私にそのような事実はございませんし、婚約期間中、旦那様以外の男性と二人きりになったことなどございません。どなたが、そのような根も葉もない噂を旦那様にお伝えしたのですか」
「……っ、私以外の男と二人きりになったことがないだと……? まだ嘘を付くか……っ! お前と同じ学園に通っていたリナリーがしっかりその現場を目撃しているんだ! 頻繁に男と密室で逢瀬を重ねていた、と聞いている……! それに、私の邸に住んでいるリナリーにお前は嫉妬し人を使い、襲わせた、と!」
ヨードの口から語られる言葉にフィファナはついついぽかんとしてしまう。
どれもこれも初耳だ。フィファナは階段を上がり、ヨードの下に向かう。
そうしてヨードの目の前に来ると、しっかり正面からヨードの瞳を見据え、口を開いた。
「以前もお伝えしましたが、私はこの邸に来てから初めてリナリー嬢の存在を知りました。彼女が同じ学園に通っていた、ということも初めて知ったのです。……存在を認識していなかった彼女を襲わせた……? そんなこと、不可能ですわ」
落ち着いた声音ではっきり告げられ、ヨードは混乱する。
「だっ、だが……! リナリーが嘘をつくなど……有り得ない。……リナリーは正しい、正しいんだ……」
どうしてそこまでリナリーのいうことを信じるのだろうか。
いや、信じようとしているのか。
目の前のヨードは、真実から必死に目を逸らし、虚像だけを盲目的に信じようとしているように見えて。
フィファナはそんなヨードの姿がなぜか、哀れに思えた。
「……信じたくないのならば、どうぞご自由に。ご自身の信じたいものを信じてよろしいかと思います」
「──ぁっ」
ふいっ、とフィファナに顔を逸らされ、ヨードはつい縋るようにフィファナを見た。
何が本当で、何が嘘で。
フィファナと結婚して、この邸に住むフィファナを見て、その人となりを見て薄らと分かってはいた。
リナリーの言っていたことと、あまりにもフィファナ・リドティーの人物像が乖離していて。
その違和感を覚えることが日に日に大きくなっていった。
そして、今日の夜会──。
学園で孤立していた者が、あんなにも親しそうに学友と話すだろうか。
悪名高い人物が、高位貴族である侯爵位の人間とあんな風に穏やかに、楽しげに会話をするだろうか。
「──あっ、だが……っ、私はっ、」
リナリーを信じてやらねばならない。
この世に一人ぼっちになってしまったリナリー。
その原因を作ったのは自分たちだ。
自分だけでもリナリーを信じてやらねば、本当に一人ぼっちになってしまう。
「……リナリー、リナリーが泣いている。慰めに行かなくては……」
「……お好きになさいませ」
見たくないことから視線を逸らし、全てをなかったことにするつもりだろうか。
「変わらない、変わろうとしないのであればそれまでです」
フィファナはふらふらと去って行くヨードの後ろ姿を見つめた後、ふいっと顔を逸らして自室へ向かった。
◇
ヨード・タナストン。いや、タナストン伯爵家。
この邸に嫁ぎ、感じた気持ち悪さは日増しに大きくなっている。
ヨード本人に問題があるのは明白だが、この邸で働いている使用人達もどこか抑圧され、口を閉じ、見たくない物から目を背けて働いているような印象を感じる。
フィファナは自室に到着すると、専属使用人のナナに視線を向けた。
「──っ」
ナナはびくり、と体を震わせるがフィファナの目の前から逃げ出すような様子はない。
(そもそも……今日は夜会に参加するから帰りは遅くなるし、仕事はもう良い、と言ったのだけど……)
ヨードが帰宅してしまった、ということを王弟から聞き、急いで自らも帰宅したため当初の予定より戻りは早かったとは言え、夜遅い。
それでもナナは未だに使用人のお仕着せのまま、フィファナが邸に帰って来た時に出迎えてくれた。
ヨードと言い合っている時におずおずと姿を見せたが、フィファナの荷物を運び、今はこうして部屋まで着いて来てくれている。
(──聞いてみたら、話してくれるかしら)
この邸にやって来た当初より、ナナとは打ち解けられたような気がしている。
フィファナはにっこり笑顔を浮かべると、ナナに向かって口を開いた。
「遅い時間にも関わらずありがとう。少し体が冷えてしまったのよ、暖かい紅茶をいれてもらってもいいかしら?」
「はっ、はい! かしこまりました」
自室の扉を開け、室内に足を一歩踏み入れた後、フィファナはナナにそう声をかけた。
