焦げた匂い
資料の内容を概ね把握したジンは、大きく息を吐いて思考を巡らせる。
(外の匂いから察するに、その少女とやらは既に外に出ている、か。今は五月に入った時分。これを書いた人間の想定は、大方合っていたという訳だ)
ジンは手に持つ資料を置いて、そういえば、と書いてあった内容を思い出してその場に屈む。そして、机の下を覗き込んだ。蛍光灯の光を全く寄せ付けない机の下には直方体の何かがあった。ジンはそれを机の下から持ち出し、光の下でよく観察する。
それは手の平ほどの大きさのケースだった。透明な蓋の奥には注射器が入っている。注射器の筒の部分には、薄い緑がかった透明な液体が揺らめいている。
「これが……」
書面にあったことが確かならば、これは安定剤というもので間違いないだろう。ジンは一応の確認というようにそのケースをあらゆる角度で観察した後、それを懐に入れる。
その後、彼は改めて部屋の中を粗く見回すと、扉を経て廊下に出る。そして、ガラスで隔てられていた隣の部屋があった方へと目を向けた。
隣の部屋の扉はジンが入っていた部屋の扉と同じ面に設置されていた。だが、状態は全く異なっている。隣の部屋の扉は、内側の状態と同じように真っ黒になっていたのだ。内側と同じく、何かが焼けた跡のように見える。扉だけではなく、周囲の床や壁にも跡がある。そして、その跡はまるで足跡のように廊下の一方向に向かって伸びていた。ジンはそれを辿って歩く。
しばらく歩くと、その跡は突如として途切れていた。それを見ると、ジンはゆっくりと床に向けていた顔を上げて周囲を見渡す。辺りの痕跡を観察し、彼は跡の消えた理由をすぐに理解して眉を寄せた。
「……ここから逃げたのか」
跡が消えた場所のすぐ隣には、窓があった。ガラスでつくられていたらしいその窓は何かに強く打たれたのか、機能を果たせなくなるほど凄惨に割れていた。端々には鋭利なガラス片が残っている。ジンはそれを見て、先ほどの資料に見た少女がここから逃げたらしいと推測したのだ。
彼はそこまで理解すると、それらの痕跡に背を向けて廊下を歩きだす。
(今どうこうできることでもない。一応、他の所も見て回っておくか)
ジンはこの研究所で起こった事件について、今すぐにできることはないと判断して先を行く。彼の歩く廊下には、割れた窓から入ってくる夜の冷たい風が走っていた。
ジンが建物内を回り始めてしばらく経った頃、レプトとカスミはお互い姿勢を崩して他愛ない話をしていた。
「そういやカスミ。お前の暮らしてた街ってどんなとこだったんだ?」
「ん……平和なとこよ。それに、食うに困ることは全くなかったし……この辺りより機械とかも多かったわ」
「はぁ~……なるほどな。でも、平和ってのは間違いだろ。お前が攫われてるんだしよ」
「ま、まあ……私が思ってるよりも安全な場所じゃなかったのかもね」
話している内容はさほど重要なことではなかった。
「でも、事件とか、なんなら事故も起きてなかったし……」
カスミはレプトの言葉を肯定しながらも完全には受け入れられていないようで、眉間にしわを寄せて自分の居た場所のことを思い返している。そんな彼女を片目に納めながら、レプトはベッドに横たわっている。眠りにつく気はないようで、足を組み、頭の後ろに両手を置いていた。
そんな風に、二人が緊張感のない時間を過ごしていた時だ。部屋の扉がおもむろに開く。二人はその気配を感じ取って、すぐに扉の方へと体を向けた。彼らの目線の先には、二人が思い描いていた通り、ジンが立っていた。彼はただいまと言う代わりに短く声を上げる。
「戻ったぞ」
扉のすぐそばに立つジンの声を聞いて、二人はすぐさま彼を迎え入れる。
「よっ、おかえり」
「何も問題はなかった? ……って、何それ」
カスミは戻ってきたジンに声をかけると同時に、彼が手に持つ何かに目を取られて疑問に首を傾げる。ジンは、円柱状で金属製の小さい何かを何個も両手に持っていたのだ。
問われると、ジンは少し笑って答える。
「ああ、これか? 運がよかった。恐らく、ここにいた人間達が用意していた非常時用の食糧だろう」
「非常用? ……で、何?」
「ん、見て分からないのか? 缶詰だ」
ジンが手に持っていたのは、大量の缶詰だ。彼は両手に何本も重ねて持っていたそれを部屋の中にある背の低いテーブルに乗せて近くにある椅子に座る。そして、二人にそれらを指し示して言った。
「好きに食べていいぞ。その間に、この建物について少し話したいことがある」
ジンのその言葉に、レプトは缶詰なんて久しぶりだと言いながら手近なものを一つ掴む。そんな彼に、ジンは懐に入れていたらしい包装された割り箸をレプトに投げ渡す。
「ありがとな」
レプトは短く礼を言って一つ目の缶詰を開ける。そんな彼の様子を、カスミは黙ってジーッと注視していた。箸も割って、いざ食べ始めようという時、レプトは彼女のその視線に気付いて動作を止める。
「どうした?」
「い、いや別に……」
「もしかして、開け方とか分からないのか?」
レプトが推測で口にした言葉が図星だったのか、カスミの頬は熱を持って薄ら赤くなる。その様子を見てレプトは小さく笑い、自分が持っていた缶詰と箸を渡す。
「ほら、食えよ」
「……ありがとう」
カスミは自分の無知を恥ずかしがりながらも、レプトの優しさを素直に受け取る。そんな彼女にレプトは、次の食いたくなったら言ってな、と付け加えた。
そんな二人の様子をしばらく黙って見ていたジンは、話の途切れるタイミングを見計らって咳払いをする。
「じゃあ、いいか?」
ジンの一声に、二人は彼がこの建物を見て回ってきたことを思い出し、向き直る。それを確認したジンは、自分が見てきたことをゆっくりと話し始めた。
「まず、この建物に危険はない。だが……」




