不条理の簒奪
カスミとフレイの眼前で、ジアの纏っていた服が落下した。コンクリートの床にそれが着地する音を聞いても、二人は一瞬、何が起こったのかを理解することが出来なかった。
ジア、二人の家族は消えた。衣服のみを残し、その体が跡形もなくその場から消え失せたのだ。それが、ただ単純にこの場から消えたのか、あるいはもっと別の事象なのか、その詳細を考察するような情報が二人には与えられていなかった。だから、二人は直前に起こったことを理解するのに、自然と記憶に答えを求めた。
ソーンを前にして、背中に這い寄るような恐怖が迫りくる中、カスミの目は事の成り行きを捉えていた。ソーンは笑った直後、一瞬でジアの前まで距離を詰めたのだ。そして、カスミ達家族が反応する間もなく、彼女はジアの頭を掴んだ。ジアの姿が視界から消えたのは、その直後のことだった。
「……なに、が……?」
カスミはただ、呆然自失としてその場に立ち尽くす。目の前で起こったこと、それをしたのが眼前のソーンらしいということ、それらが分かってなお、この事態にどう動けばいいのかが分からなかった。それは何より、消えた自分の母親がどうなったか、その仔細が分からなかったためである。
カスミより一足早く冷静さを取り戻したフレイが、ソーンに問う。
「お、お前……妻に、ジアに何をした」
攻撃されたのか、あるいはもっと別の何かなのか。だが、少なくとも眼前のソーンが浮かべている表情からは、善意を元にした行動を取ろうとしているような意志はうかがえない。フレイは全身を極度の緊張で固め、ソーンに直接問う。彼の肌には至る所に脂汗が浮かんでいた。それは、目の前で自分の妻が消えたという事態が何を示すのか、それを薄らと頭で理解していたためだ。正体を一切明かさず、無邪気な悦楽を求める笑みを携えたソーンが何を目的にしているかなどは分からない。だが少なくとも、自分達に利することではないだろう。そう確信していたからこそ、フレイの問う声はか細く、震えたものだった。
「死んだよ。もう戻らない」
笑みを携えたままソーンは答えた。含み笑いの混じる弾んだ声色。歪んで細められた彼女の双眸には、底無しの嗜虐心があった。ソーンはその感情の一切をカスミとフレイに向けたまま、瑞々(みずみず)しい声で語る。
「私の能力は、触れた人間を消せるんだ。この世からな。刃物で殺したり、撃ち殺すのと何ら変わらない。助かる手段は存在しないし、彼女はもう戻りはしない。私自身にも無理だ。毎日顔を合わせることが当然だったお前達の家族は、一人欠けた。もう思い出の中でしか会えない。もう一緒の食卓を囲むことも、肩を並べて笑うことも出来ないんだ」
家族の喪失。カスミの脳は一瞬、彼女自身の心を守るために、それを否定する言葉や信じるに足りないとする理由を探そうとした。しかし、その退路を塞ぐようにソーンは言葉を羅列する。彼女の言葉はまるで実体験を伴うかのようにカスミの頭に響き渡った。触れただけで人間を消すという並外れた能力が、刺し殺される、撃ち殺されるという言葉と共に頭に馴染み、母親が死んだという事が認識させられる。ソーン自身にも修復は出来ないという事実が、心が探していた可能性と期待を潰す。少し前までいつも通りと呼んでいたはずの日常がもう戻ってこないという宣告が、目の前で起きた出来事をしかと認識させる。
「あ…………ぁ……」
これまで、全てが曲がりなりにもうまく運んできた。紆余曲折を経る冒険を重ね、仲間との信頼を築き、彼らと共に自分達家族がいた街を解放しようと奔走した。血を流すことになりながらも、仲間は欠けることなく、命の危機などというものが皆を脅かさないよう、全てが成功していたはずだ。こんな不条理な喪失など、思考の隅にもなかった。
しかし、それは事実としてそこにある。理解を拒むことなど許されなかった。カスミの膝が折れる。床にへたり込んだ彼女は、瞬きすら忘れてジアの衣服が佇んでいるのを視界に捉えた。
「うあああぁぁぁァァーーーーッッ!!!!」
倉庫の中に、悲鳴とも雄叫びともつかない声が響き渡る。フレイだ。彼は負傷した足を携え、何度も転んで血と涙を床に散らしながら、自分の妻を奪ったソーンに向かって駆ける。悲哀と憤怒に満ち満ちた彼は、その感情のままに両手を振り上げ、ソーンの頭蓋を破壊しようと拳を握る。
だが、彼のそれが妻の仇を捉えることはなかった。
「お前は最後だ」
前触れなく、ソーンが動く。自らの命の危機が迫っているとは思えないその無造作な動きで、彼女は懐からナイフを取り出し、その刃先をフレイの右目に突き立てた。
「があァッ!! くぅ、あああぁぁぁーーッ……!!」
眼球が切り裂かれるよりも前に破裂する不快な音、飛び散る肉片、悲鳴と体躯が崩れ落ちる音。鮮血がカスミの元にまで飛び散った。フレイはソーンに指一本触れることすら出来ず、彼女の背後に倒れた。その後も、地を這うような低い悲鳴と、痛みに耐えられず爪が固い床を掻く音が響き続ける。
「お、おとうさッ……!」
自分の顔に父の血が飛び、ようやくカスミは時間が進み続けていることを知覚する。だが、その瞬間だ。カスミの眼前に、ソーンが立ち塞がる。ソーンは最初に殺して見せたジアの衣服を踏みつけにしてカスミの前に立つと、へたり込んだままの彼女と目線を合わせるように屈んだ。気味の悪い笑顔が、カスミのすぐ目の前に迫る。まるで、ソーンの暗い瞳の奥と自身の目が見えない糸で繋がれているかのように、カスミはそれから目を逸らすことが出来なかった。
「見てみろ。お前の父親の……角膜か。まあどうでもいい」
ソーンは手にしたナイフにこびりついた肉片を摘まみ、カスミの服に擦り付ける。他人の権利を凌辱するその行為にすら、ショートしてしまったカスミは反応できない。
「前の奴みたいに泣き叫ぶのもいいが、ん……そうやって自分を見失う様も面白い。もっと顔を見せてくれ」
ソーンはカスミの髪を掴むと、気遣いもなく引き上げて彼女の顔をよく観察する。淀んだ目、震えた唇、どこを見ても、その表情は家族の喪失という事実に耐えられない少女のものだった。それを改めて目に収めると、ソーンは口角を深く吊り上げ、白い歯を見せる。
その瞬間だ。濃い靄がかかったように不明瞭だったカスミの思考に光が差す。決して善意からきているとは思えない、鈍い光が差し込んだ。
(まえ……こいつは)
視界を覆うソーンの痛快な笑み。それを目の当たりにしながら、カスミは彼女の言葉について頭の中で繰り返し思考する。
(私達以外にも……)
ジアやフレイだけではない。ソーンは、ごく当然のように以前の殺しをも示唆する言葉を吐いてみせた。カスミはそれをゆっくりと脳で理解し、心に落とし込む。
その時、カスミの心が沸騰する。同時に、心臓が早鐘を打ち初め、拳が破裂せんばかりに固く握られた。彼女の全身に力が駆け巡る。家族を奪われ、心を無残に裂かれたカスミを突き動かしたのは、憤怒の炎だった。




