8話
「はい? 殿下何か仰いましたか?」
アレクの言葉が聞こえなかったのだろう。
彼の部下は不思議そうな顔でアレクを振り返る。
だが、アレクは呆気に取られた表情のまま、今度は部下にもしっかり聞こえるように言葉を発した。
「ヨード・タナストンの妻はフィファナ・タナストンだろう!? 先程の女性とは全くの別人だ……!」
部下が言っていたフィファナにまつわる噂は本当だったのだ。
「伯爵の妻は美人だ」と、噂ばかりが先回りしているのかと思っていた。貴族の噂話ほど、信用できない。
だが、今回の噂ばかりは本当のようで。
フィファナと会話をしたアレクはその噂が本当だということを身に染みて感じていた。
そして、今しがた伯爵本人と抱き合っていた女性とフィファナは似ても似つかない。
「え、ええーっと……。ということは……愛人か、何かですかね……」
「──っ」
部下の言葉にアレクの奥歯がバキリ、と嫌な音を奏でる。
その音に部下は「ひぃっ」と情けない声を漏らし、アレクからささっと距離を取ってしまう。
「マーシャル……。ヨード・タナストンとさきほどの女性のことを調べてくれ……。──いや、タナストン伯爵家のことを洗いざらい調べ、俺に報告してくれ」
「しょっ、承知しました……っ!」
マーシャルと呼ばれた部下は、アレクの言葉を聞くなりバタバタと会場に戻って行く。
若干私情を挟んでしまってはいるが、一度タナストン伯爵家のことを調べてみるのもいいだろう、とアレクは考える。
「これはタナストン夫人のために調べる訳ではない……。タナストン伯爵家について、ずっと確認をしていなかったからだ……。前々から気になってはいたのだから、別に今、このタイミングで調べても何らおかしくはない」
アレクは自分に言い聞かすがほぼ私情でしかない。
だが、そこではっと思い出す。
「そうだ、夫人……!」
夫とはぐれてしまった、と言っていた。当の本人である伯爵は既に庭園の奥に消えてしまっている。
既に愛人と一緒にこの会場を出てしまっているのだが、フィファナはあの会場でまだ夫を探しているかもしれない。
「だが……、愛人がいるなどと……言えるはずがない」
アレクはどう説明すればいいものか、と悩みつつ再びフィファナに会うため、自らも会場に足を向けた。
◇◆◇
アレクにエスコートしてもらい、会場に戻って来たフィファナは明るく煌びやかな会場の雰囲気にほっと息をつく。
「殿下には夫を探している、と嘘をついてしまったけれど……ばれないわよね……?」
形だけの夫であるヨードは、リナリーを探してまだ薄暗い庭園を駆けずり回っているのだろうか。
リナリーを見つけたヨードは恐らくフィファナの存在など忘れ、二人で楽しい時間を過ごすだろう。
「それなら……私も夜会を少しくらい楽しんでも良いのかしら」
ちらほらと学園時代の学友達が参加している姿が見える。
先ほど、ハリーとエラが部屋を取るから友人達とゆっくり話そう、とも言っていた。
それならばハリーとエラを探そう、とした所でフィファナは自分の足の震えが殆ど収まっていることに気付き、アレクに感謝した。
(王弟殿下のお陰で、ここに戻るまで嫌な出来事をすっかり忘れていたわ……。他愛ない話で意識を逸らして頂いていたんだわ)
フィファナはアレクに感謝しつつ、ゆっくり足を踏み出す。
大分震えは収まったが、少しだけ体を休ませたい。
きょろ、と周囲を見回し壁際にある複数のソファに誰も座っていないことを確認したフィファナは、テーブルから果実水を手に取り、そちらに歩いて行く。
歩いて行く途中も、ソファに辿り着いて腰掛けてからもちらちらと視線を感じるが、フィファナはしゃんと背筋を伸ばして真っ直ぐ会場を見つめる。
声を掛けたそうにそわそわしている人物も見受けられるが、フィファナは一切そちらを気にしない。
そうこうしている内にフィファナを見る視線も大分減ってきて。
フィファナがふう、と息を吐き出した所で周囲がざわめいた。
「きゃあ!」
「どうしてあの方がこちらに!?」
「いらしていたの!?」
主に女性の嬉しそうな声が聞こえて来て、フィファナは何事か、とその声の方向に顔を向けた。
するとそこには。
「──あっ」
先ほど、自分をこの会場にエスコートしてくれたアレクが会場内に姿を現している。
「王弟殿下がまさか会場に来られるなんて……」
「ダンスのお誘いをしても良いかしら」
「王太子殿下のお祝いに来られたのかしら」
などと周囲の女性達が浮き足立って噂をしている中、フィファナは我関せずといった体でぼうっとアレクを見ていた。
フィファナは呑気に噂の的になっているアレクを見つつ、果実水を口に運び喉を潤おしていると、何かを探すようにきょろきょろと周囲を見回していたアレクとぱちり、と目が合った。ような気がした。
「──え」
こんなに遠くにいるのにまさか、とフィファナが思っていると。
アレクがふわり、と優しげな笑みを浮かべた。
瞬間、女性達からほうっと感嘆の溜息が上がった。
「えっ、ちょっと……待って……」
あろうことか、アレクはフィファナが休む壁際のソファに迷いない足取りで近付いて来ているではないか。
まさか、アレクの探していた人物は……、とフィファナが嫌な予感を覚えた所で。
アレクがフィファナの目の前にやって来た。
「フィファナ・タナストン夫人。見つけられて良かった。少し良いだろうか?」
「か、かしこまりました殿下……」
フィファナは自身にひしひし刺さる嫉妬の眼差しを受けながら、ソファから立ち上がる。
立ち上がった所で、笑顔を浮かべているアレクから手を差し出される。
何の用かは分からないが、早くこの場から離れないと嫉妬の視線に殺されそうだ、と考えたフィファナは動揺を悟られぬよう、引きつった笑みを浮かべ差し出された手に自分の手を重ねた。
手を握られ、そのままエスコートされる最中、フィファナは自分とアレクを見て驚く友人達の姿を視界に捕らえた。
(──ああ、これは後日色々と聞かれてしまいそうね……。殿下とは何もないのに……)
会場をゆっくり歩くアレクに話しかけられ、フィファナははっと意識をアレクに戻す。
「突然すまないな、夫人。先ほど貴女は自分の旦那とはぐれてしまった、と言っていたと思うのだが……」
どこか言い難そうに言葉を濁すアレクにフィファナはぴん、と来る。
「もしかして……先ほどの庭園で夫を見ましたか?」
フィファナの言葉にアレクはぴたり、と足を止めて近場のテーブルからノンアルコールのグラスを選び、フィファナに渡す。
その仕草があまりにも自然で、フィファナはついついそのグラスを受け取ってしまった。
フィファナのその質問にアレクは何とも言えない表情を浮かべていて。
そんなアレクの表情を見てフィファナは先ほど質問した内容を思い出し「しまった」と言わんばかりの表情を浮かべる。
何か、良くないものを見てしまったのだろう。
(もしかしたら、旦那様がリナリー嬢と一緒にいる所を見てしまわれたのかしら? でも、それでなぜ私に会いに……?)
