今の嘘吐き
それは、雨の降っている日だった。リアは傘を差していつもの場所に立っていた。話に聞く通りの閉鎖的な場所なら傘もないのだろうかと思い、彼女の手にはリュウの分の傘が余計に一本握られている。もし傘がなければ雨を浴びてまで来るのだろうかという危惧がリアにはあったが、何故だかリュウは来るだろうという勘を根拠に、彼女はいつもの通りにここに来ていた。
草花は雨を受けて俯き、開けた空間の空でさえずっていた鳥達も雨の中では全く飛んでいない。周囲に響くのは、ただただ雨のつぶてが地面をたたく音だけだった。そんな中で、リアは余計な一本の傘を地面について支えにし、出来るだけ体を楽にしてリュウのことを待っていた。
そうしてリアが一人で待ち続けて、数十分の時。雨が地面を打つ耳障りな音に混じって、質量のあるものが水を含んだ地面に落ちる音が断続的に聞こえてくる。リアは一瞬雨の音のせいでその音が何なのか分からずにいたが、すぐに知ることになる。
「リアッ!!!」
異音に戸惑っていたリアの視界に、リュウが入ってくる。傘や雨を避ける道具を持たずに、彼は土砂降りの雨を全身で受けながらリアの目の前まで走ってきた。声を耳にすると、リアはリュウの方を振り返ってとりあえず彼の体を傘の中に入れる。二人の体を雨が濡らす。
「どうしたの? すごく……急いでるみたいだけど」
リアの視界に収まったリュウは、腰の下までいくつもの箇所を泥でよごし、激しく肩で息をしていた。先に聞こえたリアの名前を呼ぶ彼の声は悲鳴とも取れるほど震えており、尋常ならざる状況であることを他者に理解させるには充分なほどの危機感を含んでいた。彼はリアの前まで辿り着くと、息を整えることも後に回すかのような必死さで早口に語る。
「はっ、母上が……倒れたんだ!」
「……ッ!」
「急病で……意識はあるけど、でもよくないんだ! だから……」
「分かった」
リュウの言葉を最後まで聞かずとも、リアは彼の求めることを理解したらしい。一刻の猶予もないこの状況で説明に使っている時間は勿体ないと判断してか、彼女はリュウの言葉を遮り、これから二人がどうするかの計画を急ピッチで立てようと早く口を回す。
「お父さんを呼んでくる。私もお父さんもリュウ達の暮らす里の場所は分からないから、ここに連れてくるね」
「はっ……はぁ、分かった。僕は外で医者が見つかったって……報告してくるよ。そしたらすぐにまた戻ってくる。きっと間に合うから」
「うん、それでいいよ。じゃあ、私もすぐにお父さんのこと呼んでくるから」
必要最低限のやり取りだけを済ませると、リュウとリアは長年連れ添ってきた仲のように目を合わせて頷き合うと、お互いに背を向けて走り出すのだった。
轟々と鳴り響く雨風に晒されながら、十歳を過ぎたかという年頃の少年と少女が走る。両者の顔には不安と焦燥しかなかった。しかしそれでも、助けられるかもしれない命を救おうと奔走している。それが自分にとって好ましくない人の命でも、自分の運命におよそ関わりの無い人の命でも、彼らは走ることを躊躇わなかった。一方は自らの信条に誠実であるために、一方はかけがえのない人の家族を守るために。
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レプト達のレフィ救出より、半年ほど前……
リュウは一人、エルフの里の周辺を歩いていた。深夜というほどの時分ではないが、冬が始まったくらいの時節で森には冷たい風が吹き抜けている。季節のこともあってか、森の中であるというのに虫の鳴き声はそこまで聞こえてこなかった。
静寂に包まれる森の中を、リュウは一人で歩き続ける。彼の周囲に響く音は、草履が地面の草や枝を踏む乾いた音だけだ。目の前すら危うくなりそうな森の暗闇を前にするリュウだったが、彼の歩調にブレはない。暗闇の中でも迷うことが無く、一つの目的地に向かって真っ直ぐと歩いているようだった。
リュウが里を出て一時間弱ほど。目的地に彼は辿り着いた。それはこの時点からすると未来に、レプトとジン、カスミが一晩を過ごすことになった研究施設だ。つまり、レフィの体に実験を施していた場所。半年ほど前のそこは、まだ廃墟になってはいなかった。数の少ない窓からは明かりが漏れている。未だに中で研究を続けているのだろうか。建造物の様子を地面から見上げて確認していたリュウだったが、ふと、彼は脇に目を逸らす。
「…………」
リュウが目を向けたのは、一つの切り株だった。それは子供が座るには心地いい高さをしていたが、この状態になってからしばらく時間が経つらしい。地面から伸びる草やツタに侵食されて茶色の幹をほとんど表に残しておらず、座るには草を踏みつけにすることになり、少し憚られる。その切り株を目にしたリュウは、思いがけず遠い日のことを思い返し、夜の闇に吐息を一つだけ漏らした。
(誰にだって嘘を吐くよ、リア。命を助けるためなら。万人を助ける聖人にも、死ぬしか価値のないクズにも、僕自身にも)
リュウは切り株から目線を逸らし、研究所に背を向けた。その背には、夜の森を覆う闇の帳よりもずっと暗い、粘着質で、それでいてひどく冷たい暗雲が付着していた。
そして、彼が研究所を後にした丁度その時だった、研究所の一枚の窓の奥に人影が写り込む。その人影はどうやら外を歩くリュウを見下ろしているようだった。黒髪の、眼鏡をかけた女性。暗雲に付きまとわれるリュウは、背後のその女性の視線に気が付かなかった。




