雨上がり
二人の喧嘩の決着はすぐについた。それは、彼らの争いがあまりに幼かったためである。互いにこれまで身につけてきたであろう戦闘の経験や術理などは一切使わず、ただ、感情のみを乗せた拳で相手の顔面を殴ることにだけ彼らは集中していた。且つ、二人は自分を守ることよりも相手を殴りつけることだけを考えているようだった。一切の防御行動を取らず、相手を思いのままに傷つける事だけを頭に入れた彼らの消耗が早いのは自明だ。
結果は引き分けだった。レプトとフェイは互いの頬に振り抜いた拳を最後に地面に倒れ込んだ。雨に濡れた地面にうつ伏せに横たわる彼らだったが、喧嘩の最中そこら中の水たまりに身を落とした彼らが気にするところではなかった。それよりも、いくつもの箇所を切った口内と、青あざだらけの顔面の痛みに耐える方が先に来ていた。
「チクショウ……」
「いてえな……」
二人は痛みに声を漏らしながら、しばらく冷たい道路の上でただ倒れていた。何をするでもなく、彼らの間にある時間が過ぎ去っていく。そこにある静寂は真夜中に吹く風のように冷えていた。
しばらくして、フェイが先に体を起こす。彼はうつ伏せの状態から近くの街灯に背を預けるように上体を起こし、大きく息を吐いた。同時に、彼は手近にうつ伏せで倒れていたレプトのフードを掴み、引っ張り上げようとする。すると、レプトの方は立ち上がらされて再び喧嘩を始めるのかと警戒し、身を固めた。
「クソ、まだ……」
「やらねえよ。馬鹿が……もう十分だ」
レプトの危惧を否定し、フェイは彼の体を引っ張り起こす。そうして乱暴に自分の隣に座らせると、レプトの服から手を離し、大きくため息を吐いた。
「……ったく。今の喧嘩、不毛なんてもんじゃなかったな。悪いのはお互いじゃないっていうのはよく分かってるのに」
フェイの、直前の喧嘩を全否定するかのような言葉に、レプトは顔を俯ける。彼の中では未だ、悶々とした苦悩が解消されないのだろう。そんな彼を目の端にすると、フェイは顔についた雨水や血を拭いながら続ける。
「お前もよく分かってるだろ。ジンさんがこんなことになったのは、俺のせいでも、お前のせいでもない。クソな奴らのせいだ。あと、色々タイミングが悪かった。だからこんな運命になった。俺が話せなかったのも事情だし、お前が命を張れないのも当たり前のことだ」
「…………」
「けど、お互い言い合わないとスッと次にいけない。落ち度は……ないわけじゃなかったからな。俺にも、お前にも」
フェイは痛む口内の傷を避けようと、口を大きく空けたり変な形にしながら、ボヤくように言う。そんな彼の言葉を受けて、だんだんと心のわだかまりが解けてきたのだろう。レプトはフェイの方へチラと目をやると、舌打ちをし、小さく頭を下げる。
「……悪かった。先に原因つくったの、俺だから」
「いや、いい。こういうことになりそうなの、分かってて外に連れてきたんだからな。というかしたいと思ってた」
「……は?」
フェイの、まるで喧嘩がしたかった、というような言い方にレプトは目を丸くする。口までぽかんと開けた表情の彼の顔は、唖然と言う言葉がぴったりだ。
「喧嘩になるのが分かってたはともかく、したいって何だよ」
「そのままの意味だ。殴り合いっていうのは、少し気に入らない所のある相手との気持ちの整理をつけるのに一番だ、そうだろ?」
「…………」
フェイの言葉を理解できず、レプトは頭を抱える。だが、あくまでフェイは自分の言葉が正しく、他者にも理解される物なのだと考えているのだろう。汚れはあるが清々しい顔で夜空を見上げた。
「お前に先にやらせてすまなかったな。どうもガキじゃないなって年になると、自分から殴りにいくことが億劫になる。スッキリするって分かってるのにな」
「……そうかよ。随分、妙な奴だったんだなお前」
これまで敵としてしか接してこなかったフェイという人物の意外な一面を目にしたレプトは、微妙な顔で隣の彼を見る。喜ぶような気持ちでもなく、疎ましく思う気持ちでもないその心を胸にしながら、彼は小さく息を吐く。
「ジンさんは、まだ死んだと決まったわけじゃない」
ふと、フェイが呟く。レプトが彼の声を耳にして顔を上げて見てみれば、フェイは真剣な眼差しで目の前の水たまりを見ていた。暗い道路に溜まった雨は濁り、そこに映るフェイの顔も歪んでいる。
「危険な状態なのは間違いないが。それでも諦めるわけにはいかない。助ける手段はあるはずだ。……絶対に連れ戻す」
「……そうだな」
フェイの顔に揺らぎはない。それを見たレプトも、同じようにジンを助ける決意を固めるのだった。二人にとって恩人であるジン。二人の中で彼を助けるという意志に相違はなかった。
