無人の研究所
ジンが部屋を出たのを見送ると、レプトは開けっ放しになっていた部屋の扉を閉め、奥にいるカスミの方を見た。彼女は部屋の右側にある二段ベッドの下の方に腰かけ、白いシーツの上で煮え切らない表情をしている。恐らく先のジンとのやり取りについて考えているのだろうが、その合間、彼女は大きく口を開けて欠伸をする。彼女の目からは少しの涙が漏れていて、その欠伸は大分深いようだった。
そんなカスミの様子を見たレプトは、ニヤついて彼女をからかう。
「んだよ、やっぱ疲れてるじゃねえか」
「ああん? ……別に疲れてないとは言ってなかったでしょうが」
レプトの絡みにカスミは低い声と鋭い睨みで返す。棘を隠すつもりがない。レプトは嫌でもその気配を感じ取ったようで、乾いた愛想笑いを上げながらカスミから目を逸らす。
そんな彼を見て呆れたように再び息をつき、カスミはおもむろに口を開く。
「流石に気遣いだっていうのは分かるし、増してや悪気があって言ってるなんて思ってないわよ。ただ、ちょっとね……」
「……」
カスミのこぼした愚痴を聞いて、レプトは気を取り直して彼女の話を聞く。それに気付かないまま、カスミは独りで話すように続ける。
「私は助けてもらったし、今も助けてもらってるしさ。家に帰る手助けもしてもらってるわけだから、少しでも力になりたいのよ」
カスミは自分達がここに至るまでのことを気にしているようだった。
彼女の言葉を聞いたレプトは、フッと笑ってカスミとは別の左のベッドに体を投げ出す。一気に体重をかけられてギイギイという悲鳴を上げるベッドに構わず、彼は細かいことを考えさせないような明るい声で話す。
「まったく、お前もジンも考えすぎだぜ。恩だの責任だのよ。お互い、恩に報いなきゃとか、あまり巻き込みたくないとか……」
「え? 何、ジンがどうしたって?」
レプトの言葉にカスミは身を乗り出して問う。その言葉を聞いたレプトは、彼女の方を向かないままで答える。
「ほら、俺達とカスミって、言っちまえば他人だろ。だからこそ、ジンはお前を危険に晒したくないんだ」
「だからこそって……他人だったら、別に深く気に掛けることもないでしょ」
「そう単純じゃないんだよ、あいつの頭は。義理堅いっていうのかな、関係性が浅いからこそ、自分達の事情に巻き込みたくないんだよ。なんとなく分かるだろ?」
「……まあ」
「あんま巻き込みたくないっていうジンと、力になりたいっていうカスミ。お互い食い違ってるから、さっきみたいになっちまう。まあ、悪いこととは思わないけどよ。お互い善意だし」
レプトは俯瞰的な立場から見ているためか、ジンとカスミがお互いにどういう気持ちを向け合っているのかということを大方理解しているようだった。カスミは彼の言葉を飲み込み、口に手を当てて深く考え込む。
シーツの上で体を楽にしながら、レプトは改めて付け加える。
「まあ、適当に折り合いをつけろよな。今回みたいにちょっとギスるのも俺やだし。俺としてはお前達が傷ついたり喧嘩しなきゃいいからよ。意見が別れた時は自分の意見を交えつつ場を丸く収める方向で動くから、よろしく」
レプトは無責任な言葉を言うだけ言ってそこで話を切った。彼にとっては本当に、カスミとジンが傷を負ったりしなければいいだけなのだろう。
そんなレプトの言葉をカスミはほとんど無視して聞き流し、ジンと自分の関係について考えていた。答えは遠く所在が分からない。すぐに回答が出ないだろうことはなんとなく分かっていたが、静寂の中で、それでも彼女は思考を続けるのだった。
ジンは眼前にあるものを見て、喉の奥から出るようなため息を吐いていた。
彼の立っている場所は、件の建物の中にある何らかのオフィスだ。灯りは問題なく作動しており、周囲を見渡せる。その部屋の中には六台の机と椅子が一組になって同じ方向へ向かうよう整然と並べられており、机の上にはそれぞれパソコンが置かれている。そのどれもが今は暗い闇を映すばかりだ。そして、どのパソコンの脇にも何かしらの資料と思われる紙の束が積み重ねられている。ジンはその紙束の一つを手に取って見ていた。
端が直線になるよう揃えられた資料の表紙には、『個人記録』と記されている。資料の表題だろう。加えて、表紙の右下のスペースには小さく、この資料の持ち主であろう組織の名称が記されていた。ジンはそれを見て、紙束を握る手に力を込める。
「エボルブ……」
表紙の右下には『Evolve』という表記があった。つまり、エボルブという組織がこの場所を用いて何らかの活動をしていたのだろう。このような森の中にある建物に、別の組織や団体の資料が混ざり込むなど考えられない。そして、この場所が研究機関エボルブのものであるとするなら、ここでは何かしらの研究が行われていたのだろう。
それらの事実を踏まえて、ジンは顔を上げて前方を見る。
彼の目前にはオフィスとは別の部屋があった。何故その別の部屋というのがジンのいる部屋から見えるのか。それは、彼のいる部屋とその部屋がコンクリートの壁で隔たれているのではなく、透明なガラス板によって隔てられているからであった。二つの部屋は片側から片側の様子をうかがうことができるような関係になっていたのだ。加えて、ジンのいる部屋のパソコンや机はガラスで分けられた部屋の奥を見るような向きに整頓されている。
ガラス奥の部屋はジンの居る部屋とはまるで状況が違った。ジンのいる部屋が全く整った清潔感のあるオフィスであるのに対し、向かいの部屋はひどく乱れていた。いや、乱れているというより、中で大きな火事でもあったかのような状態になっていたのだ。壁、床、あらゆる場所が何かが焼けたような黒い跡に覆われ、この建物の内部一面を覆っていた白を基調としたタイルや壁は見る影もない。何かしら危険なことが起こったらしいことがうかがえる。
ガラスの奥の部屋は一面が真っ黒で中の様子を観察しづらくはあったが、その中身はジンのいる部屋とは全く違う内容となっていた。部屋の中央に、大きめのベッドがあるのだ。そのベッドはどうやら寝るためのものではないらしく、上半身を支えるのだろう部分は上に角度をつけてあった。加えて、側面には用途の分からない器具が大量に備えられている。
ジンは奥の部屋の様子を見てから、再び手に持つ資料に目を落とす。表紙をめくり、中身を見た。資料には手書きではないコンピュータが記したであろう字が大量に羅列されている。どうやら日付を分けて何かの記録を取っているらしい。ジンはそれを全て丁寧に読むことはせず、飛ばし飛ばしの斜め読みをした。




