証明のための戦い
「カスミ……そんな」
血だまりの中に倒れ伏すカスミを目に、フレイは地面に横たわりながら咽ぶ。震えた声を漏らす彼の左足は、その足首から先が消え去っていた。ソーンのカスミへの接近を阻止しようとした際、攻撃を受け、ソーンに切断されたのだ。彼は激しい痛みと四肢の欠損のために、その場から立ち上がることもできなかった。だが、彼が涙を流すのは自分の身体の痛みのせいではなく、妻、そして娘さえも目の前で奪われてしまった事実のためだ。
「どんな気持ちだ?」
カスミの腹にナイフを突き立てたソーンは、倒れ伏す少女に目をやらず、その近くで這いつくばる彼女の父に目を向けた。その目には、嗜虐を愉悦としかしていない不敵な笑みが絶えず灯っていた。彼女は心をスクラップのように放り出されたフレイに歩み寄り、彼の自責の念を駆り立てるように言葉を並べる。
「守れなかったな。父親なのに。妻も娘も、お前が守るべきだった、はずなのに……なぁ?」
フレイは目の前で家族が傷つけられていながら、それに抵抗をすることが出来なかった。無力だったのだ。最早今の彼には、家族を奪った張本人に尊厳を踏みつけにされてさえ、言い返す気力も気概もなかった。
「クク、酷い顔だ。安心しろ。すぐにお前も殺して……」
ソーンは倒れたままのフレイの傍に立つと、その手に持っていたナイフを握り直した。カスミの血が未だに染めたままのナイフ。それでフレイを刺し殺すつもりだろう。
だが、彼女がそのナイフを振り上げ、家族の最後の一人を殺そうとしたその時だ。
「ッ!!」
瞬間、ソーンは背に業火のような殺意を感じる。まるでうなじに焼き印を押されているかのような、揺らぎの無い敵意。その気配を感じ取ることが出来たのは、彼女の豊富な戦闘経験、そして胸中に秘めた醜悪な命への偏愛と執着のためであった。
直観に従い、ソーンは背後を振り返る。だが、間に合わない。次の瞬間に彼女の視界を覆ったのは、血に塗れた、しかし真っ直ぐに向かってくる拳だ。
「ぶぐッ……!!?」
拳がソーンの顔面に突き刺さる。一意専心の心持で放たれ、矢の如く振るわれたそれは、ソーンの全身を数メートル後ろに吹っ飛ばす。だが、彼女は体勢を崩さず、その両足をしかと地面につけたまま後退り、すぐに顔を上げる。彼女にとって、自らの顔を襲う焼け付くような痛みに耐えるより、それを生み出した人間を特定する方が優先するべき事だった。
ソーンはすぐにその答えを得る。何故なら、その答えを持つ人間は逃げも隠れもせず、彼女の眼前に仁王立ちしていたからだ。
「……お、お前は……まだ」
カスミだ。ロンの猛攻を受け、腹と背にナイフを突き立てられて尚、彼女はそこに立っていた。血に汚れた歯を食いしばり、充血した目を見開いて、彼女はそこに立っている。全身をか弱い赤子のように震わせて、あるいは大地を揺るがすような溢れんばかりの力で震わせて、そこに立っている。自分の正しさと怒りを証明するためにそこに立っている。
(元から背負っていた傷。そして腹と背中の損傷。決して安く済むはずはない。確かに即死させる攻撃ではなかったが、十数分後には失血で死ぬように刺した。身動きも取ることは出来ないはず……なのに、こいつはこうして立っている。……腹と背中の出血が少ない。今こうして立っているのは、こいつの能力……そして執念か)
ソーンは殴られた頬を抑えながら、カスミの体の状態を観察する。その結果、通常では有り得ないとすぐに結論が出た。既に刀傷を幾つも負い、臓器の密集した腹部にも二つの刺し傷。生身の人間がこの状態で立てるわけはない。ソーンは当初考慮していた以上の力をカスミがその体に秘めているのを認めざるを得なかった。
(だが)
しかし、ソーンはそれ以上に自分の優位を悟っていた。彼女は勝ち誇ったように口角を釣り上げて笑い、燃えるような敵意の目を自分に向けるカスミに宣言してみせる。
「立てたからなんだ? それで勝てると? 馬鹿な小娘が……今の拳、痛くも痒くも無かったぞ。骨も歯も折れていない。口の中が少し切れた程度だ。さっきの街灯を引きちぎるような力を持っているとは到底思えない。つまり、過度な疲労と消耗、それに体を蝕まれている。今のお前が、さっきまで傷もつけることが出来なかった私に勝てると思うのか?」
勝ちは揺るがない。ソーンはそれを確信していた。説明したように負ける要素が無いというのがまず一つ、そして何より彼女は、自身の人生において単純な戦闘では敗北を経験したことがなかった。それは争いを避けていたためではなく、単純に負けたことが無かった。だからこその確信。
だが、ソーンの宣言を受けたカスミの顔に、絶望や失意はない。寧ろ、そこには希望があった。血で汚れた顔の中で、彼女はその瞳に光を携え、声を絞り出す。
「よく喋るようになったのね、このクソアバズレが」
「……なに?」
カスミは自らに言い聞かせ、奮い立たせるように言葉を続ける。
「さっきまでのアンタはまるで、私達をゴミみたいに扱ってた。認めるわ、勝負にもなってなかった。アンタは私が起きなかったら、私達家族を玩具で遊ぶみたいに全員殺し切っていた。でも、今のアンタは違う。勝ち誇ったわね? それはつまりさっきの拳で、私と勝負になっていることを、アンタが、自分で、心のどこかで認めたという事」
「…………」
「汚らしい冷や汗をかいたわね。私が全力を出せていたら今の一発で……もしかしたらって」
「……小娘が」
カスミの言葉は、ソーンの神経に触れてくる。今、彼女の前に立っているカスミは、勝負の場に立ったと認めてすらいなかった相手、そして自分の愉悦を満たすための道具でしかないと思っていた相手だ。だが、今その相手が自らの喉元に牙を突き立てんとしている。カスミが意識を取り戻した時の一撃で全力を出せていたのなら、ソーンの命がなかったことは言うまでもない。その否定できない事実が、彼女を苛立たせる。
「アンタが、物言わぬ玩具を踏みつけて幼稚に喜ぶイカレ女だってんなら、話は別だけどね」
カスミは何もしてなくても勝手に上がる息を無理矢理整え、構える。彼女の体の至る所から血が漏れ出ていた。先ほど受けた腹と背中の傷だけではなく、ロンから受けた刀傷からもだ。最早、彼女の能力が機能しなくなってきているのだろう。傷を塞いだのも身体能力強化の一環ならば、それが弱まって出血するのも自明だ。だが、そんなものにカスミの歩を緩ませることは出来なかった。
「でも違う。アンタは自分のしていることがどういうことかを分かっていながら、お母さんを殺したんだ。そして、同じように他の人達も……。許せない。絶対に、絶対にアンタを叩きのめす。私の人生が、正しかったことを証明するためにも」
(たとえ、勝てる見込みがなくても)
娘の帰還、そして再び無謀な挑戦をする様を後ろから見ていたフレイは、彼女のことを止めようとした。だが、すぐに思いとどまる。これから起こる闘争は、娘の人生の証明だ。止めてはならない。父である自分が止めたなら、カスミの信念はほんの少しでも揺らぐ。それが、命取りになる。フレイは口をつぐんだ。何をしようと、自分の命も娘の命もカスミにかかっている。ならば、身を任せるしかない。いや、身を任せたいと思ったのだ。
そして、カスミの前に宿敵が立ちはだかる。




