表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

死番

作者: 弓馬

この手に持った包丁を、どこに刺そうか迷ってる。家に一人の夕方、包丁を逆手にわたしは、勝手に上がる息を整えている。お腹、やはり肝臓らへんだろうか、もしくは心臓か。死に至る場所とは。おもむろに手首を見やる。前にもこんなことを考えたことがある。


 *

 その時は手にカッターを持っていて、人体の急所の方が早く楽に死ねるのかもしれない、などと呑気に思っていた。でもどっちみち手首を切れば死ぬ、ということに疑問は無かったし、いかにもな包丁ではなく手にスッポリと収まるカッターだったからこそ、勇気が出たというのはあった。

 朝、学校に行ったフリをした日だった。親が仕事に出ていったのを見計らって、わたしは家に戻った。自分の部屋のベッドに寝転んで、天井を眺めていた。電気は点けてない。閉め切ったカーテンから漏れる光で充分だった。充分過ぎた。

 行きたくないと思ってサボった学校のことばかり考えていた。いつから、なぜ、いじめは始まったんだか。もう今は思い出せない。ただその時はとにかく限界で、顔をふと横に向けると、部屋の隅の机の端にある、可愛いと思って買ったペン立てに入ったカッターの刃が、キラリと光ってしまったのだ。抱えていた色んなモノのせいで何倍も体が重かったはずなのに、わたしは起き上がり、それに手を伸ばした。

 剥き出しの悪意と嘲笑。今はそれだけを鮮明に覚えてる。

 高校二年の六月頃だ。辛くても死なないということに目の前が真っ黒になっていた。暗いのではなく、黒いのだ。微かな光も吸い込んでしまうような、真っ黒。この先あと何十年もこの黒い道を辿り続けるのだという悲観。

 辛くても死なない。寿命まで死なない。交通事故なんてものは免罪符のように見えた。

 だから、そこに現れた人が、真っ白に見えたのだ。

 気付いたらその人は目の前に立っていた。ベッドに座ってカッターを握り締めるわたしを見下ろして、佇んでいた。わたしがそれを『人』と言っているのは、人の形をしているからであって、実際に見えていたのは白色の人の形をした『何か』だった。耳も目も、鼻も口も、全部それらしき輪郭や窪みはあるけど、その人自体が発光しているかのように影があまりなく、凹凸が分かりづらい。

人形を急ごしらえしたようなその顔でも、何となくこちらを見ているのだけは分かった。

 わたしはその白い人が何なのか全く理解できずに、しばらく見つめていた。それが物体なのか、自分の頭の中で作り出した幻影なのか、全く分からなかった。部屋の鍵も閉めていたし、というか玄関の鍵も閉めていたし、窓も開けていない。その人はただ、そこに現れたのだ。やがてその人は、無い口で話しかけてきた。

「生きて」

 男かも女かも分からない声がわたしには聞こえた。辛いことを考え過ぎた頭が思考を拒絶していて、わたしは彼が何なのかも質問はしなかった。ただ、「なんで?」とそれだけを返す。

「自分で考えて」

「死にたいんだもん」

「本当に、か?」

 白い人はカッターを握ったわたしの手に、その白い手を添えた。温かく感じたのは錯覚かもしれない。人の手は温かいものだから。その、人の形をした白い何かが人だとわたしは思っているから。いろんな理由がいろんな考え方で作られる。でもどうあれ、わたしの固くなっていた手は少し緩んだのだ。わたしとその人は、あの部屋に確かに生きて、存在していたのだ。

 衝動的にカッターを手にしたとはいえ、わたしがその時死にたかったかどうかなんて一目瞭然だった。死にたかったに決まってる。でも、死んで逃げ出したいと思っていた世界が、急に優しい手を伸ばしてきたのだ。

「うるさいな」

 その人はわたしの暴言を聞いても、何も言わなかった。ただそっと、添えていた手に力を込めて、その人はまた、「生きて」と言った。


 わたしは次の日学校へ行った。そんな勇気を自分はどこに持っていたのか分からない。あの白い人が何なのか、なぜわたしに「生きて」と言ったのか、分からない。

 ただ、死んだらおもしろいのにと、いつも誰かに言われているような気がしていたから。死んでも悲しんでくれる友達なんかいなかったから。わたしの思い込みでもいい、わたしの握りしめられた拳に添えられた手が優しかったから、「生きて」なんて言ってくれたから。