互いの意志を確認し合うように話に区切りをつけると、フェイは大きくため息を吐き、レプトに興味を向けた。
「レプト、お前ジンさんには二年近く世話になってるだろ?」
「……え。そうだな」
「あの人がいなくなってからすぐ、か。初めて会ったのはどこだったんだ?」
「ん、そう言われると、覚えて……ねえな」
フェイの問いに答えようとしたレプトだったが、すぐにその口を閉ざす。思い当たる場所が無かったのだ。ジンとは常に共にいたはずなのに、最初に会ったのがどんな場所だったのかが思い出せない。どころか、彼の中の記憶は多くを欠いていた。それを、レプトは素直に口にする。
「どんな時に会ったのかも、よく覚えてない。まあ、研究所を出てからはがむしゃらだったし、それで、かもしれねえが……」
「研究所、ね。クラスの話は本当なのか……」
「え、フェイ。お前まだそんなこと疑ってんのかよ」
以前からずっと問題になっていたフェイの不信が未だに解決されていないのかと彼の言葉を聞いたレプトは顔をしかめる。だが、それに反してフェイの表情は緩い。
「疑ってない。どうとも思ってないだけだ。俺に関係あるのは、どっちかっていうとリベンジの事や、メリーやジンさんの事、だからな」
「……でもお前、俺の事を国に仇なした大罪人、みたいなこと言ってたじゃねえか」
「そりゃ、お前をダシにしてジンさん助けるつもりだったしな」
「テメェよぉ……」
平然ととんでもないことを口にするフェイの横顔を、レプトは思い切り睨みつける。しかし、流石に殴り合いの喧嘩で消耗しきっていたようで、これ以上の怒号を上げるつもりにはならなかったらしい。レプトは大きくため息を吐くと、喉の奥にまで来た言葉をそれと一緒に捨てるのだった。
そして、そんな風に二人が肩を並べて話していた時だ。
「やっぱりこんなことになってたんだ」
喧嘩からのけだるさに顔を俯けていたレプトとフェイの前から声がする。顔を上げるとそこにはリュウがいた。彼はやれやれと言うように頭を軽く掻きながら、ジトッとした目線でフェイのことを睨む。
「だから僕が話すって言ったんだ。こんな怪我するまで喧嘩するなんて……汚いし」
「やりたくてやったことだ。別にいいだろ」
「ふぅん。君って喧嘩好きなんだ。分からなくもないけどさ。こういう神経張らなくちゃいけない時にすすんで怪我するのは良くないと思うよ」
ジルアと遊びとはいえ手合わせすることに愉快さを感じていたリュウは喧嘩も同じようなものだと思ったのだろう。強く咎めるような語勢ではないが、ちゃんと釘を刺す言葉でフェイを注意する。その後で、彼はここまで怪我を背負った体で二人を探しに来たわけを話し始める。
「今後どうするかが決まったから、一応話しに来たんだ。喧嘩してたらその仲裁も兼ねてやるって感じでね。その様子じゃ、後者は必要ないみたいだし……」
前置きした後で、リュウは緩い表情を顔から消す。彼は説明を続けた。
「とりあえず明日、リベンジの拠点を見に行く。もしあいつらがそこにまだいたら、他に助けを呼んで協力してもらう。僕達だけで解決できることじゃないからね」
「……俺はもう軍人じゃない。リベンジを倒すとして、助けに当てはあるのか」
「ピースに声をかけるのが良いってメリーは言ってたよ。彼らもリベンジには始末をつけたいと思ってるだろうし、国と事を構えるってわけじゃないからね。それに、あいつらを抑えれば、ジンの安否も確認できる」
ジンの状態、それを最優先にした方針は恐らく先ほどまで車に残っていた者達が立ててくれていたのだろう。とりあえずの目標を手に入れたレプトとフェイは、張った気を楽にするように肩から力を抜く。そんな二人を目にすると、リュウはサッと彼らに背を向けた。
「じゃ、僕もう戻るから」
「えっ……お、おいッ! 待ってくれよ」
レプトは淡泊な対応をするリュウの背に思わず頼りない声を上げる。彼の声を受けると、リュウは面倒臭いという感情を一切隠さずに振り返った。
「少しくらい介抱してってくれてもいいだろ。なんなら歩くのだるいし、背負ってってくれよ」
「女の子ならまだしも嫌だよ男なんて。それに濡れてて汚いし臭いし……」
「……そこまで言うか?」
「ともかく、好きで喧嘩したんだから自分達で責任取りなよ。それじゃ」
リュウは適当に手をひらひらと振りながら、怪我人を置いて夜道を一人で歩いていく。そんな彼の背を、レプトは睨み、フェイは少しの笑みを浮かべながら見送るのだった。
「いい仲間を持ったな」
「どこがだ。薄情なひでー奴だよ」




