7話
夜会で出される軽食や、飲み物。その飲み物の中にはアルコールもある。
今夜の夜会は王家主催で、そして会場も王宮ということもあり、悪酔いしている人は少ないだろうが、それでも酒に酔ってはいるのだ。
酒に酔った人間は普段よりも大胆な行動に出たり、気が大きくなる。
そして、一番質が悪いのは記憶をなくしてしまうタイプの人間だ。
(会話している声の感じからして、三人ほどかしら……)
フィファナはなるべく音を立てないように、声が聞こえて来る方向から離れる。
ヨードの後を追いたかったが、男性の走る速度に追い付けるはずがない。
(もし見つかったとしても、落ち着いて対応すれば大丈夫……。王家主催のこの場所で、滅多なことは起きないわ)
フィファナがそう考え、足を進めていると会話する声がすぐ近くから聞こえ、そしてぴたりと止んだ。
その瞬間、フィファナはついつい悪態をつきそうになってしまったが、既の所でそれを飲み込む。
会話していた声が止まった、ということは近付いて来ていた者達にフィファナが見つかってしまった、ということだ。
その証拠に、後ろから声をかけられた。
「──あれっ、あそこにいるのはフィファナ・リドティーじゃないか!?」
「おっ、おいやめろよ……っ」
「お前っ、酔っ払い過ぎだぞ!」
顔を見られた訳でもないのに、なぜ一瞬で自分の正体を知られてしまったのだろう。
フィファナは焦ったが、どうやら話しかけて来たのは三人いる内の一人で、連れ立って来ている者達はその男性をどうやら諌めている様子が伺える。
(これなら、何事もなく会場に戻れそうね)
フィファナはほっと安堵し、笑顔を張り付けるとくるり、と振り返った。
「こんばんわ。少しだけ庭園で涼んでいたのです。私は会場に戻りますので、どうぞごゆっくり」
要件だけを伝え、フィファナはさっさとその男達の横を通り過ぎようとする。
声をかけてきた男以外の残りの二人は、声をかけた男を止めつつ、通り過ぎるフィファナに見蕩れていた。
だからだろうか。
酒に酔った男が、フィファナが横を通り過ぎる瞬間、ぱしっとフィファナの腕を掴んでしまった。
「まあまあ、少しだけお話しましょう……! 私、学園でご令嬢を見た時から、一度で良いからお話をしたくて!」
「おっ、おいやめろってお前っ!」
「酔っ払い過ぎだぞ……! 夫人の手を離せ……っ」
「……っ、ご冗談を……っ、このような場所で複数の男性と歓談することなど出来ませんわ……。お話でしたら会場に戻って……」
酒に酔った男性の友人二人は、真っ青になりながら男を止めるが、酔った男はまあまあと言いながら庭園に戻ろうと、薄暗い方向にフィファナを引っ張って行こうとする。
こんな薄暗い庭園で、複数の男性と過ごしていた、など噂が流れれば大変だ。
ただでさえ、婚約者や夫以外の男性とこんな場所で二人きりでいれば、要らぬ噂を引き込んでしまうフィファナだ。
フィファナは焦りながら心の中で勘弁してちょうだい! と叫んだ。
酔っ払いの友人達も、何とか男をフィファナから離そうとしているが、フィファナの腕をガッチリと掴んだ腕は離れない。
それに友人達はフィファナに触らないようにしているせいか上手く力が入らず、苦戦しているようだ。
酔っ払いの男の体が大きいからか、それとも友人達が非力なせいか。
どちらかは分からない。
だが、離してくれない酔っ払いにフィファナは段々苛立ちが募ってくる。男の顔面目掛けて、拳を叩き込んでしまおうかしら、とフィファナが拳を握った所で──。
「美しい女性を口説きたいのは分かるが、嫌がっているのが君には分からないのか?」
低く冷たい声がフィファナ達四人の背後から聞こえて来た。
その場に重く響く声音に、全員が一斉に声の方を振り向いた。
「──!」
息を飲む音が聞こえる。
息を飲んだのはフィファナか、男達か。
その男達の内の誰かが泣きそうな声で言葉を発した。
「おっ、王弟殿下──……っ!」
アレク・ラディス・キーティング。
この国の王弟で、国王陛下とは少しばかり年の離れた弟だ。
国王には王子三人がいるため、アレクの王位継承権は第四位。第一王子の王太子と婚約者の結婚が近いと噂があるため、二人の子が生まれれば王弟であるアレクは継承権を返上するのではないか、と言われている。