 だからわたしは、また黒い世界に向かった。


 ⁂

結局あの日以降にも、高校生の間ずっと、わたしは卒業するまで何度もあのカッターで死のうとした。でもその度に、あの白い人がわたしを止めたのだ。

 わたしは瞬きを何度かして、記憶の波から体を引き上げる。ここが三十歳の自分の家であることを確認する。包丁を持つ右手だけは、意識があったようにしっかりと力が込められていた。息が少しだけ整ってきていて、わたしは深呼吸をして、キラリと光る包丁を持ち直す。


 仕事から帰ってきたのは十数分前だ。定時で帰れたのは久しぶりだった。家に着いたら夕飯まではダラダラできる、そうウキウキ気分でいつもと違う時間の電車に乗ったから、ダメだったのかもしれない。わたしはまた、うねる波に吞み込まれる。


 *

 夕方の電車はやはり混んでいて、満員とまではいかないけど、立つ位置を選べない状況ではあった。二回目に電車が駅に停まった時、わたしは乗り込んでくる人に押され、反対側のドア近くに追いやられた。

「西堀か」

 突然、わたしの名前を呼んだのは、会社の元上司の長井さんだった。やつれた頬や、クマでいっぱいの目元、ヨレヨレのスーツを見れば、彼の状況はいくらか想像がついた。もしかしたらこの電車で帰るわけでもないのかもしれない。

「ご無沙汰してます」

 わたしは素っ気なく返した。すると、彼は髭が伸びた口を開ける。

「お前いま何してんの? どうせしょうもない会社なんだろうけど」

彼は昔と全く変わらない、人を見下した笑い方をした。

「いや、ずっと同じ会社にいますけど?」

「は?」

 長井さんの表情は一瞬消えた。わたしはさりげなく左手で髪をかき上げる。わたしを見ていた彼は、何かに気付いたようにグシャグシャと顔を歪め、憎しみがかったシワを顔いっぱいに広げる。

「なんで、お前なんかが。鈍臭くて、何もできないお前が、なんで……」

 電車がブレーキをかける音がして、わたしは助かった気がした。次は降りたかった駅ではないが、もうここにはいたくなかった。

「俺がお前を何回助けてやったと思ってるんだ! すいませんって謝ることしかできないくせに、お前みたいなやつは幸せになんかなれないはずだろ! お前みたいなやつは、しょうもない人生送るはずだろ!」

 電車のドアが開いて、わたしは降りた。新しい客が乗り込み閉まるまで、長井さんはずっと何かを言っていたが、もうわたしの耳には届かなかった。目の前で加速する電車を眺めた。

わたしはまた、横から来た違う流れに呑み込まれる。


 *

 新卒の社会人なんて使い物にならない、それは当たり前だって、色んな人に言われたし、自分でも自分に言い聞かせていた。

「またお前かよ、鈍臭ぇな」

 でも教育係である長井さんからそんな言葉を聞く度に、わたしの心臓はキリキリと痛んだ。

「何回お前の尻拭いしなきゃいけないわけ? こっちはそんな暇じゃないんだよお前とは違ってさ」

 わたしは数えきれないほど頭を下げた。

「ホント、お前みたいなやつがなんでうちの会社にいるんだよ」

 ドキドキしながら胸を躍らせてスーツを着る朝は一か月と無かった。会社に行くと、長井さんがいる。だからなのか、それとも、また真っ黒な世界に堕ちた未来、この先の四十年に対しての不安なのか、毎夜、体の電池が切れるまで眠れなかった。想像していた仕事と現実、朝起きたらやらなければいけないゴミ出し、洗濯物、先送りにしてしまった洗い物、インスタで見てしまった楽しそうに仕事をしている友達、その日に言われた言葉の数々、言えなかった言葉の数々、そういったことを眠れるまで考え続けた。思考が止まないが故の不眠は糖分が頭にあるせいだと思って、夕飯にお米を食べなくなり、具合は悪くなる一方だった。ハンガーにかけられたスーツはもうヨレヨレで、アイロンをかける暇がなく、シワが目立っていた。


