崎嶇の岬
薄闇色を塗りたくったクロッキー紙の中心を黄色で丸く塗り潰し、それを柔らかく包むように赤い逆さまの稜線を描く。
水平線の向こうにはあの富士山さえ臨める、なんて市の謳い文句を僕は信じていない。十数年とこの地で生まれ育ったが、現に僕はそんな光景を見たことがない。そもそも遥か先にある豆粒ほどの大霊峰が見えるわけがないし、見えたとしてもこの美しい夕焼けに水を差すようで気に入らない、と思う。
展望台の眼下には角ばった防波堤と、それを縁取りに使う入り組んだ港。防波堤から砂浜を挟んだ手前の向かいには刑部岬の奈落のような断崖絶壁が威風堂々と聳え立ち、麓には巨大なコンクリートブロックを叩き割って並べたような遊歩道が静かに横たわっている。風光明媚で奇怪と名高い幾星霜もの地球の歴史そのものである縞模様だが、しかし観光客向けの案内板に仰々しく写真が載っているから辛うじてそうと分かるのである。
展望台はその小高い縞模様の上にある。つまり僕から見えるのは静まり返った港と薄闇に沈みつつある赤光だけ。久しく緩い風だというのに、釣り人の一人もいない。この時期は誰も彼も忙しなくて海どころではないみたいだ。
「ここから飛び降りたら、ぜーんぶ元通りになるかな!」
手を止めて振り向くと、にやにやと笑う彼女がすぐそこにある背の低い灯台の影から顔を覗かせていた。
「ならないと思うよ」
「えー」
何が「えー」だ。と、ぼやくかわりに僕は手元の紙に向き直った。どたどたと慌ただしい足音が聞こえて、反射的にため息が出る。
「まだ描いてるのー?」
彼女は芝生の上で軽快にステップを踏みながら、展望デッキにいる僕を見上げて悪戯っぽく笑う。
鼻先で渦を巻く太陽と潮の匂い。僕は嘆息して踵を返しデッキを下りる。建物をぐるりと回ると、さっきまでと同じ悪戯っぽい笑みが僕を覗き込んできた。
「今日はいい日なんだ。富士山が見えるかもしれない日」
「そんなの見えるわけないじゃん」
二人揃って安全柵に近づいて、風景にクロッキー帳を翳す。じっと向こうの空を睨む彼女の長い黒髪がふわりと揺れて、僕はつい紙の方に目を逸らしてしまう。こんな風になったのは何も最近のことじゃない。
僕たちは幼馴染みだった。
ただ家が近くて、ただ家族ぐるみで仲がよくて、ただ保育園から中学まで一緒で、高校を卒業するタイミングでまた一緒にいる時間が多くなっただけの、ただの幼馴染み。
受験が終わり自由登校になった頃、気晴らしに風景でも描こうかと立ち寄った展望台に彼女はいた。上着も羽織らず、時期にしては薄手のワンピースを着て、ぼんやりと海の向こうを眺めていた。
驚く僕に「久しぶり」と笑いかけた彼女はまるで昔のままで、いっそう僕を驚かせた。ただおかげで変に背伸びせず話をすることができた。高校で美術部に入ったこと、高校のある隣街に美味しいラーメン屋があること、大学が東京にあること、そして別れてから今までの色々なこと。
離れていた時間を忘れるくらい話をして、果ての空に日が沈む頃にはかつての僕たちに戻っていた。正確には、相変わらずの彼女の隣に僕がやっと追いついたのだと思う。
それからほぼ毎日、夕暮れになるとこの場所に集まって、他愛のない会話をしながら僕の絵に付き合ってもらうのが日課になった。
「相変わらず綺麗だね」
彼女はよく、僕が紙の上ではしらせるパステルの動きを飽きもせず眺めていた。かと思えば糸が切れたように空の方を向いて、微かな潮騒と風に髪を揺らし、気持ちよさそうに目を閉じる。その繰り返し。
黙々と描きながら、景色を確認するふりをして彼女に目を遣る。彼女の横顔には夕陽に紛れて緩んだ口元が浮かんでいて、僕にはそれがどこか勝ち誇った表情にも見えた。
「富士山なんてどこにも見えないじゃん」
目を凝らして不満を垂れる彼女に、僕は描きあげた一枚をちぎって渡す。日はもう沈んでいた。
「これ、今日の分」
「まいど」
彼女は受け取った紙を絵が内になるよう折りたたんでポケットにしまう。再会した日、最初に欲しいと言ったのは彼女で、こうして日毎の絵を渡すのもまた日課になっていた。同時にそれが帰宅の合図だった。
「じゃあ、また明日」
「うん」
僕は荷物をリュックに詰めて駐輪場に向かう。
そういえば。
「ここに来るの、明日が最後になると思う」
彼女は特に驚かなかった。ひらひらと振る手を少し止めただけ。「うん」と答えて、また微笑んで手を振る。
それが妙に悔しくて、僕は二度と振り返ることなく早足で自転車を確保し、展望台の前の坂道を全速力で駆け下りたのだった。
◇
翌日は卒業式で、幸い友達の少ない僕は卒業式が終わったあとに貴重な美術部の後輩に別れを告げ、そそくさと帰途についた。
