埒外の思考
暗い夜の通りを照らす街灯が鈍く点滅した瞬間、鵺は羽ばたいた。黄金の翅が空気を圧すると、その瞬間、彼の体は前方のソーンの頭上にまで大きく飛翔する。月の光が広がった翅によって遮られ、大きな影が周囲を覆う。
次の瞬間、鵺は空中で右手を大きく振り上げた。何かしらの攻撃を仕掛けてくる、そう判断したソーンは頭上の鵺に対して身構えた。カスミの発言通りの能力を持っているのならば、備えられてしまってはほとんど攻撃が通ることはないだろう。しかし、それでも鵺は自分の行動を止めることはしなかった。それは眼前の敵への怒りで冷静さを失っているためではなく、自分の行動に確かな自信を持っていたためだ。
「……これは」
ソーンの視界に大きな異常が発生する。それは、影だ。月明かりや街灯の光を受ける鵺の姿、その影の形が大きく変化したのだ。闇の奥に見える鵺の腕が、人間のそれとは思えない変容を遂げていく。人肌に覆われていた手首から先は深緑の甲殻に覆われた刃に代わると同時に、右腕全体が細く、そして何より長くなった。まるで、人間としての腕の中に今の姿を甲虫の関節のように折りたたんで格納していたかのようだ。いくつかの関節によって駆動しているらしきその腕、その刃は地面に佇むソーンに凄まじい速度で向かってくる。
(蟷螂か……)
高所の優位、そして何より予想しえないという有利から放たれる鵺の一撃目。だが、それにソーンは冷静に対処する。自分の動きをある程度制限してしまう固定能力による防御はせず、その場から大きく飛び退くことによって攻撃を躱した。鵺の右腕は地面の石畳を捉え、裂け目をつくる。
(亜人、それも相当特殊だな)
鵺は上空五メートルほどを飛行している。彼はその高所の優位を譲らぬよう、再び右腕を振るった。人間のそれとは思えない数の関節を有した彼の腕は奇妙に折れ曲がり、石畳から抜け出すと、すぐにその刃を横に薙ぐ。およそ対人戦闘では有り得ない軌道の攻撃。
だが、ソーンの防御が強力なのは、敵の攻撃を必ずしも見切る必要がないということだ。ソーンは一度目の回避をした位置に立ったまま、鵺の攻撃を受ける。だが、当然その攻撃が彼女の体を損傷させることはなかった。カスミの街灯による攻撃を防いだのと同じように、鵺の攻撃はソーンの衣服に阻まれる。彼女は纏っている衣服を固定させたのだ。人の体を切断して余りある一撃が、何の変哲もない布に傷もつけられずに止まる。
「説明通りか」
鵺は遠距離を維持したままの攻撃により、ミリィの説明の内一つに確証を得る。
だが、敵の能力を確認できたというアドバンテージを取ったその刹那。ソーンは素肌の右手を、進行の止まった鵺の腕に向かわせる。異様を背負っているとはいえ、これも鵺の体の一部。触れて掴んでしまえば能力の適用内だ。
だが、ソーンの反撃の思惑は妨害される。人の命を奪う能力を纏った彼女の右腕に、黒い線が巻き付いたのだ。何事かと線を辿って見てみれば、その先にいたのはフロウだ。彼女は拳銃に似たワイヤーを射出する道具をソーンに向かって放ち、その右腕を拘束したのだ。それは、いつかレプト達の元からアゲハを連れ去る際にも使っていたもの。フロウはそれを握りしめると、力を入れてソーンの腕を自分の方へと引き寄せる。ソーンの凶器とも言える右手が、鵺の腕から遠ざかった。
「小賢しい……」
自身の最大の矛である右腕を抑えられたままではまともに戦えない。そう判断したソーンは、空いた左手にナイフを持ち、ワイヤーを断とうとした。
だがその刹那、彼女の体は浮かび上がる。浮遊感を感じて地面に踏ん張ろうとする余裕もなかった。鵺の異様な右腕がソーンの体を掴み、空中に持ち上げたのだ。既に近くの建物の屋上に着地していた鵺は、右腕一つでソーンの体を持ち上げると、右腕の関節を締めていく。