 そうした日々のある一日、理由は何だったかなんてもう思い出せない、わたしは長井さんを探していた。誰かに喫煙室にいると聞いて、壁の薄いその部屋へと向かったのだ。ノックをしようとした直前、聞こえてきた。

「なぁ西堀どう思う?」

「どう、というのは?」

 一緒にいたのは同期で一番優秀な男の人だった。

「あいつ、正直マジで辞めてほしいんだよね~」「え、何でですか?」「何でって、あんだけ足引っ張ってて逆によく上もクビにしないよ。こっちは大迷惑だっつの」「そんなですか? 他の同期と別に変らないように見えますけど」

「いや、あいつがダントツでヤバい。こないだビックリしたんだよ。そんなことあるか⁉ みたいな。他のやつらのミスはまぁ分かるんだよそうなっちゃった理由はさぁ。お前だってミスはするけどそれは自分で考えて行動した結果だろ? でもあいつは違うんだよ。言われたことすらできない。あいつ、クビになった後はしょうもない人生送るんだろうな~」

「なる前提ですか」

 おう、と言って笑った長井さんの声を、薄いドアは遮ってくれなかった。

「どうせ結婚もできないだろうしな~。あいつ男と話すか?」

「あぁ、まぁ、確かにあんま見ないっすね」

「だよなー。見るからに陰キャだし、昔いじめられてたりしてな」

また、見下した笑い声が聞こえる。

「そんなやつが幸せな人生生きれるわけないんだよ」

 周りの音が消える。目の前は見えているのに認識できない、名前のある何かにならない、色と光り具合しか分からない。

「学校でいじめられてたらもうアウト! 人生終わり!」

 わたしはドアから離れた。息が上がって、後ろの壁に手をついて何とか立つ。それでもダメ押しのように聞こえてくる。

「あいつ今、何が楽しくて生きてんだろうな」

 頭の中で高校のときの記憶が一気に押し寄せる。肺が上手く動かなくて、空気を吸えない。

「もしかして長井さん、昔いじめしてました?」

「ははは、当たり」

 大学は比較的穏やかに過ごしたのだ。友達も少なからずできたしバイトで忙しくはあったが、高校のときのようなことは無かった。だからもう、出くわさないと思っていた。けど甘かった。いじめを受けていた私が大人になるように、いじめをしていた人も大人になるのだ。わたしはその場から離れた。でも、会社からは出られない。


 次の日、わたしは、会社に向かう駅のホームで、足の感覚が無いまま立ち尽くしていた。視界が十数メートルで終わってしまうそこは、わたしを閉じ込めているかのようだった。視線を落とすと、シワの寄ったスーツが視界に入った。

 黄色い線の上に立って、でも立っていようとはしていなかった。仕事に行かなくちゃいけない、お金を稼がなくちゃいけない、家事をしっかりしなくちゃいけない、そんな言葉たちが砂山となって、わたしはまるでそのてっぺんに刺さる棒切れのようだった。抜け出したいのに、そこからわたしは動けない。でも、砂山が無かったらわたしは、立っていられない。生活していけない。その矛盾に吐き気が止まらなかった。

 このまま足を前に出そうかな。だってどうせ動かないから。今わたしがこの足を操っているんじゃないんだから。脳みそが動けって言ったって、動かないはずでしょ。そうでしょ、じゃなきゃおかしいでしょ。だってわたしは、長井さんのいるところになんか行きたくないんだから。電車なんか待っていたくないんだから。こんな所に立っていたくなんかないんだから。わたしが立っていたいのは、ここじゃないんだから。

 いつの間にか大きくなっていた電車の音と心臓の音が、頭の中で響いていた。

 わたしは右足を動かした。

 スローモーションで重心が移動していくのを感じながら、目の前にある楽へと吸い込まれていった。

 

 ⁂

 すると突然、ガチャリと音がした。

「ミコ? 何してんの?」

 夫が、玄関から顔を出した。台所に立つわたしを見て、逆手に握られた包丁に気付く。

「あぁいや、何でもないよ」

「え、何怖いわ~。え、ホントに? 何か我慢してることあったら言ってね?」

 彼の心配そうな声、顔。その優しさ。

「いやいや、ホントに、何でもないの」

「ホント? マジで、恥ずかしいから言わないけど、さ、ね?」

 そう言いながら、彼はわたしの手から包丁を優しく取り、それをカウンターに置いてから、わたしを抱き寄せる。彼の胸から、優しい言葉が規則正しく聞こえてくる。


 *

あの時、やっぱり、白い手がわたしの肩を掴んだのだ。前に出そうとした右足は逆に後ろに着地して、獲物を逃した獣のような鳴き声を上げて電車がわたしの前を通り過ぎていった。

