レフィ
リュウは一つの呼吸の間に鞘から刀を抜き放ち、その白刃を少女の首元にあてがった。その速度は尋常ではなかった。彼が腰を深く落とし、黒い鞘から銀の光がのぞいた瞬間には刃はその位置にあった。
少女は自分の首元に命を奪う鋭い刃が迫っているのを知ると、極度の緊張で体を強張らせる。動けば、誤って首の血管を切断するかもしれない。彼女には身じろぎ一つも許されない。
「人は誰もが、他人を害する力を持ってる」
リュウは姿勢を崩さずに話す。
「でも皆、それを制御している。今の僕みたいに。それが出来ない人は不要な暴力を振るう野蛮人と言われるような人間になる。でも、君は違うよ」
リュウは刀を下ろし、一息に音もなく刃を鞘に納める。そして、少女に向けて笑いかけた。
「君は今命の危険に晒されたけど、僕に力を向けなかった。そりゃあ、今の会話の内容から力を振るわないのが正しい行動なのは分かる。僕が君を殺すようなことをしないことだって分かるさ。でも、反射的にでも君は力を振るわなかった。それは、君がちゃんと力を振るう場面を弁えているってことだ」
「え……い、今のが証明だっていうのか? オレが、他人を傷つけないっていう?」
リュウの発言に、少女は恐怖や不安を忘れて驚いた声を出す。
「少なくとも冷静な場面じゃ変なことはしない証明になったと思うよ」
リュウは少女が平静の状態なら力を無暗に振るうことはないだろうと言う。
そして、彼は観察を終えると呆けた顔をしている少女の隙を突き、彼女のすぐそばまで素早く歩み寄る。正気に戻った少女がすぐに身を引かせようとするが、リュウはその前に彼女の腕を掴んだ。
「やめっ、オレは危険……」
「いい加減しつこいよ。どうせ君は僕の屋敷で保護を受ける以外に道はないんだから。ほら行くよ」
「へ……聞いてないぞ!」
リュウは突如として少女を自分の屋敷で泊めると言い始めた。それも、既に確定したことかのように。少女は棒で突かれた鳩のような声を出してリュウの手から逃れようとするが、彼は決して離さない。少女は体で抵抗できないと知ると、ムキになって声を上げる。
「オレは人を殺したんだぞ! そんな奴を家に入れる事、他の奴が許すのかよ」
「大丈夫さ。許させるか隠れてやる」
「いいのかそれで!」
「しつこいって。もう……こうやって抵抗してるときにも能力を使ってないし、君は安全だよ。安心しなって」
徹底的なリュウの姿勢に少女は抵抗の意志を削がれ、静かになる。彼女の中で、リュウの提案を飲む方向に思考が進んでいるのだろう。だが、まだ彼女の中で引っかかるものがある。彼女は目線を下に、漏らすように言う。
「……いいのか、本当に。オレみたいな得体の知れない奴を、助けてくれるのか?」
「そうだよ。いくら聞いても答えは変わらない」
「…………ありがとう」
最後、少女は掠れるような小さい声で言った。それを長い耳で一言一句たりとも聞き逃さかったリュウは、口元に笑みを浮かべ、少女の頭に手を置いて撫でる。そうしてから、屋敷の方へと足を向けた。
「それじゃ行こう。ああ、そういえば僕達、自己紹介もしてなかったね。僕はリュウ。君は?」
「ああ……覚えてない」
「は? 覚えてない?」
屋敷に戻る道すがら、自己紹介をし合おうと声をかけたリュウだが、思いもよらない返答を受けて思わず振り返る。少女は彼の視線に対し、申し訳なさそうに説明した。
「名前というか、その……あの場所に来る前までのことが、一切思い出せないんだ。それと、正気じゃなかった頃の記憶もほとんどあやふやだし……。なんて言うか、前のこと全く思い出せないから、喪失感みたいなもんもあんまなくてさ……これまで言う機会もなかったしよ」
「そう、記憶が」
少女は本当に何も気にしていない風だった。記憶をなくすなどという事は非常事態だが、以前の記憶がないことが逆に彼女を動揺させなかったのだろう。だが、少女の様子と反してリュウは顔を曇らせる。
(記憶をなくしたのはいつだろう。あの場所で、実験を受ける最中に失ったのか、それとも……)
少女の記憶について思考する中、彼はあることを思い出す。それは、少女が暴走している時のことだ。涙を流しながら頭を押さえる少女の姿。その直前には何度も能力を酷使していた。それら前後の状況を思い返し、リュウの頭には嫌な予感が浮かぶ。
(まさか……いや、そんなわけ……)
「リュウが考えてくれないか?」
「……えっ?」
リュウの思考を遮るように少女が声を上げる。彼は重い考えに俯きかけていた顔を持ち上げる。
「何をだい?」
「記憶が戻って名前を思い出すまでの、オレの呼び名。リュウに決めてほしいんだ」
「僕が? んぅ……君の名前、か」
少女は記憶を取り戻すまでの仮の呼び名をリュウに求める。これを決めなくては普通に会話することにも支障をきたしてしまうだろうと少女は付け加えた。彼女の言葉を受けると、リュウは眉間にしわを寄せて深く考える。ただ、彼は少女と長い付き合いを持っているわけでもなく、何か由来を持つ名前を考えることはできない。悩んだ結果、彼は結局当たり障りのない案を出した。
「……レフィ。レフィにしよう」