いつもの道を下り、恐らく最後の一杯になるであろうラーメンを啜って、いつもより乗客の少ない電車に乗る。家の最寄り駅で降りて、自転車に乗り換えていつもの坂を登る。カゴに入れた卒業証書の筒が弾みで飛びそうになるのをおさえながら、ただただ夢中で展望台を目指した。
彼女は展望デッキから遠く海を見据えていた。
「今日は早いね」
「たまたまだよ」
彼女はほっとしたように笑って、隣に立った僕もまた同じように笑った。
よく晴れた昼下がりの太陽に目を細めながら、僕たちはいつも通り他愛のない会話をした。途中で「晴れた景色も描いてほしい」とねだられたので、結局いつも通り手を動かしながら、彼女の様子を伺いながら、ゆるやかな波間を縫うように話をする。
いつも通り、いつも通り。そう思えば思うほど早送りのように時間が過ぎ、あれほど青かった空はいつの間にか反対色に染まっていた。
「ねえ、昨日のことだけどさ」
思わずパステルを止めてしまった。
彼女のその言葉をどこかで待っていたような気もする。……ということも、彼女に見透かされているような気がする。いの一番に聞いてくれていたら、こんなに悔しい思いをしなくても済んだろうに。
言い訳に頭を巡らせていると、妙に聞き馴染みのある声が聞こえてきた。
『――ホントだって、マジで見たんだよ!』
知っている。これは今日まで同じクラスだった男女グループの、酷く浮ついた声だ。
近づいてくる気配に僕は戸惑った。どうしてこんなところに? よりも、なんとなく、彼らから隠れなければいけない気がした。
「上に行こう」
「えっ」
違う意味で戸惑っている彼女の手を無理やり引いて、展望台の最上部に続く螺旋階段を駆け足で上る。入れ違いで自分たちの庭かのように大騒ぎする男女四人の声がすぐ下から聞こえた。
『おかしいなあ……確かにここに……』
『どうせまた大ウソなんじゃねぇのー?』
壁に凭れて息を整えながら、つい彼らの話に聞き耳を立ててしまう。何かを探している男の声。それを笑い飛ばしている男女の声。
「知りあい?」という彼女の質問にも答えず、僕はただ好奇心のまま彼らの目的を聞こうとしていた。
『いやいや、ここ出るって有名だぜ!?』
たぶん、悪い予感だった。
『俺も見たんだよ。ツナミに呑まれた無念の女の――』
何をしたかったのか分からない。ただ反射的に階段の方に体は向いていて、次の瞬間には手をぐいっと引っ張られていた。
振り返ると、苦しそうに笑う彼女がいた。
彼女の瞳は一直線に僕を見ていた。とにかく真っ直ぐに、一縷の迷いもなく。ふるふると頭を振って決して手を離そうとしない彼女を、僕は静かに、そっと抱きしめた。
◇
二人揃って汚れも気にせず座り込んで、しばらく開けたグラデーションの空を眺めていた。階下から大小の笑い声が聞こえる度に、繋いだ手を彼女が強く握る。僕もそれに応えて握り返す。彼らが飽きて帰るまで、何度も、何度も。
「ねぇ、私やっぱり夕暮れが好き」
その声はどんな音にも紛れず、確実に僕の耳に届いた。
「夕暮れはね、すごく静かなんだ。灼けるような太陽と痛いくらい鮮やかな空なのに、すごく静かなの。そんな気がするの」
僕はクロッキー帳に目を落とした。ついさっき塗っていたぼんやりと明るい空の色。彼女の言葉を聞いたあとだと、どこか物足りなささえ感じてしまう。
「じゃあ……」
僕はリュックから薄闇色のパステルを取り出して、薄い青の上から塗りたくった。それから中心を黄色で塗り潰し、柔らかく包むように逆さまの赤い稜線を描く。
「どう?」
「せっかくだから答えあわせしよ」
微笑みながら立ち上がる彼女の後を追って、水平線に振り返る。
眼下には入り組んだ港、そしてのっぺりとして崎嶇の少ない僕たちの街。かつて黒い波にすべてを呑まれ、すべてを攫われた僕たちの街が、燃え盛る陽に照らされて眩しく輝いている。
「あ、ねぇあれって」
彼女の指差す先には、沈む夕日を隠すような大きな三角形があった。
「本当に見えるんだね。最後に見られてよかったね」
うん、と答えながら、クロッキー紙に同じような三角形を描き込む。
悔しいくらいに綺麗だった。やっぱり日本一の大霊峰は伊達ではないなと、素直にそう思った。
「ありがとね」
「あのさ、またここで――」
もうそこに、彼女の姿はなかった。
どこにも、何も残さず、彼女は消えていた。遠い海風が彼女のいた場所を我が物顔で通り過ぎていった。
僕は描きあげた一枚をちぎって、その風に手渡す。
ひらひらと舞いあがった紙はあっという間に街の方へ飛んでいった。見えなくなるまで、僕はいつまでもその姿を追っていた。