2話
突然の怒声にフィファナはびくり、と体を跳ねさせる。
「ヨ、ヨード、様……?」
驚きつつ、フィファナは先程自分の部屋を出て行ったヨードの声が聞こえた方向に顔を向け、そして息を飲んだ。
「──っ」
──明らかに怒っている。
怒気を隠しもせず、足取り荒くフィファナと女性に向かってドシドシと近付いて来るヨードに、フィファナは目の前に居る女性が怒られてしまうのではないか、と咄嗟に考えた。
割れてしまって元は何か分からないが、この邸で大切にしている何かを女性が壊してしまったのかもしれない。
だから、ヨードはあれ程までに怒っているのだ、と考えたフィファナは女性を庇おうとしたのだが。
フィファナのその考えは全くの的外れで。
ヨードの吊り上がった目は真っ直ぐにフィファナを見据えている。
「リナリー! 無事か!?」
「ヨード!」
ヨードはフィファナ達に近付いて来ると、真っ先にリナリー、と呼んだ女性の傍に片膝を付き、フィファナから庇うように自分の体を二人の間に割り込ませた。
そして、リナリーと呼ばれた女性はあろう事かヨードを呼び捨てにし、安心したように表情を緩めてヨードの服の裾をきゅう、と握る。
「……えっ、」
ぽつり、と呟いたフィファナの声はそのまま会話を続ける二人の声に掻き消されてしまい、二人の耳には入っていない。
「血が出ているじゃないか……! そこの女に何をされた? 暴力を振るわれたんじゃないか!?」
「やっ、やめてヨード! そんな事言わないで!」
「──っ、フィファナ・リドティー!」
フィファナはヨードから強い視線で睨まれ、咄嗟に肩を跳ねさせた。
タナストン伯爵家に嫁いだ、と言うのに実家のリドティー家の名を呼ばれ、フィファナはそこでやっと理解する。
――ああ、この人は私を自分の家族とは認めていないのだ。
タナストン家の一員として認めていない、家族では無い、と思っているのだ。
「リナリーに近付くな! これ以上リナリーを傷付けたら承知しない……っ! すぐにこの邸から追い出すからな!」
「──なっ」
ヨードの一方的な言葉に、流石にフィファナもカチンと来て言い返そうとしたが、フィファナが何か言葉を発する前にヨードはリナリーを支えながら立ち上がらせ、背を向けてしまう。
「……っヨード様! 話を……っ!」
フィファナが声を上げるが、ヨードは自分の名前を呼ぶフィファナに眉を顰めただけで振り返る事無くそのまま足を進めてしまう。
このまま誤解されたままはごめんだわ、と考えたフィファナも二人を追い掛けようと足を進め、もう一度ヨードの名前を口にする。
「ヨード様っ、」
だが、フィファナの声に怒りを隠しもせずヨードは怒声を上げた。
「私の名前をお前に呼ばれたくない! 二度と私の名前を呼ぶな!」
「──っ」
いくら何でもこれはあんまりだ。
フィファナは悔しさ悲しみ怒り、といった様々な感情が溢れ零れ落ちそうになる涙を唇を噛み締める事で何とか耐える。
去って行くヨードの後ろ姿から視線を外してぎゅうっ、と拳を握り締めるフィファナの姿を。
ヨードに背を支えられながらちらり、と振り向いたリナリーはほくそ笑みながら見ていた。
◇◆◇
──ちりん、と澄んだベルの音が小さく響く。
フィファナはあれから自室に戻り、すぐにベルを鳴らした。
夜遅い時間帯ではあるが、自分付きの侍女は近くの部屋に控えているだろう。
その考えは当たっていて、フィファナがベルを鳴らしてすぐ。
扉がノックされ、「お呼びですか奥様」と声が掛かった。
フィファナは肩から落ちてしまいそうになっていたガウンを引き寄せながら「入って」と扉に向かって声を掛ける。
丁寧な所作で入室して来る侍女に、フィファナは聞かなければいけない。
すぅっ、と瞳を細め侍女を見据えるとフィファナは口を開いた。
「……リナリー、と言う女性の事を教えてくれるかしら?」
フィファナがリナリーの名前を口にした途端、侍女はびくりと肩を跳ねさせて気まずそうに、言い難そうにフィファナから顔を逸らす。
侍女の様子からこの家に何か問題があるのか、と片眉を上げたフィファナは侍女を怯えさせないように優しく声を掛けた。
「貴女に怒っている訳じゃないわ。何を話されても貴女を罰する事はしないし、ありのままを話してくれる?」
「……、奥様」
「恥ずかしい事だけれど……。婚約中、ヨード様とお時間が合わず、あまりお会いする機会が無かったの。……ヨード様に妹君は居なかった筈だけれど、リナリー、と言う女性は誰なのかしら?」
何故、この邸に使用人でも無い女性がいるのか、と言外に問う。
もしかしたら遠縁の親戚か何かだろうか、とフィファナは考えた。
そうでなければ。