ヨードとリナリー二人の姿を見てしまったのだとして、ここに来た理由が分からずフィファナが首を傾げていると、アレクが言葉を返した。
「その……夫人の夫はタナストン伯爵だろう? 先ほど庭園で彼を見たよ。具合の悪い知り合いを介抱し、送って行く姿を見てね。慌てていた様子だったから夫人に連絡をし忘れているのでは、と思ったのだが」
(言い訳が苦しいだろうか……)
アレクは尤もらしい理由を並べ立て、恐る恐るフィファナに視線を向ける。
だが視線を向けた先で、フィファナは変わらない笑みを浮かべたまま、アレクに礼を告げた。
「──そうだったのですね、ありがとうございます殿下。ふふっ夫はそそっかしいようで……、大変失礼いたしました。それでしたら私も邸に戻ります。教えて頂きありがとうございました、殿下」
「いや、伝えられて良かった。帰宅するのであれば馬車止めまでお送りしよう」
「まあ、ありがとうございます殿下。よろしくお願いいたします」
ぴん、と背筋を伸ばし隙のない笑みを浮かべているフィファナに、アレクは不躾にこれ以上踏み込むことを躊躇する。
無理矢理近付けば、この女性は自分を冷たく遠ざけるだろう、となぜかそう感じる。
アレク自身、王家に連なる身分であるがフィファナは王族を敬う気持ちはあれど、無遠慮に踏み込んで来る人間を敬遠している節があるように思える。
(これは……長期戦だな……)
何が、とは形にしない。
フィファナ・タナストンは伯爵夫人だ。
夫がいる身である。
(けれど、もし彼女が幸せでないのであれば)
その先を胸中では言葉にせず、アレクは当たり障りのない会話をしながらフィファナを馬車止めまで送り届けた。
頭を下げ、去って行く馬車を見送っているアレクの後ろから、ひっそりと近付いて来る人物がいた。
「──?」
誰だ? と思いアレクが振り返る前に、良く知った声が聞こえて来た。
「叔父上がそんなだらしない表情をしているのを初めて見ましたよ」
「……イールソンか」
「こんばんは、叔父上。参加されていると聞いていたのに姿が見えないと思えば……まさか女性と逢い引きされているとは……」
「待て待て待て。先ほどの女性は既婚者だ。夫とはぐれてしまった所に出くわして、少し話しただけだ。変な誤解をするんじゃない」
「へぇ……? それにしては……」
「後で! 後でそちらに行くから待っていろ……!」
「はいはい。我が婚約者殿とお待ちしてますよ、叔父上」
楽しげにひらひら手を振り、会場に戻って行く甥──この国の王太子であるイールソンを呆れた様子で見送ったアレクは、自分の額をおさえた。
「……マーシャル」
「はい」
アレクの言葉に、すっと自分の部下マーシャルが側にやって来るのを見て、アレクはフィファナが去って行った馬車の方向を見やった後、踵を返して会場に戻るため足を踏み出した。
「……前伯爵は黒い噂があっただろう。どこにいる?」
「……それが現当主、ヨード・タナストンが領地のどこかに蟄居させたらしく……。まだ居場所までは掴めておりません」
「ならば急いで確認を」
「かしこまりました」
アレクとマーシャルの会話は、人気のない庭園で誰に聞かれるわけもなくひっそりと消えた。
◇◆◇
カタカタ、と小さく揺れる馬車に乗りながら、フィファナはふつふつと湧き上がる怒りを拳を握り込んでどうにか抑えていた。
「……、先に帰ったですって……!? 信じられない……っ」
今夜の夜会には、王太子とその婚約者が参加しているのだ。
その二人に挨拶もせずリナリーと帰宅した、ということであるならばこの国の貴族として、多くの使用人の生活を預かる伯爵家当主として、あまりにも身勝手で愚かな行為だ。
「あの人には呆れることばかり……っ、伯爵家当主としてのご自覚があるのかしら……!」
そんな自覚など無いのだろう。
当主としての自覚があれば、これほど愚かな行動など起こさない。
フィファナは邸に帰宅した後、再びヨードと会話をしなければ、と強く心に誓った。