だが、継承権がなくとも武術に優れ、王国の騎士団の団長を務めていること。年齢もまだ若く、二十八で独身ということから未婚の貴族女性達からお誘いや結婚の打診が途切れないらしい。
また、王弟殿下であるアレクが女性に人気なのは彼の整った容姿も関係がある。
王族に伝わる宝石のような美しい空のような瞳に、サラサラと流れるダークグレーの髪。
目鼻立ちも整い、薄暗い庭園で、月の光を浴びて明るく照らされる姿にはっと息を呑む。
(……世のご令嬢方が騒ぐのも無理はないわね。確かにとても容姿の良い方だもの)
フィファナはどこか現実離れした心地で、アレクを見つめる。
先程までフィファナの腕を掴んでいた酔っ払いの男の手はいつの間にか離れ、アレクから後ずさっている。
「……嫌がっている女性に対して、しつこく声をかけ続けるなど……恥ずかしくないのか。さっさと酔いを冷まして来い」
「もっ、申し訳ございません……っ!」
「ほっ、ほら行くぞお前っ、この馬鹿!」
「──あっ、フィファナ嬢っ」
酔っ払った男を必死に連れて行こうとする友人二人と、酔った男は未だにフィファナに手を伸ばし、悪足掻きを続けている。
その様子を見ていたアレクは呆れたように溜息を零し、後ろにいた部下だろうか──その人物に指示を出した。
「おい、手伝ってやれ……。会場に戻し、水をしこたま飲ませてやれ」
「はっ」
アレクの指示を受け、酔った男を引きずって行く後姿を見て、そこで漸くフィファナはほっと安堵の溜息を吐き出す。
そして、助けてもらったお礼を言わねばとアレクに向き直った。
アレクに向き直ったフィファナはさっと軽く膝を折り挨拶の格好を取り、口を開いた。
「殿下、お見苦しい所を大変失礼致しました。また、危ない所を助けて頂き誠にありがとうございます」
「いや、礼には及ばない。それよりご令嬢、大丈夫か? 大分強い力で掴まれていただろう。怪我は?」
先程、酔っ払った男がフィファナ嬢、と口走った所を聞いていたのだろう。
アレクはフィファナのことを未婚の令嬢、と勘違いをしているようだ。
フィファナはそのことを訂正せねば、と慌てる。
「お気遣い頂き、ありがとうございます。申し遅れました、私フィファナ・タナストンと申します」
「──タナストン……、?」
フィファナの言葉にアレクの形の良い眉がぴくり、と反応する。
「恥ずかしながら、夫とはぐれてしまい、先程の方達に話しかけられてしまいどうしたものか、と困っておりました。本当にありがとうございます」
「夫……、そうか」
アレクは感情の読めない顔でぽつり、と零しフィファナを見やる。
すると、フィファナの指先が微かに震えていることに気付いた。
「タナストン夫人。手が震えている。大丈夫か……?」
先程の恐怖からだろう。
助かった、と分かった今になって恐怖が湧き上がり、フィファナは恐怖に体が震えてしまった。
だが、心配してくれるアレクを有難くは思えど、王族の人間に迷惑はかけられない。
フィファナはにこりと気丈に笑い、アレクに言葉を返す。
「大丈夫ですわ。これは、その……武者震いのようなものですので」
「武者震い? ──ふっ、ははっ。ご夫人はとても心の強い方だ。失礼した、貴女が恐怖で震えている、と勘違いしてしまった。許して欲しい」
「ふふっ、私が殿下を許す、など……恐れ多いですわ」
「貴女をか弱い女性と勘違いしてしまった私をそのように言ってくれるとは、有難い。せめてものお詫びに、ご夫人を会場までエスコートさせて頂いてもいいか?」
「まあ。断る理由がございませんわ。どうぞよろしくお願い致します、殿下」
二人はにこにこと笑顔を浮かべ、言葉を交わす。
すっ、とアレクに腕を差し出されたフィファナは微笑みを浮かべつつその腕を取り、フィファナの歩幅に合わせて歩いてくれるアレクに心の中で感謝した。
(──人の感情の機微にとても聡い方だわ……武勇ばかりが噂になっているけど……それだけじゃない)
フィファナ自身、恐怖に震えてしまったことを認めたくない、という気持ちをアレクは瞬時に察し、冗談を交えつつ気軽に言葉を交わしてくれた。
今もドレスの下の膝は震えていて、ゆっくり歩くことしか出来ないフィファナに気付いているはずなのに、それとなく気遣い、気を紛らせるような明るい話題を振ってくれている。