 振り返って、その白い人を見た。その、死のうとする度に止めてくる、凹凸がはっきりしない人の形。またあんたか、とわたしは心の中で思わず呟いた。周りを一瞬見渡して、近くにいる人を確認した。けど、スマホを見下ろしている彼らがこの人の存在に気付いているかどうかは、分からなかった。

「なんなん? あんた。何でいつも止めてくんの?」

 苛立ちと疲れで、言葉に気を遣えなかった。でも周りに聞こえないように自分が小さい声で言っていることに気付いて、嫌になった。

 でも、ほとんど八つ当たりみたいな言葉を聞いてもその人は、穏やかに言った。

「あなたが、生きたいだろうから」

「いや、は?」

 思わず声が大きくなってしまって、一番近くにいたスーツのおじさんが、スマホから顔を上げてわたしを見た。けど、何事も無かったように、彼は顔を戻した。この白い人は他の人には見えないのだろうか。わたしは声を落として、言う。

「死のうとしてた、んですけど」

 その白い人は何も言わなかった。でも真っ直ぐに、顔がこちらに向いていた。

わたしの頭はその人の言葉を否定していた。それでもその言葉が、わたしの心の何かを一瞬、照らしたような気がした。わたしは次の電車の時間を確認してから、「ちょっと、こっち来て」と言って、人が少ないと思われるホームの一番端っこへと歩き出した。

 ふと振り向くと、その白い人は普通に歩いて追って来ていた。やはり、真っ白でボヤけている以外は、普通の人のようだった。

 予想通りホームの端っこは開けていて、端にある錆びついた柵に寄りかかれば、半径二十メートルは人がいなかった。柵の向こうには、線路の束と白い砂利と入り組んだ送電線が、ずっと遠くまで続いていた。さっきの、十数メートルで視界が終わっていたホームの中の景色とは明らかに違った。わたしは息を大きく吸って、吐き出した。

「何でわたしが生きたいと思ってる、って、思ったの?」

 わたしはさっきチラリと光ったはずの場所の傍に膝をつき、目を凝らす。

「なんでだろう」

「分かんないんかよ」

 柵に寄りかかり腕に顎を乗せて目をつぶる。さっきまで、容量が少なくてずっとローディング中になっているスマホみたいだった頭が、やっと処理を進め始めた。

「でも、生きたいでしょ?」

 わたしは目を開けて、そう言ったその人の顔を覗き込む。けど、真っ白な顔の形をした何かは、わたしに何も伝えない。

「だから、んなわけない」

 そう言ってまた目をつぶる。さっき光った何かが再び瞬くことはなく、もうその場所すら完全に見失った。わたしは探すのを止めて、回っていた頭がもたげた当然の疑問を口にした。