「…………」
「このまま背骨をへし折る。自分の悪事に言い訳があるのなら、今が最後の機会だ」
言いながら、鵺は右腕に込める力をどんどんと強めていく。人の骨が軋む音ではなく、まるで木の擦れ合うような音を立てながら、彼の右腕はソーンの体を締め付ける。蟷螂のような腕の刃が彼女の体に傷をつくり、出血する。既に肉体に食い込んでいるためか、ソーンは防御の能力は行使してこない。そして、彼女が何か言葉を発して助けを求めることもなかった。
「いいだろう。死ね」
沈黙を了承ととった鵺が、右腕に込める力を一気に強めた。刃がソーンの体により深く食い込む。彼の腕が命を刈り取るまでには、ほんの十秒もかからないだろう。
だが、その瞬間だ。ソーンが動く。彼女のグローブに覆われていた左手、鵺の腕に巻き込まれて動かないはずのそれに変化が現れる。グローブが、ひとりでに消え失せたのだ。外れたのではなく、まるで最初からそんなものはしていなかったかのように、ソーンの左手は素肌の状態になる。
「ッ……ダーリン危ないッ!!」
足元から様子をうかがっていたフロウがいち早くその小さな変化に気付く。ソーンが起こしたのは小さな変化だったが、しかし、見過ごすことは出来ない重要な変化だ。グローブを固定することによって防御を実現させる左手がそのグローブを外されたという事は、それが別の用途、つまり攻撃に転用されるということ。鵺はソーンの左腕を巻き込んで彼女の体を締め付けている。だが、自分の身体を締め付ける腕に触れる程度、拘束された状態でも手首から先が自由であれば可能だった。それを分かっていたかのように、ソーンは素肌になった左手でそのまま鵺の腕に触れようとする。
「ッ!」
(消せるのは人だけではなく物体もか……)
フロウの言葉により、鵺は異常と自分に迫る危険を察知した。だが、今更右腕の拘束を解除したところで、その瞬間にソーンを突き放せるわけではない。解除のその一瞬間、腕を掴まれたらそれで終わりだ。
ソーンの左手が鵺の右腕に触れる。彼女は躊躇なく、自分の能力を行使した。
「……なにッ?」
次の瞬間、ソーンの体は支えを失って落下していく。当然、鵺の体に触れてその存在を消し飛ばしたのだから、彼の腕に掴み上げられていたのが落ちていくのは当たり前だ。そこに間違いはないし、そのつもりだった。だが、ソーンの視界には明確に、当初の彼女の意図からは大きく外れた景色が映り込んでいた。
鵺が、屋上に立ったままなのだ。そこに確かに存在している。絶対に彼の右腕に触れ、能力で消し飛ばした。その手応えも確かに感じていたはずなのに、何故か彼はまだそこに立っていた。落下途中、ソーンは鵺の様子を探りながら、起こった出来事を考える。
(なるほど……腕を)
答えに辿り着くのは容易だった。鵺の右腕、その肩から先がない。
(自切か。私が能力を使うより前に、自分の腕を切断した。私が消し飛ばしたのは奴の腕だけだったという訳か)
鵺の対処は全くソーンの予想外だった。意表を突いた咄嗟の対応は、ソーンの意識を一瞬曇らせる。
その不純に、フロウが乗じる。彼女はソーンの右腕に巻き付けたままのワイヤーを引っ張りながら、空いた左手で拳銃を構える。空中に身を放り出されたソーンでは、防御の術が限られていると判断しての行動。
咄嗟に放たれた弾丸は二発。どちらも落下途中のソーンの頭を正確にとらえていた。しかし、それが敵の血を噴き上げることはなかった。
フロウの弾丸は、夜闇の視界不良の中、落下途中のソーンの服に覆われていない頭部を正確に狙っていた。だが、それですらソーンは防ぐ。彼女は空中で身を翻すと、次の瞬間には衣服を固定し、二発の弾丸をそれによって防御した。何の変哲もない衣服が固定化されると、それはソーンの落下を一時的に止めるのと同時に、まるで特殊合金で造られた金属板のように銃弾を受け止めた。一呼吸後のフロウの視界には、ただの衣服を前に弾丸が平らに潰れているという異様な光景が映り込む。