「──ああ、見えてきたな。会場にいる貴女の夫も慌てているだろう」
「……そうですね」
一瞬だけ言葉に詰まってしまったフィファナはすぐに取り繕い、笑顔で言葉を返す。
だが、その違和感にアレクはちらり、とフィファナを見下ろして、何かに気付いたアレクはぎょっと瞳を見開いた。
「──ご夫人っ! 腕に手の痕が……! ここまで痕が残っていては痛みがあっただろう、気付かずにすまない」
「えっ? あっ、ああっ! これですか? 大丈夫ですわ、先程の件とは無関係です」
フィファナの白く、細い腕にくっきりと指の痕が残っていることに気付いたアレクは焦って謝罪する。
会場の明かりに近付き、その痕に気付いたのだが、改めて見てみればその手形はどう見ても痛々しい。
先程の酔っ払いの男に相当強い力で握られて痛かっただろうに。と思ったがどうやら違うらしい。
きょとん、とするアレクにフィファナはにっこり笑顔を浮かべ、会場に到着した所でさっとアレクから腕を離した。
そして軽くドレスの裾を摘んで自分の腕を胸元に持って行き、軽く頭を下げる。
「殿下、ここまでありがとうございました。夫が心配しているかもしれませんので、失礼致します」
「──あ、ああ。気を付けて……」
「ありがとうございます。……では」
くるり、と振り返り会場に戻って行く小さな背中をアレクは見つめてしまう。
「……先程、あの男に掴まれた痕ではない……? では、誰が……」
アレクがぽつりと呟いた所で、先程酔っ払いの男を会場に連れて行った部下が戻って来る。
「──殿下、戻りました」
「ああ。帰したか?」
「はい。馬車に詰め込み、そのまま帰宅させました」
「良くやった。……さて、庭園をもう一度見回ろうか。先程のようなことが再び起きぬとも言えない」
「承知致しました」
アレクは名残惜しむようにフィファナが去って行った方向をもう一度振り返ったが、目を閉じて「よし」と一言呟き、踵を返して庭園に足を向けた。
庭園を進みながら、アレクと部下はなんとなしに会話を続けていた。
「甥っ子と婚約者の目出度い記念の夜会で、まさかこんなことが起きるとはなぁ」
「会場警備に回って正解でしたね。殿下が庭園を見回ろうとしなければ、あのご令嬢……危ない所でした」
「ああ。……そう言えばご令嬢ではなかったぞ。貴族夫人だ。夫とはぐれてしまったらしい」
「──ああ、それは残念でしたね殿下」
「……何がだ。やめろ」
「長い付き合いですが、殿下が女性に見蕩れるお姿を初めて拝見したものですから」
「……傷心中だ。傷を抉ってくれるな」
どこかむすっとした、不貞腐れた態度のアレクに珍しいものを見た、と部下は目を見開き面白そうに口端を持ち上げた。
アレクの身分上、今までも女性は嫌というほど寄って来た。
だが、どの女性にも態度を変えず、いつも変わらぬ笑顔を張り付けたままのアレク。
仕事ばかりの上司にやっと春が来たか、と喜んだのも束の間。その女性は既に夫がいる身だった。
「残念ですね……」
ぽつり、と零す部下に横腹を殴ってやろうか、とアレクが拳を握った所で。
薄暗い庭園から男女の声が聞こえて来た。
「ヨード、酷いわ……っ! 私っ、一人で寂しかったし、怖かったんだから!」
「すまない、すまないリナリー。もう一人にしないから」
「もうイヤっ、疲れたしっ、ドレスも汚れてしまったわ……。私もう帰る……っ」
「分かった、分かったから。俺たちの家に帰ろうか」
恋人同士の喧嘩だろうか、と思った二人はそのまま足を進める。
風紀を乱さず、このまま帰宅してくれればいいが、と二人の姿を目にしたアレクは目を見開いた。
男女はまるで想い合う二人のようにひしっと抱き締め合い、そして手を繋ぎながら更に暗い方へ去って行く。
あちらは裏門がある方向だ。
そこから帰宅するつもりだろうか。
アレクの隣にいた部下が「あれは……」と小さく声を零した。
「あの男の方、見覚えがあります……。確か、ヨード・タナストン伯爵ですよね、最近爵位を継いだ。ということはあの女性が奥方ですか。綺麗な人だ、と聞いていたのですが人の噂とはあてにならないですね。どちらかと言えば可愛いらしい女性だ」
ほけほけと言葉を紡ぐ部下の傍ら。
アレクは「どういうことだ」と呟き、無意識に拳を握り締めた。