「あんたは結局何なの? どういう存在なの?」

 その人はゆったりとした口調で答えた。

「あなたの、生きたい、って気持ちが、私をここに現したんだ」

 伝えようと前のめりにならず、ただ、自分の声が相手に届くと信じているような話し方。

「だからあなたが、生きたい、って思っていることは、分かる」

 それは驕りではなく、ただただわたしを信じている、そんな言葉。

「意味わかんない」

 わたしは跳ね除けるが、黒い世界でまた何かが光った。その白い人は、間を開けてから、言う。

「ミコトさん」

 はじめてその人はわたしの名前を呼んだ。わたしは思わず顔を上げて、その人を見る。

「頑張れ」

 その言葉は、人の背中を刺す無責任な槍などではなく、思わず足を止めてしまうような、嘲りを含んだ投げやりな相槌でもなかった。

「ミコトさんが幸せになればいい」

 わたしの隣にそっと立って、体を支えてくれるような、そんな言葉だった。

 わたしは胸の奥で、温かいものが溢れてくるのを感じた。何日も歩いていた、何も見えない真っ黒な世界に、その言葉は降り注いだ。

「なれないよ」

「大丈夫、なれるよ」

 わたしは涙が出そうになるのを必死に堪える。黒い世界で光り続ける何かが、眩しいぐらいに照らされていた。

「ねぇ、それって、前のときも?」

 わたしはその白い人を、真っ直ぐに見る。『それ』が何か言わなくても、その人には分かったようで、「うん」と静かに言った。

 真っ黒な世界でただ一つ光るそれの輪郭を、わたしはやっと捉える。

大きな機械の音が近付いてきて、さっきまで獣のような顔をしていた電車が、そっとすぐ横で止まった。

 わたしは「そっか」と言って、寄りかかっていた柵を手放し、近くで開いたドアに向かった。

「そうだね、わたしは、生きたかったんだ」

 わたしは電車に乗り込む。振り返ると、ドアがわたしの視界を横切って、その白い人を消してしまった。


 会社に向かう電車に、わたしは揺られていた。

 こんな所に立っていたくなんかない、それはつまり、別の場所なら、生きていたいのだ。自分で望んで入った会社だったのだから、もし長井さんがいなかったとしたら、わたしは生きていたかったのだ。

わたしは、死んで楽になりたかった。でもそれは、砂山から抜け出せる一番手っ取り早い方法だっただけだ。楽になりたかっただけだ。だからあの人は現れた。

高校のときもそうだ。わたしが死のうとしたとき、あの人は、『同じように』現れたのだ。いじめなんて無かったら、わたしは生きていたかったのだ。

 わたしは死にたかったんじゃない。もっと良いところで生きたかったのだ。

 あのとき高校に通い続けられたのは、あの白い人が世界を、少しだけ良くしてくれたからなんだ。

 頑張れ。

ミコトさんが幸せになればいい。

あの人の言葉が蘇って、少しだけ、わたしは笑顔になる。

シワの寄ったスーツに、もう何も思わなかった。


 ⁂

 結局、長井さんは女性関係で不祥事を起こしてクビになったのだ。だから、会ったのは七年ぶりだった。彼がその後どんな仕事をしているのかなんて全く知らなかった。けど、夕方の電車に乗っていたあの疲れ切った風体と言葉たちから察するに、いい職にはついていないし彼はあの頃と変わっていないのだろう。ざまぁみろ、と言う気持ちには、なれなかった。あの性格が変わっていなかったのだから、彼の現状は自業自得という可能性がほとんどだろうし、あの疲れ切った顔があの頃の自分と重なった。もう十分に報いは受けている気がした。

 一方のわたしは、少しづつ仕事もできるようになり、実績を重ね、昇進も年相応にした。

頑張れ。

ミコトさんが幸せになればいい。

 その間ずっと、その言葉はわたしの心の中を支え続けた。そしてわたしは夫と出会い、結婚したのだ。

 そんなやつが幸せな人生生きれるわけないんだよ。

 夫との日々は毎日泣きそうになるほど幸せだった。長井さんの酷い言葉たちが、あの時わたしの心に突き刺さって抉ったのは、わたし自身が一番そう思っていたからだ。わたしを否定し馬鹿にするあの言葉は、いつもわたしが自分に言っていたことだった。

 高校でいじめられて、それに見合った暗くてねじ曲がった性格になって、手首を切ろうとした日々、飛び込もうとした瞬間だって結局そう、死んだほうがいいと嘆いた日がいくつもある。自分の人生が自分を物語っている、その事実にわたしが一番耐えられなかった。

 だから、あの白い人の言葉がわたしを頑張らせてくれたし、すべてを肯定してくれるような夫との出会い、夫との過ごす日々は、自分じゃない誰かに、もしくは、幸せな自分に、なったような気がしたのだ。夫と出会ってからは、幸せを嚙みしめる毎日だった。