お茶をいれてもらって。そして。
世間話をしながら、それとなくリナリーのことを聞き出せれば。
「遅い時間ですし、カモミールティーをおいれしますね」
「ええ、ありがとう。お願いするわね」
いいえ、と笑顔で言葉を返すナナをフィファナはこっそり見つめる。
手際良く用意されて行く茶器に、しっかりと蒸らして淹れる手法。
所作も美しく、侍女としてしっかり教育されていることが伺える。
くるりと振り返り、ナナがフィファナの目の前にカップを置く。
フィファナは礼を告げ、そのカモミールティーを一口飲んだ。
(……完璧ね)
やはり、使用人達に問題はない。
フィファナはカップを元に戻し、笑顔を浮かべたままナナに話しかけた。
「それにしても……今日ほど旦那様に困ったことはないわ……」
「──えっ」
まさかフィファナの口からそんな言葉が紡がれるとは思っていなかったナナは驚き、つい顔をフィファナに向けてしまう。
この邸にやって来てからと言うものの、フィファナはヨードの態度を見て初日こそ非難するような言葉がついつい口を出てしまったが、それ以降は使用人の前でこの邸の主人の態度や、振る舞いについて口にすることは殆どなかった。
そんなフィファナがほとほと困った、という様子で溜息を漏らしている。
ナナは何だかとても居た堪れない気持ちになってしまって、悲しそうに表情を歪ませた。
そのナナの表情の変化を見逃さなかったフィファナは、更に言葉を紡ぐ。
「リナリー嬢が帰宅したい、と言い……まさか旦那様まで帰宅してしまうとは思わなかったのよ……。夜会には王太子殿下と婚約者様もいらっしゃったわ……。当主となって間も無い旦那様は勿論ご挨拶に伺うと思ったのだけど……」
「そ、それは災難でございましたね……」
「旦那様はそれほどまでにリナリー嬢を大切に想っていらっしゃるのね?」
フィファナに視線を向けられたナナは、一瞬躊躇するような表情を見せるが、フィファナに向かってふるふる、と首を横に振って見せた。
「──その……、旦那様はリナリーお嬢様を大切に思っていらっしゃるのは本当なのですが……肉親、妹御に寄せるような家族の情、と言いますか……」
「え? そうなの……?」
ナナの言葉に今度はフィファナがキョトンとしてしまう。
「リナリー嬢と、旦那様は幼少の頃から面識がある、と聞いたから私が想い合う二人の仲を引き裂いてしまったのかと思っていたのだけど……違うの……?」
「その……私も聞いた話ではありますが……」
ナナも、先輩侍女に聞いた話なので確かではない、と前置きしながらこっそりとフィファナに教えてくれた。
タナストン伯爵家と、リナリーのラティルド男爵家は、二人がまだ幼い頃に仕事関係で接点を持ったらしい。
仕事の関係で男爵家は何度も伯爵家に足を運び、自然とその家の子供同士、ヨードとリナリーは親しくなっていったらしい。
六歳ほど年が離れている二人。
特にヨードは可愛らしいリナリーを妹のようにとても可愛がっていて、リナリーも年上のヨードを兄のように慕っていたらしい。
(なるほどね。旦那様はリナリー嬢を妹のように慕っていたけれど……リナリー嬢は旦那様を異性として好きになってしまったのかしら)
そう思えば合点がいく。
ヨードがフィファナに対してあれほどの嫌悪感を抱いているのも、根も葉もない噂を聞かされていたからだろう。
恋い慕う、ヨードを取られまいとして恐らくリナリーがヨードに聞かせていたのだろう。
だが、それでもリナリーがどうしてこの邸に住むことになったのか。それが分からない。
(何か、事故でもあったのかしら)
不幸な事故で身寄りのなくなってしまったリナリーを哀れみ、ヨードが引き取ったのだろうか、とフィファナは考えた。
「──そう。旦那様に口止めされているのに色々聞いてしまってごめんなさいね、ナナ。もしこの件で咎められたら私の名を旦那様に出して。無理矢理口を割らされた、と言いなさい」
「でっ、ですが……! そんなことを言ったら奥様が……!」
フィファナの言葉にとんでもない! とナナが首を横に振るがフィファナは勝気に笑う。
(これ以上、あの人の私に対するイメージは落ちようがないわ。既に底辺まで落ちているのだから)
「大丈夫よ。もし、そうね……。もしナナ個人に罰を与えられたら、リドティー伯爵家においでなさい。使用人は多いに越したことはないから、推薦状を書くわ」
「──おっ、奥様……!」
頼もしいフィファナの言葉に、ナナはキラキラと瞳を輝かせた。