「なんて反応速度なの……」
(ダーリンの拘束に対処した後、ダーリンが無事だったのはあいつにとって予想外だったはず。その状況から、銃弾に反応して確実な防御を……)
ソーンは弾丸の防御を終えると、態勢を立て直して地面に着地する。その次の瞬間にはナイフを再び手に持ち、フロウによって巻きつけられた右腕のワイヤーを切断した。ここまでのやり取りを経ても、ソーンはほとんど万全なままだ。
(動きは前より大分鈍いように見える。私も成長してるから? とはいえ、私とダーリンでこれなんて……)
ワイヤーを撒き取って回収し、フロウは拳銃を構えなおす。そんな彼女の隣に、建物の屋上にいた鵺がその翅で舞い戻ってくる。当然、右腕はないままだ。何故か出血はしていないが、四肢の一つは確かになくなっている。だが、愛する鵺のそんな姿を横目にしながらも、フロウは平静を保っていた。本来ならば心配を向けたい所だったが、それさえする余裕がないのだろう。フロウはソーンに向けた視線も銃も一切余所に向けないまま、隣の鵺に声をかける。
「腕大丈夫、ダーリン?」
「ああ。何回か脱皮すればまた生えてくる」
「分かった。今治ってくれるのが一番だけど……無理よね?」
「ああ。だが……」
鵺はなくなった自分の右腕の切断面を左手で押さえながら、眼前のソーンに視線を向ける。
「もう充分だ」
鵺の声色に不安はなかった。それどころか、戦闘の場における一定の緊張すら含んでいない。既に戦闘が終わり、安全を確認したかのような落ち着きがそこにはあった。
それを聞いて異常を感じたのはソーンだ。彼女が鵺の言葉に一体何事かと眉をひそめた、次の瞬間。
「……くッ!?」
(これは……毒か!?)
ソーンの視界が揺らぐ。月明かりと街灯の光が何重に重なっているようにも、影が大きく浸食しているようにも感じられるほど、彼女の意識は揺れ動いた。同時に、通常ならば立っていられないほどの眩暈がソーンを襲う。
(さっき……締め付けられた時、仕込んであったか)
腰回りに浅く刻まれた傷。決して深手とは言えないそれが、体を蝕む毒を入れる入り口になっていたらしい。理解した時には既に、毒は効力を発揮し始めていた。命の危機を感じるほどではないが、十全に戦闘行動を取れるような状態ではない。
「殺すための毒ではないから、死にはしない。だが、今すぐ俺の手で殺してやる」
鵺は膝をついて息を荒げるソーンに歩み寄る。その灰色の瞳に慈悲はない。
「さっきの一瞬、お前は服を固定させて自分の身を守ることが出来た。だが、敢えてそれをしなかった。そう行動したのは、俺を殺すためだろう」
「…………」
「自分の命よりも、他人の命を奪うことを優先するとは……到底理解できない」
ソーンの選択、その隙のために鵺達は勝利することが出来た。だが、それに至る彼女の思考回路は吐き気を催すような意思のために起きたものだ。今、鵺は手にした勝利を喜ぶことなど全くできなかった。彼はソーンにある程度まで近寄ると、万が一触れられたりはしないよう、距離を取ったまま止めの一撃を食らわせようと立ち止まる。
その時だ。
「……く、クく……勝ったつもりか」
ソーンは顔を上げないまま、口を開く。心の隙間に忍び込んでくるような、乾いた、それでいて粘着質な声色は鵺の動きを止める。だが、すぐに彼は思い直し、左腕を構えた。口車に乗ってしまって何かが起きた後では遅い。彼は一切の油断も傲慢もなく、ソーンの命を刈り取ろうと構える。
だが、鵺が行動する行動しないにかかわらず、ソーンは続きの言葉を口にした。
「二対二だぞ」
刹那、鵺の頭上を一人分の影が覆った。




