大切なもの
「ジンさんッ!!」
恩人が危機的状況に陥ったこの時、フェイは咄嗟にジンの方へと走って行こうとした。しかし、その腕をシフが掴み、止める。彼女の顔には強い恐れと、その奥に確かに存在する冷静さがあった。
「とても間に合わないよ! 彼は諦めるしかない」
「駄目だッ! 見捨てられないッ!!」
「考えてよこのままじゃ三人とも死んじゃう! 走れない人を背負って逃げ切れるほど簡単な状況じゃないのは分かるだろッ!?」
ジンの方へとにじり寄ろうとするフェイの腕を、シフは固く握りしめる。彼女の顔には命の危険を目の前にして剥き出しになった生への執着心が見える。フェイの腕を掴む彼女の手はガタガタと震えていた。哺乳類の生まれたてのように痙攣するそれを、フェイが振り払うのは簡単だろう。だが、彼は振り払えなかった。
「パートが先手を打った、今だッ!!」
森の奥、リベンジの拠点のあった方から声が響く。同時に、雨が降りしきる木々の隙間から、武器を持った者達が迫ってきているのがちらほらと見え始めた。フェイがシフの手を振り払えないのは、それを目にしたことによる恐怖のせいだ。シフの言う通り、意志のままジンを助け、背負って逃げようとしても完遂出来ないことは明らかだ。ジンににじり寄ろうとしていた彼の足は、彼の腕を引っ張るシフの方へ、危機から遠ざかろうと自然に動いていた。
(見捨てる……ジンさん、を……)
だが、理性が未だに本能を止める。今や木々の向こう、そのすぐ奥に控えたリベンジ達を前にしながら、それでもフェイはジンを助けたいと考えていた。彼の視線は、背後の敵に警戒を向けるジンの背に向かっている。
しかし、無慈悲にも時間は進む。フェイが惑っている内に、彼が助けるべきジンの元へリベンジの先頭が辿り着いた。つまり、最早彼を助けるには手段もなく、何より、フェイ達自身も危険を目の前にした状態になった。その状況にひどく動揺したのはシフだ。彼はフェイの腕を掴む手を大きく揺らし、呆けている彼の頭に怒鳴り声を上げる。
「早く逃げようッ! 僕達まで死ぬ必要なんてないんだ!!」
シフの声を受けても、フェイは判断を下せずにいた。彼はまだ虚ろな目でジンの方を見つめている。今やジンを取り囲み、こちらに向かって来ようとしているリベンジ達を、彼はどこか別世界の事のように感じていた。それは、大切に思うものを守れず、見捨てるしかないというこの状況に割れ、ひびの入った感情の影響だろう。フェイは目を見開き、口を開閉させながら四肢を動かすことが出来ずにいた。
そうして、フェイとシフの元へリベンジが辿り着こうとしていた時だ。その直前、二者の間に高い火の壁が立ちはだかる。まるでリベンジの接近から二人を守るようにその壁は雨の中で立ち上がった。事態の急変に、シフは炎が発生した左の方を見る。左方には、木々の緑の中でひどく目立つ赤の髪の少女、レフィが立っていた。彼女は苦悶の表情で火の壁に手をかざし、叫ぶ。
「この雨の中じゃ長く持たねえッ!!」
「分かってる!」
能力の維持に奮闘するレフィの言葉に応じるもう一つの声、その主は彼女の背後から現れたメリーだ。彼女は手に持ったいくつもの手榴弾を、気合の声を上げて炎の壁の向こうに投げる。水分を多く含んだ地面に嫌な音を立てて着地すると、その瞬間、彼女の投げた手榴弾は全て大量の煙を吐き出す。壁の向こうにいるリベンジ達は動揺の声を上げながら、各々の所在を確認しようと指揮を取っている。
そんな彼らの隙を突き、メリーはすかさずシフとフェイの傍に走り寄った。その瞬間、シフはメリーに抱きつき、悲鳴を上げる。
「メリーッ!!」
「シフ、無事でよかった……。私達の来た方、少し走ればカスミがいる。先に行っててくれ」
「で、でもっ……」
メリーの胸から顔を上げたシフは、後ろを振り返る。視線の先には、未だ動揺に頭をやられているフェイがいた。メリーは彼のことを目にすると、一瞬だけ目尻を震わせた。だが、すぐにそれを消し、いつもの表情を取り戻すと、シフに退路を分かりやすく指で示す。
「私が連れてく。だから先に行け。あっちだ」
「……分かった」
メリーの言葉、そして彼女の顔に覚悟を見出すと、シフは震えた声で頷き、走り始める。メリーはその背を見送ることはせず、フェイの方をずっと見ていた。視線を向けられているフェイは、未だ炎の壁の向こうを焦点の合わない目で見つめている。幼少の頃の喪失より遥か長く味わっていなかった大切なものを失うという事実を、受け入れきれていない。生きるために必要なことを分かっているはずなのに、それすらできずにいる。
メリーはそんなフェイの両肩を掴み、体の向きをこちらへぐいと向けさせた。そして、目の前に来たフェイの額に自分の額を合わせ、小さく声を上げる。
「フェイ、聞いてくれ」
フェイの耳には、リベンジ達の怒号、雨音、ごうごうと燃え盛る火炎、その全てが遠くに聞こえる。彼の聴覚が明確に捉えるのはメリーの言葉だけ。しかし、彼女の言葉はすぐ前から発されているというのにひどく静かだ。
「私はお前を失えない。そんなことには、とても耐えられない。だからフェイ。逃げる選択をしてくれ。頼む」
「…………」
「お前の中で一番大切なものは何だ。……それを守れる選択を、それ以外を失ってもその選択を、通してくれ。私もそうしてる。だから……」
言葉を聞き始めた初めの時には気付かなかった震えにフェイは気付く。フェイの肩に置かれたメリーの手が、小さく震えているのだ。彼女は崖にしがみつくような力で彼の肩を握っている。そんな手を緩めることなく、メリーはフェイから額を離し、フッと笑った。
「今、決めてくれ。付き合うからさ」
数日前、ネバにも言われたことだ。その時には定められたつもりでいた答えだったが、フェイはその判断を下せずにいた。大切なものを決めていながら、それを守れる選択肢を取る時に失う他に目がつく。全部助けるとあの時豪語したのに、今、それは到底出来ない状況にある。
既に時間はない。フェイの視界の端では、既に炎の壁が消えかけている。敵を包み込む煙は未だ真白に森を包んでいるが、それが晴れるのもすぐだろう。そうなれば、今この場にいるレフィも、自分もメリーも命の危険に晒される。
「……ジンさん、すみません」
フェイはメリーの手を肩からそっと優しく外し、炎の壁の向こう、リベンジに捕えられたジンの方を見る。彼の目にその姿は見えないが、彼の脳裏にはジンに助けられてきた記憶がよぎっていた。彼は師に恩を返せないまま背を向けることに謝罪すると、メリーの手を取り、レフィの方へ走り出す。
「すまない、待たせた」
「っ……もういいのか」
「ああ」
レフィは二人が逃げることの出来る状態だと判断すると、少しの間自らの立ち上げた巨大な炎の状態を見やり、すぐに振り返って頷いた。それに、メリーもフェイも首を振って返し、三人は走り出す。先頭を二人に走らせ、しんがりを走るフェイの頬には雨の雫が流れ落ちていた。
何かを見捨てて自分と最も大切な者を取る判断をした彼を責め立てるように、雨は曇天から激しく降り注ぐのだった。