 でも何年かして、ある日気付いた。わたしが、生きていてよかった、と思っていることに。何度も死のうとしたあの日たちを、生き延びてよかったと思っていることに。

 いつもいつも、死のうとする度に止めてくる人がいたこと。その人に対して、ずっと八つ当たりみたいな話し方をしていたこと。なのにわたしは今、幸せなこと。

 そして、それらに対する思考が不十分なまま、つい昨日、夫とある話をしたのだ。


「これ全然愚痴とかじゃないんだけどさ、ちょっと前まで仕事が忙しくて、俺やばかった時あったでしょ?」

「うん、わかる」

 確かに、一か月ぐらい前は帰ったらご飯を食べて寝るだけの生活を彼はしていた。

「んでその時さ、駅から歩いてる途中にちょっと脇道入ると土手に出んじゃん? そこにふらっと寄ったのよ、まぁ疲れててさ」

 わたしは、「うん」と言って頷く。

「そしたら今どきアコギ持って練習してる人がいてさ、十代とか二十前半とかなら分かるんだけど、もうどう見たって三十超えててさ」

「うん」とまた、わたしは頷いて、隣で寝ている彼に身を寄せる。

「あ、これ別に馬鹿にしてるんじゃなくてね? むしろ最高って話なんだけどさ。曲はオリジナルなのか分かんないんだけどめっちゃよくて、声もすごいかっこいいし普通に上手いのよ歌。んで俺立ち止まってさ、しばらく聞いてて、何より歌詞がすげー良かった。そっから毎日俺帰り道寄っててさ、でもここしばらくその人いなくて」

 もうやめちゃったのかな、と言う夫を見ながらわたしは、あの白い人を、思い浮かべていた。理由は、何となく分かる。

「まぁなんか救われたっていうのは大袈裟だけどさ、いい曲でしたとかさ、ありがとうとかさ、言いたかったなぁと思って」

 夫は、少しだけ後悔している顔になって言った。わたしは、「そうだね」とだけ、「そうだね」としか、言えなかった。

「まぁだからなんか、伝えられるときにしっかりと言っとこうと思ってさ」

すると彼は、いつも色々ありがとう、とわたしに顔をしっかりと向けて言った。わたしは泣きそうになってしまった。こんな優しい人と、こんないい人と、わたしはいま一緒にいる。幸せだった。屈託無く言えた。

 でも今が輝けば輝くほど、だからこそ、ミコトさんが幸せになればいい、そう言ってくれたあの白い人に、わたしは何もしていないという事実が、目の前を覆った。お礼を伝えられなくて申し訳ないとか、感謝を伝えていない自分を責めるだとか、そういうのではない、もっと根源的なモノ。


 だからわたしは、今日、電車で長井さんに出会って、帰ってきた時、包丁を持ったのだ。何度もわたしを救ってくれたあの白い人に、もう一度会いたかった。会って、伝えたかった。いま幸せであること、そしてそれは、あなたが何度も現れてくれたからだということ。その後に、この言葉にならない気持ちを。

 あの人のおかげで得た幸せな人生だった。だから、あの人のために投げうってもよかった。刺そうとして現れなかったとしても、そのまま死んだとしても、あの人にこの気持ちを伝えられるかもしれないなら、それでよかった。


「よし、先風呂入る?」

 夫はわたしを抱きしめていた手を緩める。

「ううん、先いいよ」

 わたしは彼が纏う空気を胸いっぱいに吸い込んでから、彼の背中に回していた手を離した。

「そお? 夕飯はきょう俺が作るよ、ミコは休んでな」

 彼の拭えない心配を、わたしは「ありがとう」と言って胸にしまい、脱衣所に向かう彼の背中を見送った。

 幸せを感じれば感じるほど、あの人への思いが強くなる。夫の優しさに触れれば触れるほど、何度も死のうとした過去を見返せる。

 わたしは夫が置いた包丁を再び持って、自分の手首にその刃を乗せる。

 最後に会ってから、七年になる。もうあの人は現れないのかもしれない。もう夫には会えなくなるのかもしれない。それでもわたしは、息を一つ吐いた。そして、包丁を持つ手に力を込める。

 でも、その瞬間、わたしの肩に白い手が触れた。

「やめて」

 凹凸がはっきりしないあの白い人の、あの声が、聞こえた。

 わかっていた。

 だってこの人は、わたしが生きたいと思って死のうとしていたら、現れてくれるのだから。そんな、優しい人だから。真っ黒な世界で唯一、白く光っていたから。わたしがこれまで何度も死のうとするのをやめたのは、その優しさに触れたからなのだ。

 肩に触れるその手は、やっぱり温かい。

 わたしはきっとこれからも、この人のおかげで生きていける。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