血縁者でなければあの近さは有り得ない、とも思う。
「それが……、リナリーお嬢様は……、ラティルド男爵家のご令嬢、でした……」
「──ラティルド男爵家?」
あまり聞き馴染みの無い家名にフィファナは考える素振りをするが、思い出せない。
「それで、その男爵家の令嬢が何故ここに……? タナストン家と何か関係があるの?」
「……はい、その……。旦那様と、リナリーお嬢様は幼い頃からの幼馴染でして。幼少の頃より、兄妹のように仲睦まじく交流なさってました」
「そう……。それで、彼女がここに居る理由は? 幼馴染の結婚式を祝いに来たとしても……。邸に泊まるのは流石に……」
有り得ないでしょう? と言う言葉を告げず視線だけで問い掛ける。
だが、フィファナの視線に侍女は気まずそうに視線を泳がせ、躊躇いがちに言葉を続けた。
「その、リナリーお嬢様は……この邸に住んでおりますので……」
「──えっ!?」
「そ、その事情がございまして……! ですが、申し訳ございません、旦那様からリナリーお嬢様のお家の詳細は軽率に話す事では無い、と……!」
申し訳ございません、と頭を下げる侍女にフィファナはこれ以上侍女に話しをさせ続けるのは諦めた。
「──そうね、確かに他家の事情を簡単に話す事はあまり良くないものね……ありがとう。こんな遅くに悪かったわね。戻って結構よ」
「申し訳ございません。……それでは失礼致します……」
退出する侍女を笑顔で見送りながら、フィファナは扉が閉まった後、浮かべていた笑顔を消してすぅっと無表情になる。
「──私に、他家の事情を話すな、と命令されたのねヨード様は。リナリー・ラティルド嬢が、同じ邸に住んでいる……? 事情があって、邸に住まわせている、と説明くらいあってもいいのではないかしら?」
これ程まで、侮辱されて黙っている訳には行かない、とフィファナは怒りで震える拳を何とか抑える。
「私が、タナストン家の一員では無いから簡単な説明もしない、と言う事なのかしら。……っ、いい加減にして欲しいわ……っ!」
悲しさよりも、悔しさで涙が込み上げて来る。
ヨード・タナストンの妻として嫁いで来たと言うのに式の最中は顔を向ける事すらされず、会話を試みても全て無視され。
そして、初夜の際のあの失礼な態度である。
「……っ、タナストン家に嫁いで来た人間を鑑みず、その人間を他人のように扱うあの人を許せないわ……っ」
この邸の使用人達はフィファナを「奥様」と呼び、それ相応の対応をしてくれる事がまだ救いだ。
「明日、ヨード様……っ、いえ、旦那様には嫌がられてもしっかりとお話の機会を頂かなくては……!」
これからはヨード、と名前で呼ぶ事はもうよそう。
先程のように怒りをぶつけられるのはもう二度とごめんだ。
フィファナはぷりぷりと怒りに震えながら明日の為にしっかり睡眠を取り、話し合いに備えようと直ぐにベッドに横になった。
◇
そうして迎えた翌日。
フィファナが目覚めると、その気配を察して扉の奥に控えていた侍女が、朝の支度を行ってくれる。
しっかりと睡眠を取ったお陰か、頭はすっきりと冴えている。
フィファナは支度をしてもらいながら、鏡に映る自分の姿を何となしに見る。
(──キツく見えがちな吊り上がった目尻……。昨日のリナリー嬢の容姿と、私の容姿は正反対ね)
庇護欲を誘う見た目のリナリーと、気の強そうな見た目をしている自分。……実際、ある程度気は強いのだが。
だが、二人しかいない場所でもしリナリーが泣いていて、その目の前にフィファナが居ればその光景を見た周囲の人間は簡単に「フィファナがリナリーに対して何か言ったかやったのだろう」と判断する。
(けれど、別に私はこの見た目が嫌いな訳では無いわ……。吊り上がって見える目尻も、血色の良い赤い唇も、お化粧をするのにはとても映えるもの。それに大人の女性らしい素敵なデザインのドレスだって着れるもの……)
学生時代はこの見た目のせいで周囲から誤解され、大変な目に合ってきた。
だが噂に踊らされ、フィファナ自身を知ろうとしない人間を逆に遠ざける事が出来て結果的に良かったのかもしれない。
見た目に惑わされなかった人達とは今でも仲良くさせてもらっているのだから。
「──奥様、終わりました」
「……あ、ありがとう」
物思いに耽っていたフィファナは侍女から話し掛けられ、ハッとする。
鏡に映った自分の姿を見て、フィファナはにこりと笑顔を浮かべて礼を述べる。
綺麗に編み込まれ、サイドから流された海のように綺麗な青い髪色にフィファナは気分が良くなった。
軽く髪の毛を一撫でした後、フィファナは侍女に向かって口を開く。
「朝食の前に旦那様とお話がしたいわ。旦那様に知らせてくれる?」